日本は、国家としてあろうことか、日本軍閥の中には、利敵行為を働く買国奴を戦争指導者と仰(あお)ぎ、太平洋戦争を戦わねばならなかったのです。
太平洋戦争を分析すれば、この戦争の戦局は、おおかた三つの時期に分かれます。
第一期は、開戦から翌昭和17年の6月のミッドウェー開戦の大敗北を経て、ガダルカナル奪回攻防戦における敗北までで、戦争目的のない積極的攻勢の期間で、開戦と進攻の時期です。
第二期は、ニューギニアのバサブアの日本軍玉砕(ぎょくさい)から、サイパン島の日本軍守備隊並びに民間人男子、万歳突撃をして三万人が玉砕しました事までで、この時期は、消極的かつ戦略不在の戦争指導が行なわれた時期で、戦局の反転の時期です。
第三期は、昭和十九年のサイパン島の玉砕により、東条英機が陸軍参謀総長を辞任し、東条内閣が総辞職した後、小磯内閣が誕生し、以降、鈴木内閣と引き継がれ、昭和20年8月15日の敗戦までの絶望的抗戦の期間で、特攻隊出撃や玉砕、万歳突撃、そして国家の斜陽から終戦に至る時期です。
そして
各々の局面は、日本軍はいつも決定的な失策を犯し、戦局が次第に暗転していきます。
こうした失策を犯すのは、ある特定の人物ばかりであり、これを詳しく調べると、その人物の指導によって、日本軍は決まって壊滅的な打撃を受けているのです。 
▲
太平洋戦争の流れの中のプロセスと負け戦を演出した人々。
各々の戦場や事件に同じ人物が登場して、
負け戦を演出している事がよく分かる。
日本は何故、太平洋戦争に悲惨な負け方をし、
百数十万人と言う戦争犠牲者を出してしまったのでしょうか。
まず、上の図を見ると、
太平洋戦争の流れのプロセスの中で、
同じ人物が作戦を担当している事が分かります。
太平洋戦争はその緒戦を飾ったのは「真珠湾奇襲攻撃」でした。そして、マスコミの報道を見る限り、日本軍の真珠湾攻撃は「卑怯な奇襲」として、依然とした厳しい批評があるようです。
こうした対日批判は、日本人の歴史的な認識の甘さと言うより、むしろ、こうした認識のなさがこうした批判の集中になっています。
かつての『ニューズ・ウィークで』(1991年12月12日版)は、真珠湾50周年記念に際し、「真珠湾から50年、日本よ忘却するなかれ」と題して、同誌は、日本の真珠湾奇襲攻撃を卑怯者呼ばわりする南部のアメリカ人に対して、「あれだけヨーロッパで奇襲攻撃を仕掛けたヒトラーに対し、彼を一度も卑怯者呼ばわりしなかったが、それを考えると、なるほど彼はアジア人ではなかったからだ」と揶揄(やゆ)するような記事があることに驚かされます。
しかし一方で、日本の進歩的文化人といわれる人達は、当時の日米の工業生産力を挙げ、物量の格差を提示して、日本人の見る太平洋戦争観を無謀の戦争と決めつけ、戦争責任と戦争犯罪を自虐的なイメージで押し付ける暴挙があります。また、この戦争を「アメリカ民主主義」対「日本軍国主義」の戦いとして、正義と人道の勝利等とする見方も、歴史的に見て決して正しいものではありません。
それよりもっと深いところに、悲劇の禍根があり、その禍根を指摘する歴史家も、また少ないのです。果たして日本は日米戦において、こうまでも悲惨な負け方をしなければならなかったのでしょうか。
かつての旧陸海軍の兵隊の士気、下士官教育の優秀さ、空母や戦艦の造船技術を以てしても、あるいは航空機にしても、兵器や物量の所有数においても、日本はアメリカを凌駕(りょうが)出来るくらいの物を持っていたのです。
そうであるにもかかわらず、このような悲惨な負け方をして、広島・長崎に人類初の原子爆弾
売国奴・湯川秀樹
戦時中、日本で一日も早くその完成を待たれていた、
マッチ箱一つの大きさで
戦艦一つを沈めうると言われていた新兵器は、
今日言う原子爆弾のことであった。
そして仁科芳雄博士の研究では、
実験段階では既に完成していた。
しかし・・・
それが一応のまとまりを見た時、
これを一つの学説として発表しては
