昭和11年(1936年)2月26日には、陸軍の皇道派の青年将校が完全武装(二装軍衣)の1360名の下士官・兵を率いて、陸軍教育総監・渡辺錠太郎、内大臣・斎藤実、大蔵大臣・高橋是清を殺害し、侍従長の鈴木貫太郎に重傷を負わせ、国家改造を要求する2.26事件が起こります。
▲陸軍教育総監・渡辺錠太郎陸軍大将。
▲襲撃された渡辺錠太郎の屍。全身に十数カ所の刀傷と銃創を負って死亡した。
▲殺害された高橋是清。
この事件を知った昭和天皇は激怒し、陸軍大臣・川島義之大将に対し、「すみやかに事件を鎮定(ちんてい)せよ」と命じます。
この時代の天皇は、日本の国家元首であり、同時に陸海軍の統帥権を持った日本軍の最高司令官でした。
天皇の言葉は絶対的なものであり、これに対する批判は許されませんでした。
天皇の命令は「鎮定せよ」であり、「鎮定」は「平定」とほぼ同じ意味を持ちます。
つまり天皇は、クーデターを起こした青年将校達の軍は、義軍ではなく、天皇に背いた反乱軍と看做(みな)したわけです。
川島陸軍大臣は、天皇の命令に従い、陸軍大将で構成される軍事参議官らを緊急招集します。
軍事参議官は天皇の顧問と言う存在で、川島大臣は天皇の「鎮定せよ」と言う命令に従い、次ぎのような文を合議の上、作成します。
一、決起の趣旨については天聴(てんちょう)に達せられあり。
二、諸子(しょし)の行動は国体の真姿顕現(しんしけんげん)の至情(しじょう)に基づくものと認む。
三、国体の真姿顕現(弊風(へいふう)を含む)については恐懼(きょうく)にたえず。
四、各軍事参議官も一致して右の趣旨により邁進(まいしん)することを申合せたり
五、これ以外は一に大御心(おおみこころ)を待つ。
と言うものでした。
▲都内を行進して帰順する2.26事件の反乱軍兵士達。
これと同時に、直ちに戒厳司令部が設けられ、2月29日には、反乱軍に帰順を呼び掛けるアドバルーンが上げられ、これには「勅命下る、軍旗に手向かうな」と書かれ、NHKのラジオ放送(午前八時五十分開始)では、「兵に告ぐ……」の中村アナウンサーの朗読が始まり、「……すみやかに現在の位置をすてて帰って来い」で、読み上げが終了しました。
このアドバルーンとラジオ放送は予想していた以上に効果があり、決起部隊の兵士達は次々に帰順していきました。また決起将校の中にも、兵を纏(まと)めて部隊に帰順するものも出始めました。
しかし、この帰順に従わぬ唯一つの例外がありました。それは安藤輝三大尉(歩兵第三聯隊第六中隊長)の指揮する安藤隊でした。
安藤は決起を起こした青年将校らの中心人物であり、明治34年生まれで、仙台陸軍幼年学校から陸軍士官学校(第三十八期)を卒業し、昭和10年1月に歩兵第三聯隊の中隊長となります。
部下思いで、硬骨漢であった安藤は、給料の半分を農村出身の貧しい部下の為に遣(つか)っていました。
また、天皇の弟である秩父宮(ちちぶのみや)から信頼され、秩父宮は、かつて第六中隊の中隊長を勤めた事がありました。
安藤は決起将校のリーダ格でしたが、はじめのうちは部下を使って決起する事には反対で、将校が捨て石になるのは好(い)いが、兵隊は巻き添えにしたくないと考えていました。
しかし歩兵第三聯隊が帰属する第一師団が満州に派遣されると知って、兵を率いて決起に至ります。
▲唯一つ、帰属に従わず山王ホテルに布陣したまま、最後まで抵抗した安藤隊。
唯一つ、帰順しなかった安藤隊の所に、説得する為に歩兵大隊長の伊集院兼信(かねのぶ)少佐がやって来て、
「兵隊はかわいそうだから、兵だけは帰してやれ」と促します。
これに対して、安藤は、「わたくしは兵が可哀想だからこと行動を起こしたのです」と答えます。その後、安藤はピストルを抜いて自決を決意しました。
そして安藤がピストルの引き金を引き、血潮に染まって斃(たお)れた瞬間、青年将校達が目指した「昭和維新」は、完全に潰(つい)えたのでした。
しかし皮肉な事に、ピストルの弾は急所を外れ、一命を取り留めます。この一発の銃弾によって挫折し、「昭和維新」の実現はならず、これによって完結を迎えます。
