非実在界の現象人間のあらゆる行為は、「想念」によって事物や事象の現象が起こります。無から有が起こるのは、こうした想念が具現化しただけのことであり、想念が物質に働いて物質的なものを求めますと、物質文明が発達しますし、想念を精神的なものに傾けて行きますと、霊的世界の現象が発達を始めます。
つまり「想念」を何処に設定するかで、物質的にも精神的にも異なった現象が起こり、この宇宙は、想念によって構成されていると言う事になります。
したがって「死の演出」も想念によって起こり、自分がどの死を選択して、「死にざま」にするかは、想念によって決定されると言う事です。
つまり「死にざま」が、前生の「生きざま」と深く関わっていて、喩(たと)えば、死を恐ろしく思う人は、臨終に際して、手・足(特に脚や膝)がガタガタと震(ふる)えます。
これは普段でもそうですが、恐怖に直面した時、人は怕(こわ)さのあまり、震えるという一種の精神的な痙攣(けいれん)を起こします。この痙攣が肉体に伝わり、「震え」と言う形を顕(あら)わすのです。
死に際して、こうした震えの出る人は、末期ガン患者に多く、また、腎不全で尿毒症を起こしている場合は重症の中毒症状が現れていますから、嘔吐・下血・意識障害・貧血・肺水腫(はいすいしょう/肺の間質および肺胞中に多量に漿液がたまって、ガス交換をさまたげる状態で、泡沫状の喀痰を出し、呼吸困難を来す)・漿膜炎(しょうまくえん/脊椎動物の体腔内面および内臓の体腔に面した表面をおおう薄膜。腹膜・胸膜などの炎症)等を生じつつ、臨終が近付きますと痙攣が起こり、手や脚や膝を震わせ、ついには昏睡(こんすい)に陥ります。
これと似た状態で死んで行くのが、交通事故による頭部破損の事故死です。
自転車やミニバイクに乗っていて、大形トレー等の後輪に巻き込まれて死亡する場合、頭部を車輪で轢(ひ)き潰されるということが少なくありません。
こうした場合、まず頭部は完全に轢き潰されていて、胴体に僅かながらの破損があり、手足は殆ど無傷であると言う場合が多いようです。こうした事故の直後、被害者は頭がないのにも関わらず、手足をばたつかせたり、何かを必死に掴(つか)もうと藻掻く仕種(しぐさ)を示します。
この仕種こそ、まさに典型的な横死のパターンであり、死亡した被害者も加害者も、悪想念で描いた地獄へと、真っ逆さまに墜(お)ちて行きます。それは「想念」が予定を具現させ、《予定》が確かな現実として結果を齎(もたら)し、結果に沿った原因が作り出されると言う事実に裏付けされています。
地獄は本来存在しませんが、自分で作り出している想念で、地獄が出来上がっている場合、現象人間の行動は、その地獄へと直行してしまいます。
頭部を轢き潰されて死ぬ、死にざまと非常に酷似した「死にざま」が爆死自殺です。爆死の場合、手榴弾(しゅりゅうだん)等の爆発物を使って自殺しますから、膝から上の肉体は粉々になってしまいます。非常に無惨な最後と言えますが、また、こうした爆死自殺も、想念が描き出した地獄へと真っ逆さまに落ちていきます。
交通事故死も、爆死(自殺他殺を問わず)も、紛れもない「横死」であり、自分の想念の描いた地獄へと直行します。ここに前生から引き継いだ業(ごう)の世界があり、業が齎す転生は未来に亘って繰り返されます。こうした業の発生は、下に向けられた「軽蔑(Scorn)」であり、あるいは上に向けられた憎しみで「恐怖(Fear)」が、横死を形作るものです。
これと同様に、対等な憎悪の想念は、怒り、闘争心、侮蔑、暴力、攻撃、嫉妬、傲慢、優越感等で示され、いずれも表面化し、こうした情動が、「人間」対「人間」の場合は敵対者となって、激しい憤怒(ふんぬ)と共に敵愾心(てきがいしん)が起こります。