どうかと言う案も出たが、
軍の機密に属することであり、
早計に外部に漏らしてはならぬと言う
仁科芳雄博士の意見で発表は厳禁されていた。
ところがそれを、当時理研にいた研究補助員の湯川秀樹が
米国(国際ユダヤ金融資本家たち)に売り渡したのである。
米国(国際ユダヤ金融資本家たち)は終戦後、
湯川の功績の論考行賞として
ノーベル(=ユダヤ)賞を授与させている。
日本の利益にはならず、
米国(国際ユダヤ金融資本家たち)のためになったことで
褒美がもらえたのだ。
まさに国賊である。
渡部悌治 ユダヤは日本に何をしたか
が落とされると言う非人道的な行為を頭上に受け、最後までズルズルと負け戦を強(し)いられねばならなかったのでしょうか。
このような負け方をする理由は唯一つ、それは戦略や作戦に携わった司令官や参謀達が無能であったという以上に、
陸海軍の中枢に敵と通じ、日本が敗北する事を望んだ奸計(かんけい)を働く者が居たからです。日本は、日米開戦を戦う前から敗れていたのです。

▲米内光政。
早々と日本を敗戦に導いた大戦末期の海軍大臣。
日本海軍の水行社はフリーメーソンの巣窟だった。
日本軍敗北には必ず絡んでいた。

▲連合艦隊司令長官・山本五十六。
ミッドウェー海戦で、
白村江の鬪い以降の大負けをし、
日本海軍を大敗北に導いた。
水行社に出入りしたフリーメーソン。
「山本五十六が連合艦隊司令長官になったころ、
ハーバード大学ルートの情報で、
米国の海軍力は、
山本が司令長官である間ならば、
日本に撃って出ても勝算があり、
悪く言っても五分五分で決着がつく。
早々に戦端を開くべきだと言う
海軍側の意向が伝えられてきた。
しかもその理由の中に一項目、
山本はフリーメイソンの結社員だから、
と言う条項が入っていた。」
渡部悌治 ユダヤは日本に何をしたか

▲服部卓四郎。
陸軍のあらゆる重大な作戦に関与し、
利敵行為を働いて、
敵軍に塩を送り、
日本軍を敗北に導いた。

▲陸大出身のエリート・辻政信も、
大いに利敵行為を働いたが、
連合軍のBC戦犯容疑で
指名されなかったのは
米軍に恩を売った為か。
戦争指導者名 略 歴
米内光政 明治13年岩手県盛岡生まれ。艦長を経て軍令部参謀、艦隊司令長官、鎮守府司令長官、海軍大将。林内閣、第一次近衛内閣及び平沼内閣の三内閣で海軍大臣。元老西園寺公望の推薦で首相を歴任する。小磯内閣、鈴木内閣、東久邇宮内閣、幣原内閣の四内閣で海軍大臣を重任する。
フリーメーソン。
山本五十六 明治17年新潟県長岡生まれ。海軍大学校を経て第二艦隊参謀、アメリカではハーバード大学の「イングリッシュE」に在籍。
下記参照
http://blue.ap.teacup.com/97096856/654.html
空母「赤城」艦長を経て海軍省事務局航空本部技術部長、ロンドン海軍軍縮会議予備交渉日本代表、航空本部長、海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍大将・元帥。ミッドウェー作戦を強引に強行して大敗北を招く。
フリーメーソン。
永野修身 太平洋戦争開戦当時の海軍軍令部総長。本人曰く、「真珠湾作戦の全責任は私にあった。戦争が終わった後、自決するつもりであったが、旧陸海軍の軍陣が自決するのを見て、近頃の流行に巻き込まれて死んだと思われては、心外と思い、その後考え直した」と答えた。
A級戦犯に指名され、巣鴨に入ったが、急性肺炎でその後、米軍病院に移り、東京裁判で裁かれることはなかった。
南雲忠一 明治21年山県生まれ。真珠湾奇襲攻撃時、第一航空戦隊司令長官。海軍中将。ミッドウェー海戦時、第一機動部隊指揮官。
草鹿龍之介 第一機動部隊参謀長。連合艦隊参謀長。海軍中将。南雲・草鹿コンビは以降、負け戦を展開する。しかし一方、優れた提督として、あるいは名参謀として、草鹿の書いた勇将としての「戦史武勇伝」は実に多い。