さて、
2.26事件を正しく理解する為には、北一輝(きたいっき/早稲田大学聴講生の時に、社会主義に傾倒する。
国家社会主義者で、「日本改造法案大綱」で国家改造を主唱、2.26事件に連座して死刑。1883〜1937)なる人物を知らなければなりません。それというのも、北の抱いていた思想が、クーデターを引き起こした青年将校達の基盤になっていたからです。
北は、明治16年生まれで、新潟県佐渡の出身で早稲田大学聴講生として学び、「国体論及び純正社会主義」という書物を自主出版し革命に没頭していきます。
その後、右翼の大立者・内田良平と知り合い、内田の紹介で、在日中国革命会の幹事・宋教仁(そうきょうじん)と親しくなります。
北は宋との関係をもって、清朝政府を倒した辛亥革命に参加し、明治44年に武漢、南京、上海等を転々とし、砲弾の雨の中を掻い潜る旅をします。
南京では駐在武官であった本庄繁少佐に会い、日本軍の動きを聴いて革命派に伝達します。しかしこの二年後、宋は暗殺され、北も日本に舞い戻ります。
▲『日本改造法案大綱』の著者・北一輝。事件当時52歳。
また、大正8年には上海で『日本改造法案大綱』を著し、この原稿を右翼思想家である大川周明が日本に持ち帰り、ガリ版刷りでこれを発行します。そしてその内容は、非常にショッキングなものでした。
これによると、
天皇は、国民の総代表であり、天皇と大権によって憲法を三年間停止し、その間に在郷軍人が主体となって、日本を改造すると言うもでした。
北は、この改造計画に、まず個人の私有財産に制限を加え、総代表たる天皇も所有している土地と山林等を国家に渡し、その代わりに皇室費を当時のお金で三千万円支出するというものでした。
また、一般市民は、一家の所有する個人資産を百万円までとし、それを超える額は天皇に納め、もし、これに拒否したり、資産隠しをする場合は死刑とすると言うものでした。
更に日本の安全の為に、シベリアを領有するのに必要な大陸軍を組織し、南方領土については、それを取得する為に大海軍を造ると言うものでした。この趣旨に、賛同した当時の青年将校は多く、その一人が西田悦と言うわけだったのです。
当時の日本は、一般市民の生活は非常に苦しいものでした。農村部では大凶作が襲った為に、その生活は苦しく、娘を売る者が続出しました。
「娘を売る」とは、つまり人身売買の事であり、売られた娘は人間としての意思を無視され、監視付きで、奴隷的に死ぬまでこき使われると言う事でした。
そして逃亡すれば、前金を貰っているので、借金踏み倒しとなって、娘を売った側は詐欺(さぎ)罪となり、逃げた娘は警察によって手配され、連れ戻されると言うものでした。そして、その後に、使用者側の惨(むご)いリンチが待っていたのです。
▲
失業者が増加する一方、一部の資産階級の遊び場はダンスホールであり、連日大繁盛を続けていた。
その一方で、こうした貧農や低賃金の労働者達とは対照的に、特権階級が存在しました。
その代表格は、三井や三菱や住友等といぅった大財閥であり、銀行、鉄鋼業、造船業、鉱山業等を支配し、多額の利益を上げていました。
農民は、娘の青春を当時の金額で百円で売り、財閥の特権階級の家族は一着の衣服や、一食の贅沢(ぜいたく)な美食をする為に、僅か一回で百円のお金を遣いました。
2.26事件の青年将校達は、どうしてこうした格差が起こるのか、研究し、政治と国家の仕組みが兇(わる)いからだと結論付けます。そしてこれを改める教本としたのが、北一輝の『日本改造法案大綱』だったのです。
北の理想を実現すれば、富める者は益々富め、貧しい者は益々貧しくなる、こうした矛盾を抑制出来るのではないか、とこれに希望を抱き、国家改造に向かって青年将校達が策動したのでした。しかし、軍部の内部にも問題があり、これも正さねばならないとして襲撃目標を軍首脳にも向けます。
襲撃目標は、
1.岡田啓介首相
2.斎藤実(まこと)内大臣
3.高橋是清(これきよ)大蔵大臣
4.鈴木貫太郎侍従長