最初から手を繋ぎ、お互いを認めあう気持ちがありませんから、心の深層部に対立構造を作り上げて「傷つけ合う(Mutual Injury)」という行動に出て、「傷つけ合う」想念が「恐怖」を呼び込むのです。
そして、「憎しみ」というのは、「苦しみ」と「不幸」によって相互に分離するのです。
●『戦陣訓』とサイパン島での出来事

▲サイパン島での日本女性達の身投げ。島の崖淵から身を投げる日本女性。昭和19年7月7日、サイパン島はアメリカ軍の猛攻によって完全に攻略された。
その時、悲惨を極めたのは、アメリカ軍攻略後も居残っていた一般市民の非戦闘員達だった。男達の多くは陸海軍の兵士と共に戦って「万歳攻撃」で死んでいたが、女性や子供達はサイパン島東北部のマッピ岬に追い詰められた。
当時の日本人には、東条英機の『戦陣訓』が重くのしかかっていたので、「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」の言葉通り、自らの命を、身を投げることによって断った。
私たち日本人は、昭和19年7月7日の悲惨な出来事が、もう既に、歴史の中から忘れ去ろうとしています。そして、この日の惨劇を知っている人は、非常に少なくなりました。
しかしこの日、確かに、岬の崖淵(ぜっぺき)から、約四千人もの命が消えたのです。
サイパン島北東部のマッピ岬には、当時約四千名の邦人女性や子供らが、上陸して来たアメリカ軍から追い詰められ、この岬の崖淵に終結していました。
そしてここで多くの人は、東条英機が発した『戦陣訓』(【註】この『戦陣訓』は、東条英機が今村均中将に命令して作らせた捕虜になる事を戒めた訓書)の言葉通りに、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けることなかれ」を実行したのでした。
母親たちは、泣叫ぶ我が子を抱いて、崖淵から海へ飛び降り、娘たちは車座になり、お互に別れの言葉を告げた後、手榴弾(しゅりゅうだん)をそ、の輪の中で爆発させて死んでいきました。
アメリカ軍はこうした日本女性の死に対して、マイクで投降(とうこう)を薦(すす)めましたが、この投降に、誰一人聞く耳を持つ人はいませんでした。片言(かたこと)の日本語で、投降を薦めるマイクの声は、風に吹き流されて消えていくばかりでした。
そして、アメリカ軍兵士がもっとも恐怖を感じたのは、次々に自決を決行する、日本人女性が、誰一人として悲鳴等の、声を出さず、笑顔でお互にお別れを言って、次から次へと我が身を崖淵の上から投げ、死んでいったのでした。何と哀れで、悲惨な死に方でしょうか。
時の日本政府・東条内閣と、大本営陸海軍部は、サイパン島でのこうした悲惨な出来事を一切公表しませんでしたが、一部の人は、アメリカの放送でサイパンの悲劇を知っていました。やがて東条内閣は、この事件で失脚を余儀無くされます。
しかしサイパンでの悲劇とは裏腹に、
自らが発した『戦陣訓』を実行できずに、拳銃自殺を図った東条は、自分一人では自決すら出来ずに、自殺の真似事をして生き残ります。
東条は、予々(かねがね)将兵達に対して『戦陣訓』の一節を持ち出し、「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」を繰り返し豪語していました。
これは、絶対に捕虜になっては行けない。捕虜になりそうな時、あるいは敵に包囲された時は、絶対に投降などせず、「自決せよ」と訓辞を垂れていた東条自身が、自殺の真似事をして生き残るのですから、何とも日本の軍隊官僚は無責任で、お粗末な集団であった事が分かります。