しかしその真偽は不明であるが、どう見ても勇将としての気風を窺(うかが)うことは出来ない。戦後、毎日新聞社から発刊され、草鹿の書いた『聯合艦隊』は特に有名。
源田 実 明治37年広島生まれ。第一航空艦隊参謀、軍令部航空主務参謀、松山航空隊司令。海軍大佐。台湾沖航空戦の「大戦果」を捏造(大本営発表の戦果は実情の十分の一以下)。戦後、航空自衛隊幕僚長を経て国会議員。
原 忠一 真珠湾奇襲攻撃時、第五航空戦隊司令官で第四艦隊麾下。海軍少将。
井上成美 海軍軍務局長、第四艦隊司令長官。最後の海軍大将。
反戦を掲げた共産主義者で、フリーメーソン。米内光政、山本五十六、そして井上と、日本海軍士官の「水行社」のメンバーで、フリーメーソンの三羽鴉だった。
栗田健男 第二艦隊司令長官。海軍中将。レイテ湾突入時、突然、北に反転し不可解な行動をする。海軍兵学校校長時に敗戦を迎える。栗田の前科を追ってみると、スラバヤ沖海戦では敵を目前にして反対側の方向に進み、バタビヤ沖海戦では戦闘圏外で始終傍観し、ミッドウェー海戦では同島砲撃命令に対し、攻撃中止を部下に命じて帰途反転した。
軍法会議にも処せられず、また連合艦隊司令長官山本五十六は、大事なヤマ場で栗田を起用しているのは、何故かの疑問が残る。
福留 繁 連合艦隊参謀長の時、アメリカ軍将校の指導するフィリピンゲリラの捕虜になって「Z作戦計画書」を奪われ、コピーされて米軍に重要機密を洩らした。
しかし、責任をとって自決することもなく、また何ら処罰される事もなく、軍法会議にもかけられず、その後、第二艦隊司令長官に栄進した。海軍中将。
高須四郎 南西艦隊司令長官。海軍中将。古賀峯一連合艦隊司令長官が遭難し、その生死がはっきりしない時に、自分が先任だからと言う理由で、連合艦隊の指揮権を取ると宣言し、連合艦隊長官として勝手に兵力を動かし、軍令部や大本営を混乱させ、
アメリカ軍に利敵行為を行なって、その貢献に寄与した。
服部卓四郎 仙台出身。仙台陸軍幼年学校を卒業し、陸軍士官学校第34期を卒業。陸軍大学校を恩賜で卒業後、関東軍作戦主任参謀、ノモンハン事件を作戦指導して左遷。左遷後、再び大本営参謀本部に返り咲いて作戦班長、作戦課長。陸軍大佐。戦後、服部は自分に都合のよい『大東亜戦争全史』(原書房)を著わした。
辻 政信 明治35年石川県生まれ。東京陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校、陸軍大学校第36期を恩賜卒業。関東軍作戦参謀、大本営参謀本部作戦課参謀。服部卓四郎作戦課長のもとで戦力班長を勤める。ビルマ方面第三十三軍作戦参謀。陸軍大佐。石原完爾の「東亜連盟」に酔心。戦後、国会議員。
昭和36年4月、「東南アジア視察」と称し、僧侶姿でラオス、ビエンチャンから姿を消し、行方不明となった。自分自身で隠し持っていた、日本政府から横領した「金の延べ棒23本」を発掘する為といわれるが真相や闇に葬られたまま分からず。
瀬島龍三 明治44年富山県生まれ。東京中央幼年学校を経て陸軍士官学校第44期を卒業。陸軍大学校を恩賜で卒業。大本営参謀本部作戦課参謀。陸軍中佐。戦後、アメリカの経済援助を以て、巨大貿易商社「伊藤忠商事」を興す。
以下参照
http://blue.ap.teacup.com/97096856/984.html
真崎勘三郎 2.26事件の青年将校を影で操った張本人。元教育総監で陸軍大将。事件後、「知らぬ存ぜぬ」で押し通し、無罪となる。真崎もまた、
国際ユダヤ金融資本勢力に操られた日本人エージェントのメンバーだった。
この事件以降、陸軍統制派が権力を握る事になり、永田鉄山の後を引き継いだ東条英機が現れ、昭和16年(1941年)10月、東条内閣(首相、内相ならびに陸相兼任)が発足して日本は戦争の真っ只中に突入する事になる。