5.牧野伸顕(のぶあき)伯爵
6.渡辺錠太郎陸軍教育総監
7.警視庁(襲撃目標ではなく、占領を目的とした)
8.陸軍大臣官邸(襲撃目標ではなく、占領を目的とした)
▲2.26事件の際、最後まで抵抗した安藤輝三大尉。
以上を攻撃目標にして、クーデターを敢行する事になりました。決起の日の昭和11年2月26日水曜日は、24日から降り出した雪が止まず、東京市内は三十年ぶりと言う大雪でした。そして、各決起部隊は襲撃目標へと向かいました。
しかし、、彼等のこうした目論みは、途中で挫折し、結局、皇道派のこうした反乱は、最大限、統制派に利用されて、日本は以降、統制派が中心になって戦争遂行への道に足を踏み入れて行く事になります。
こうした流れを追いますと、
歴史の中には、一方で新たな政治理念や秩序が生まれ、その他方では更なる崩壊が同時に進行すると言う、極めて錯綜した時代構造になっています。
大不況が失業者を増加させ、政財界の要人の暗殺が頻発(ひんぱつ)すると、それを力で弾圧する以外ない国家権力と、これに対峙(たいじ)する思想や宗教が反抗の牙(きば)を向きます。そして数多くの血腥(ちなまぐさ)い悲劇を巻き起こしていきました。
更に、昭和初期に起こった満州事変から満州国建国に至るプロセスは、元々日本のこうした国民の不満を和らげるものとして、テロの悪夢を解決する手段として遣われたのですが、逆に日本は、国際社会から孤立する、大きな悪夢を引き寄せ、その中に足を踏み入れて行く事になります。
●歴史には裏で操る者と、操られる者が存在する
昭和初期の動乱は、よく戦史史家から、軍部のファシズムによる暴走と言われますが、血盟団事件や5.15事件、2.26事件には、純粋無垢な青年将校達の情熱と軍事力が利用されたという、裏側にある背景を考えてみなければなりません。そして
、「示唆した、ある勢力」が背後にあったと言う事です。
動乱を起こし、日本を戦争に導く為には、国際的な大掛かりな仕掛け装置が必要です。この仕掛けが音をたてて動き始めたのが、昭和3年の関東軍の陰謀による張作霖の列車爆破事件でした。
そして、事件を起こす人物は決まって同じ顔ぶれであり、事件による犠牲者も、ほんのごく限られた人にしか過ぎませんでした。
また、その多くは真の黒幕とは言えない人達でした。
▲西園寺公望。
維新の際軍功を立て、フランスに留学中、大東社に入社。第2次政友会総裁となり、二度首相をつとめる。大正8年(1919年)パリ講和会議首席全権委員。フリーメーソン。
▲岡田啓介。
海軍大将。連合艦隊司令長官を歴任し、田中・斎藤両内閣の海相を勤める。昭和9年(1934年)首相となる。2.26事件の際襲撃されたが裏山に逃げて難を免れ、以後重臣として国政に関与する。
▲牧野伸顕。
大久保利通の次男。官界に入り、文相・農相・外相・宮相・内大臣を歴任する。政界に隠然たる勢力をもつが、2.26事件では親英米派として襲われるが難を逃れる。
西園寺公望(さいおんじきんもち)や牧野伸顕(まきののぶあき)、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)、岡田啓介らは、常に中枢部にいて殺害対象に上げられながら、何故か、危機から免れた人達です。
これを突き詰めれば、「昭和の動乱」とは、一種の「狂言」であり、その裏側に真の目的が隠されていました。
それは当時の権力機構に衝撃を与えて、それをお互いに戦わせて内乱に導き、同時に軍部の暴発を誘い、日本と中国を戦わせ、やがて日米開戦に引きずり込むと言うシナリオに他なりませんでした。
民間の「非愛国的仮装右翼」といわれる一部の連中は、財閥や国際ユダヤ金融勢力と結びついており、陸海軍の中にも、そうした首謀者の影を見る事が出来ます。現に、海軍の士官で構成される親睦や研究や共済等を標榜した「水行社」は、フリーメーソン日本支社の巣窟であり、米内光政や山本五十六が出入りしていました。