日本の軍隊官僚と言うのは、陸海軍の両軍とも同じなのですが、下級将兵に対しては非常に厳しく、佐官クラスの上級将校に対しては寛大であり、将官に対しては、遣り放題という上下の関係式が出来上がっていて、下へ行くほどこの関係式は厳しくなり、特攻隊員のような、学生上がりの素人を即席の軍人に仕立て、無駄死をさせても、心が殆ど痛まないと言う上級将校がうようよ居て、戦前は天皇の名を以て多くの若者を死地に向かわせ、戦後は天皇の名を以て、「日本の戦後復興?」と言う如何わしい名目で、むざむざと生き残ります。東条も、その一人だったのです。
多くの下級将兵や、一般市民の非戦闘員までが、東条の発した『戦陣訓』の為に降伏したり、投降する日本兵や民間人や軍属は、極めて少ないものでした。多くの下級将兵達は、捕虜になる前に、自分で自分の命を断ったのでした。

▲東条英機陸軍大将。

▲拳銃自殺?に失敗した東条英機。
しかし東条は、拳銃自殺?で自決のポーズを作っただけでした。
高級軍隊官僚が、戦後もおめおめと生き残ると言う事は、戦争犯罪人としてそれ迄の戦争指導の責任が問われるという事であり、要するに裏を返せば、「生きて虜囚の辱め」を享(う)けると言う事でした。
戦時中の捕虜は、脱走を企てたり、暴動を起こさなければ処刑される事はありませんが、敗戦によってその戦争責任が問われれば、「戦犯」として銃殺されたり、絞首刑になったり、懲役刑が課せられる事は免れません。最早こうなると「虜囚の辱め」どころではありません。
したがって国民の関心は、日米開戦当時の総理大臣であった東条の行動であり、国民の多くは、東条は必ず自決するだろうと考えていました。しかし東条は、一瞬脳裡に自決を考えたかも知れませんが、その行動には迷いがありました。迷いがあるから、一発の拳銃弾で自決をする事が出来なかったのです。
この東条の行動と、サイパン島の崖(がけ)の上から身を投げた多くの女性達の、迷いのない行動とは、天地の開きがあります。東条にとっては、また「死」も「迷い」であった訳です。
更に、『戦陣訓』には第七の「死生観」という項目があり、これには「生死を超越し、一意任務の完遂に邁進(まいしん)すべし。心身一切の力を尽くし、従容として悠久(ゆうきゅう)の大義に生まれ来ることを悦びとすべし」と謳(うた)われています。つまり「七生報国」のような、「死んでは生まれて来て、また死ね」と言う、無間地獄を下級兵士に強要しているのです。
しかし、これを発した側や、当時の陸海軍の戦争指導者を含む、東条を始めとする軍上層部は、敗戦に及んで、余りにもお粗末な身の処し方によって、『戦陣訓』が全くの虚構であったと言うことを証明するに至りました。
そして、ここには下級兵士の命を、弄(もてあそ)んでいると言う現実が否めません。
こうした、戦争指導者に弄ばれた戦死者の霊は、恨みを残して、軍首脳に「騙(だま)された」「利用された」「欺(あざむ)かれた」「裏切られた」と思うのは当然であり、特に、フィリピン第四航空軍の軍司令官冨永恭次の特攻隊員を送り出す時に言った、「諸君は既に神である」と述べた後、「君達だけを死なせはしない。最後の一機で私も敵艦に突入する」と激励したこの言こそ、死者を欺いた最たるもので、その後、冨永は、マニラにアメリカ軍が上陸して来ると、護衛付きの戦闘機を仕立てさせ、フィリピンから台湾の投北(トウペイ)温泉へ「敵前逃亡」を図ります。
そして戦後は、自決することもなく、政府から高額恩給を貰いながら、安穏とした生活を楽しみます。
果たして、冨永の言を信用して特攻に向かった搭乗員達の霊は、欺かれたり、裏切られたりして成仏出来たのでしょうか。