田中隆吉 島根県出身で陸軍士官学校第26期卒。陸軍省兵務局長。陸軍少将。「隆吉」という名前は、西郷隆盛と豊臣秀吉の名前から一字ずつとったもの。上海で謀略工作を行ない、男装の麗人(れいじん)と称された川島芳子をスパイとして遣い、愛人にもしていた。東京裁判では検察側に協力して、被告席にいる武藤章や橋本欣五郎を糾弾(きゅうだん)した。
検事の中には、田中を指して「この人物は証人席に座るより、被告席に座る方が相応しいではないか」と言う者が居たが、米首席検事キーナンはこれを退けた。戦後、田中は『敗因をつく』という本を著わし、これが東京裁判のキーナン検事の目に止まり、陸軍の内情に詳しい元軍人として看做され、キーナン検事や検事側の協力者となった。
その結果、田中は進んで旧陸軍軍人を糾弾する方に回り、武藤章や橋本欣五郎らを名指しで戦争犯罪者に指名し、続々と処刑台へと送り込んだ。田中の言い分は、戦勝国が敗戦国を裁くのだから、結局誰かが責任を追わねばならず、旧軍人達は出来るだけ重い戦争責任を追ってもらって、天皇は無罪へと誘導しなければならないと考えていた。
牟田口廉也 支那駐屯歩兵第一連隊長、のちビルマ方面軍第十五軍司令官。大本営を説得して、愚劣なインパール作戦を強行に主張し、本作戦を指揮し無謀な命令を出した。その為、多くの犠牲者を出し、日本軍の退路は「白骨街道」といわれた。その損害はガダルカナルの三倍にも達する死傷者を出し、ビルマ方面は完全に崩壊した。陸軍中将。
河辺正三 ビルマ方面軍司令官。牟田口と共にインパール作戦を強行。陸軍中将。
冨永恭次 フィリピン第四航空軍司令官。東条英機の腰巾着として、フィリピンで憲兵政治を行なう。特攻隊員を送り出す時、「諸君は既に神である」と述べた後、「君達だけを死なせはしない。最後の一機で私も敵艦に突入する」と激励したが、フィリピンから台湾の投北(トウペイ)温泉へ「敵前逃亡」を図りながらも、何の罪にもならず、一旦は予備役になったが、その後、ソ満国境警備師団長として北支に赴き、戦後シベリアに抑留されたが昭和三十年、安全に日本へ復員。陸軍中将。先の大戦は天皇に戦争責任があるとモスクワから放送した事でも有名。
戦後は政府から高額恩給を貰いながら、安穏とした生活を楽しんだ。 
▲第一機動部隊参謀長・草鹿龍之介海軍中将。
南雲・草鹿コンビで、負け戦を展開した。
戦後は名参謀長あるいは勇将?としての著書多し。

▲第二艦隊司令長官・栗田健男海軍中将。
レイテ湾突撃を目前にして、
戦艦「榛名」麾下艦隊を、
謎の北への反転を命令した。

▲永野修身。
日本海軍の最高実権を握った海軍軍令部総長。
A級戦犯容疑に指名されながら病気で難を逃れる。

▲田中隆吉。
様々な疑惑がもたれ、
川島芳子を日本軍のスパイとして遣い、
日本人を襲う殺し屋を買収した。
日本を負け戦に導き、利敵行為を働いた指揮官は勿論、彼等だけではありませんが、当時の日本陸海軍の組織には、主導権争いの権力闘争があって、複雑な軍閥が形成されており、その人脈網は網の目状態であり、日本が敗北していく為には、何百何千という多くの協力者がいて、敗北に満ちたのです。

▲特攻隊長に清酒を注ぐ、
フィリピン第四航空軍軍司令官・冨永恭次陸軍中将。
アメリカ軍がマニラに上陸するや否や、
台湾へ敵前逃亡。
そこで、のんびりと温泉静養した。
当時の政財界や日本軍の中には、日本が天皇制軍事国家であることを望まず、これを破壊して、アメリカやイギリスのユダヤ勢力(国際ユダヤ金融資本を指し、ユダヤ人を指すのではない)に通じ、あるいはソ連のユダヤ勢力に通じ、日本の国体を根本的に破壊する為に、暗躍した人達が大勢いたという事です。
そして彼等は、東京裁判でも裁かれず、戦後は英雄扱いされた人達です。
更に、彼等の出版物は防衛庁戦史資料室にも永久保存され、戦記物から人物伝、敗北の原因探究や軍官学校の優秀性を挙げるものまで様々であり、しかし、日本の敗北が日本人の手によって画策され、これを追求したり指摘する書籍は非常に少ないようです。