2.26事件によって、陸軍皇道派は完全に捻り潰されました。その後に台頭した陸軍統制派は、国際ユダヤ金融勢力によって、おだてられ、煽られた挙げ句、日中戦争の泥沼に突入し、その上、太平洋戦争への道へと突入しようとします。
海軍では西園寺公望や岡田啓介、米内光政や山本五十六といったフリーメーソン・メンバーが、
国際ユダヤ金融勢力の走狗でした。
日本を滅ぼしたのは、陸軍統制派と海軍でしたが、彼等を操ったのは、西園寺公望を筆頭とするフリーメーソンらであり、また、一部の非愛国的右翼だったのです。
歴史の節目に奇しくも重なり、
日本の運命に影響を与えた阿部定事件
昭和10年代の日本人の平均寿命は、男性が44.8歳、女性が46.5歳でした。
昔から日本では、「人生五十年」と言われていましたが、50歳まで生きたら、多少人よりも長く生きた事になります。
軍人になるには、陸海軍では旧制中学の四年生くらいで陸軍士官学校(士官候補生および准士官・下士官を教育した学校)か、海軍兵学校(海軍兵科将校となすべき生徒を教育し、また、海軍兵曹長に対し兵科士官の素養に必要な教育を施した学校)を受験し、順調に進んでそこを卒業して予備士官を経験し、少尉に任官するのがだいたいその当時で21〜23歳くらいですから、仮に、平均寿命に合わせた45歳として、残りの活動期間は、二十年とちょっとしかありません。
また当時の、大学卒業にしても、浪人や留年がないものとして、陸士や海兵を卒業して、少尉に任官するのと同じくらいの年齢になっています。要するに後二十年とちょっとで、何をして、卒業後の人生観を抱いていくがか課題になり、こうした時代に2.26事件が起こったのです。
そして、こうした時代の影を引き摺(ず)りながら、重い底流が流れている頃、昭和11年(1936年)5月18日に、突如、猟奇(りょうき)の阿部定(あべさだ)事件が起こります。
阿部定が、情夫の石田吉蔵(きちぞう)を絞殺し、男根局部を切り取って逃亡すると言う前代未聞の猟奇事件が発生したのです。
この事件は、約一週間に亘り、新聞の社会面を独占しました。何故か、エロに対して煩(うるさ)いはずの検閲当局が、これに制限を加えるような事をしなかったのです。しかしこれは、一種の作為があり、軍部の意図が働いていました。
▲情夫を殺害した阿部定。

▲定に殺害された情夫石田吉蔵。
5月12日の夕刻、荒川区の旅館「まさき」の紅灯(こうとう/紅色の提灯(ちょうちん)の事で、酸漿(ほおずき)提灯とも)を潜った一組の男女がありました。男の年齢は四十五歳くらいの好男子で、女は三十を少し廻った頃の、一見玄人(くろうと)と認められる目鼻立ちの整った女性であったと「警視庁史」には記されています。そして昼夜を問わず、痴情の狂態振りを繰り広げたと言います。
この阿部定事件は、不思議な事に「歴史の節目」と重なります。
▲阿部定事件。
阿部定が、石田吉蔵を殺害したのは5月18日の事でした。
また、この日の『官報』(詔勅・法令・告示・予算・条約・叙任・辞令・国会事項・官庁事項その他政府から一般に周知させる事項を編纂して、大蔵省印刷局から刊行する国の機関紙で、日刊)は、陸海軍の官制を改めて、大臣および次官は「現役」
(【註】現役制度は一度は、予備でも後備でも大臣となれるとしたが、軍部が内閣の死命を制する為に山県有朋時代の現役制度を復活させた)に限るとしたのです。
そして、これは極めて重要な改正でしたが、その後の日本の運命に、決定的な影響を及ぼし、この重要な決定事項の危険性に気付いた人は、殆どいませんでした。
また一方で、
新聞は陸海軍の現役制度復活等はそっちのけで、阿部定を「妖婦」として書きなぐり、事件を「猟奇事件」として大々的に報道するのに大忙しだったのです。
新聞は、終始、定を悪女として名高い、高橋お伝(上州生れの、殺人を犯すなど、毒婦と評判された女性で、明治九年(1876年)捕えられて、明治十二年に死刑)のように報道しましたが、大衆の受け止め方は必ずしもそうではありませんでした。一方で同情され、「お定人気」は鰻(うなぎ)登りになっていました。中には、はるばる満州から裁判所の前に並んで、先着150名の傍聴を求めたのでした。