否、こうした死者の霊は、生き残った陸海軍の将軍や提督が、虚構理論を作り上げて、自分達を死地へ追いやった事ぐらい、既に承知しているのです。だからこそ、欺かれた死者の霊は、今なお、鎮(しず)まる事がないのです。不成仏霊の製造者は、実は、敗戦におめおめと生き残った陸海軍首脳の将軍や提督達だったのです。そして東条も、その一人でした。

▲東京裁判でA級ならびにB級戦犯容疑として裁かれる東条英機。後にA級戦犯として絞首刑となる。
死に迷った東条は、左胸を狙って拳銃の引き金を引いた後、その拳銃の銃口が捻れていた為か、弾丸は心臓を外して、一発では死ねませんでした。
東条は瀕死(ひんし)の重態のような語りで、「一発で死にたかった」「時間がかかって、直ぐに死ねなかった事が残念だ」と途切れ途切れに語ったと言います。
その後も、東条は「大東亜戦争は正しい戦いだった」と言い、「最初切腹を考えたが、ともすれば、やり損ないがあってはと思い、拳銃の自決を思い立った」と中々の雄弁振りであったと言います。そして銃弾を発射して、15分経っても色々と言い訳がましい事を喋り、ついにその後、連合軍の裁判による東京裁判の軍事法廷の被告席に立たされる事になります。
そして、
東京裁判によるマッカーサーの意図は、東条を連合軍の裁判でA級戦犯(侵略戦争を計画し、実行に移し、遂行した「平和を乱した罪」で、裁判後は巣鴨に収容された)にするだけではなく、捕虜虐待等の名目で、自国でもできるB級戦犯(戦時国際法に規定された「通例の戦争犯罪者」を指し、捕虜の虐待等がこれであり、それを上官の命令で実行した兵士がC級戦犯とされ、いずれも多くの罪を被せられて有罪となり、処刑された。また、大半は無実であり、冤罪も少なくなかった)として裁判にかけようとしていたのです。 A級戦犯は、当時の戦争指導のような大物に課せる戦争犯罪容疑でしたが、B級戦犯は戦争犯罪者として戦争現場で命令を下した者を処罰する犯罪者に科せられるもので、まず、最大の戦争犯罪者として東条に辱(はずかし)めを与えることを目的にしたものでした。しかし、このマッカーサーの目論みは、アメリカ本国の反対で潰されてしまいます。
戦争における横死は、戦争指導者も、戦争に応呼して武器を取った者も、非戦闘員のように逃げ惑った人も、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の中で、筆舌に尽くし難い地獄を彷徨(さまよう)う事になります。
日中戦争から太平洋戦争敗戦に至るまで、当時の陸海軍の将軍や提督達は好戦的で血に飢え、勲章をもらう事ばかり考えていました。
「戦争を知らない子供たち」とは、等しく昭和20年8月15日以降の、戦後生まれの世代を言うそうですが、戦争を知らなかったのは、何もこうした戦後生まれの世代だけではなく、戦前にも戦中にも、昭和陸海軍の高級将校や高級士官の中には、「戦争を知らない軍人達」は沢山いたのです。
特に東条英機の『戦陣訓』を前面に出して、戦争を指揮した高級軍人の中には、下級の将兵達に死守させて、自分はささっさと飛行機で逃げ出すような卑怯な将軍や提督達がいたのです。
戦争を論ずる場合、戦争を「悪」、平和を「善」と捕らえる事は簡単です。しかし実際問題として、世界中の至る所には戦争の火種がいつも燻(くすぶ)り、いつ戦争に発展してもいいような不安材料はあらゆる場所に点在しています。そして一度内紛が勃発すれば、一気に戦争へと拡大され、多くの人民が戦火に巻き込まれ、夫を失い、妻を失い、子供を失い、また子供は親を失います。
天変地異なみの災難が我が身に降り掛かり、自分自身の生命すら危険に曝(さら)されます。
実は、こうした状態にこそ、非業の死を遂げる横死の因縁が転がっているのです。
癒しの杜の会