また、太平洋戦争を語る時、絶対に見逃してはならないことが、日本軍の輸送用船舶の膨大な損失です。昭和16年12月の時点で、日本軍の輸送用船舶は約600万トンを保有していました。しかし開戦後の戦争初年度では、船舶損失が80万トンと見込んでいましたが、被害総数はそれを遥かに上回り、昭和17年末までに失った総数は100万トン以上を超えた状態でした。
そして、これが昭和17年秋口頃までの損害となりますと、日本の総ての船舶の約70%以上を失っていたのです。こうした後方支援や兵站部の考え方を考えて見ても、当時の日本軍人の中には、大局的な戦略思考を持った戦争指導者は、殆ど居なかったことが分かります。
太平洋戦争において、日本軍が無慙に敗北したその要因は、大局観や戦略的思考の宿命的な希薄にありました。更に大事な国策を決定する為の、重要な国際情勢の判断の甘さや、敵国を過小評価した先入観があって、こうした敵を侮る固定観念が、取り返しのつかない失敗に失敗を重ね、多くの人命が失われたのでした。
また、
田中隆吉によってスパイに仕立て上げられ、田中の愛人となって男装の麗人と称された川島芳子は、1947年10月22日、北京の河北法等高院で、国家叛逆罪の罪により、死刑が申し渡され、翌年の3月25日に銃殺刑が執行されました。享年42でした。
▲
東洋のマタハリと称された川島芳子。
川島芳子(本名、愛新覚羅顕(あいしんかくらけんし)。別名、金壁輝。明治三十九年(1906)の丙午生まれ)は、清朝・粛親王(しゅくしんのう)の第十四王女で、満蒙独立運動家の日本人志士・川島浪速(かわしまなにわ)の養女となり、川島姓を名乗り、名を芳子と言いました。
大正10年(1921年)、東京豊島師範付属小学校を卒業した芳子は、跡見高女へと進学しますが、川島家が長野県松本に引っ越すのを機に、松本高女へと進み、古武士的な養父・浪速によって厳格に教育され、もっぱら馬術や剣道、射撃等を嗜(たしな)みました。当時の松本では、学校に馬で乗り付けて「じゃじゃ馬」として、芳子の行動が伝説化されました。
芳子は昭和2年(1927年)、蒙古独立運動家のカンジュルチャップと旅順で結婚しましたが、半年後、離婚して上海の街角に男装して姿を現すようになりました。その時、陸軍特務機関の少佐であった田中隆吉と出合い、田中は芳子に一目惚れしてしまい、芳子を特務工作に利用して、更に色情を抱いて愛人にする一石二鳥を夢見たのでした。そして女スパイ・東洋のマタハリが誕生したのでした。
しかし、
日本がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏をすると、昭和20年(1945年)8月18日、満州国皇帝溥儀は(ふぎ/本名、愛新覚羅溥儀)39歳で皇帝を退位し、これによって満州国は消滅します。そしてソ連軍は、9月1日に全満州を占領します。
この時、芳子は北京のアパートに住んでいましたが、国民政府軍の憲兵数人が彼女のアパートに、拳銃を手にして乗り込んで来て、彼女はここで逮捕されました。国民政府当局に知らせたのは、芳子が召し使いとして雇っていた中国人のボーイでした。
芳子が、「女探(じょたん)・金壁輝(きんへきき)」として憲兵隊に逮捕され、北京の第一監獄で銃殺刑を執行されたのは1948年3月25日の払暁(ふつぎょう)のことでした。
この模様を、朝日新聞は二段見出しで彼女の死刑執行を報じました。同新聞によると、罪状は国家叛逆に関するスパイ罪。一発の銃弾は彼女の後頭部に命中し、絶命。四十二年の数奇の運命を辿った人生だったと、報じました。
ところが暫(しばら)く経って、死刑執行をされた女性は身替わりだったと言う風評が流れ始めました。
芳子の死刑執行は、報道陣を一切閉め出して行なわれた執行でしたから、もう、これ自体が慣例を無視した行為ですが、引き渡された遺体の貌(かお)は損傷が激しく、本人であるかどうか、誰からも確認されることはありませんでした。
癒しの杜
続