当時、踊り子が脚を上げただけでも煩(うる)かった警視庁も憲兵隊も、この事件を暗示するような映画や芝居や小説の作成は禁じましたが、報道に限っては好きなようにさせていたのです。
定が逮捕された後も、この時代の警察発表は報道陣にも公表されないものでした。ところが、こうした慣例に反して供述までもを公表し、こうした処置をとったのは、如何なる意図によるものだったのでしょうか。
問題は、実はこの裏側に隠れていたのです。
しかし、阿部定事件の報道が大々的に扱われてしまった為、陸海軍の「現役復活」の『官報』が隠されてしまったのです。これは意図的に画策されたものでした。
ここに官憲の誘導する意図が見て取れ、その背後には巨大な支配階級(三井や三菱等の重工業を手掛ける巨大財閥や軍需工場)の見えざる、時代を操る糸があったのです。span>
日本で内閣制度の誕生したのは、明治18年12月の事でした。それ以前は明治維新以来、太政大臣(だじょうだいじん)制度をとっており、太政大臣は当時、三条実美(さねとみ)でした。
初代総理大臣は伊藤博文であり、陸軍大臣は大山巌(いわお)、海軍大臣は西郷従道(つぐみち)でした。この時は陸海軍とも、現役の軍人が大臣を勤めましたが、法律では現役でなければならないという決まりはありませんでした。
大日本帝国憲法において、内閣の各大臣は各々が天皇から任命され、各人が天皇に対して責任を負うという形をとっていました。まず、天皇は首相を指名し、任命された首相は、天皇の組閣の要望に応じて、各省の大臣をリストアップし、本人の承諾を得た後、天皇に報告します。そして天皇が、各々を大臣に任命するのです。
▲昭和11年5月18日に報じられた『官報』。
そしてこの日、陸海軍では「現役」が復活した。
しかし、昭和11年(1936年)5月18日の『官報』に報じられた、「大臣および次官は現役に限る」と定めた官制は、重要ない意味を秘めていたのです。
「現役」には数に限りがあります。予備役や後備役は多くいますが、現役となると、そうざらにはいるはずがなく、結局、首相苛めのような形になり、「軍閥」という派閥を形成していく事になります。またこれが、軍部の暴走を許す事になり、以降、ファシズムの暴走は、誰も止める事が出来なかったのです。
官制と言う、法的に効力を持つ改正法は、国家元首と雖(いえど)も憲法に従い、好き勝手をすることは許されませんでした。国家の主権たる天皇でも、軍を好き勝手に動かす事は出来なかったのです。
そして一度定まれば、天皇と雖(いえど)も、憲法および下位に付帯する諸法令に基づいた権限を保持しなければならず、これが立権君主制と絶対君主制の決定的な違いでした。
陸海軍の統帥と言う、大権が天皇に帰属している為に、外部からは誰もこれに口を挟む事は許されず、天皇もまた陸海軍を制御し、ブレーキを掛ける事は出来なかったのです。陸軍では陸軍参謀総長が軍を掌握する最大の権限を握り、また海軍では軍令部総長が最大の権限を握って、天皇と言う主権者の意思すら不在のまま、日本は戦争に突入していきます。
▲日独防共協定結成。
赤坂にドイツ大使館員を招き、
芸者を上げて協定締結を祝う陸軍の祝賀会。
軍は、目先の問題が発生した時から、自国の国家戦略など全くお構え無しに、好き勝手に暴走し、行動を開始するという有様でした。
本来ならば、作戦起ち上げの草案や立案の必要性があっても、そんな国家戦略上の問題は後回しにされ、不利益とされる戦いでも、これを回避する事が出来ず、国民の多くはこうした不利益と思える、最初から負け戦の予想される戦いからも逃げられずに、死地に赴かねばならなかったのです。 逆に、勝てる戦いであっても、作戦を中止したり、とにかくその総ての権限は、陸軍参謀総長や海軍軍令部総長が一手に握っていたのです。
そして奇(く)しくも、この陸海軍に大臣並びに次官の現役制度が復活し、軍の暴走を許したのが、阿部定事件の起こった昭和11年5月18日だったのです。
日本はこれ以降、軍部の影響力が増大し、戦争へと軍靴の足並みを揃えて、この中へと突入していきます。
天皇に巨大な名目上の権限を与え、しかも、これを一切遣わせないと言う大矛盾を抱え、日本は戦争目的も、国家意識も、国家戦略も何も構築せぬまま、中国を行き当たりばったりに侵略し、首までどっぷりと泥沼に浸かり、また太平洋戦争突入と言う、まことに悍(おぞま)しい、結果を迎えるのです。
そして、同年の11月25日には日独防共協定が成立し、対共産主義コミンテルンの防衛協力等の、対ソ連に関する秘密協定が結ばれます。
そして、これから四年後の昭和15年(1940年)9月には、第二次大戦中の枢軸国であった日本・ドイツ・イタリア三国が締結した軍事同盟を結び、日・独・伊三国同盟が締結されます。この締結は、日独伊防共協定を発展させたもので、アメリカとイギリスとの対立激化を招き、やがて太平洋戦争の一要因となっていきます。
●軍部大臣現役武官制を許した広田弘毅内閣
2.26事件後に組閣した広田弘毅(ひろたこうき)内閣は、陸軍統制派が実権を握った以降、陸軍の横車に対して、これを阻(はば)む力はありませんでした。陸軍は益々発言力を強め、「庶政一新」の名の下に、政治介入を押し進めて行く事になります。
そして、陸軍の政治介入を、制度上で確実にしたのが『官報』に記された「軍部大臣現役武官制」でした。
▲陸軍首脳の横槍を阻止できなかった広田弘毅首相。
そして、その責任は大きい。
これは、明治33年の第二次山県有朋内閣の時に、明文化されたものですが、この制度によって、幾つかの内閣が倒された前例があり、大正2年の山本権兵衛内閣の時に、軍部大臣は予備役の中将や大将でもよいという風に改められました。
しかし2.26事件以降、予備役に退いた皇道派の将軍の復活を阻止しようと考えた統制派の軍閥は、「軍部大臣現役武官制」を復活させ、これを徹底的に悪用して、軍部独裁を図り、日米開戦に突入していったのは周知の通りです。
陸軍上層部の狙いは、自分達の気に入らない組閣は一切認めないという事であり、組閣に不満がある場合、現役軍人から陸軍大臣を出さないと言う形で妨害したのです。
また、米内光政内閣でも見られた事ですが、陸軍大臣を辞任させる事で、内閣を崩壊させると言う悪辣(あくらつ)な手が使われました。
これは当時、米内内閣を倒して、陸軍が操り易いように内閣を改造すると言うものでした。
そしてその後、登場したのが近衛文麿内閣で、陸軍の筋書き通り、組閣から二ヵ月後の昭和15年(1940年)9月27日には、ベルリンで日・独・伊三国同盟が締結されたのです。
これはやがて日米開戦の切っ掛けを作り、日米開戦の土台となったものが「軍部大臣現役武官制」だったのです。その意味で、広田内閣の指導力のなさと、その責任は非常に大きかったと言えます。
広田首相の陸軍の横槍を阻止できなかった責任は非常に大きく、2.26事件の起こった翌昭和12年(1937年)7月7日には、北京郊外で蘆溝橋事件が起こり、これを切っ掛けに日本軍は中国への侵略戦争を開始します。そして軍部は思い上がり、益々エスカレートして陸海軍は各々の独走し、対米英戦争へと拡大していく事になります。
政界も言論界も、最早こうした軍部の横暴は押さえ付けられ、破滅に向けて膨れ上がる、国家を滅亡に導く戦争を誰も止められなくなってしまいます。
そして戦争指導に関わり、その名を連ねたのが、かつての三月事件(昭和6年3月に起こったクーデター未遂事件で、首班は陸相の宇垣一成。小磯國昭、建川美次、杉山元、二宮重治、それに民間人右翼の大川周明)や十月事件(クーデター未遂事件で首班は橋本欣五郎中佐以下13名)に関与した幕僚派の面々でした。
彼等にとって、2.26事件は自分達が政治的な主導権を握る為の絶好のチャンスとなり、彼等はこの事件をうまく捕らえたのでした。
2.26事件を決起した、青年将校達が救おうとしていた農民や底辺の一般庶民は、やがて迫り来る米英(=国際金融ユダヤ資本家たち)の脅威に、微生物の如き弄(もてあそ)ばれ、自らの生命を軽々しく扱われて、戦争遂行の捨て石にされて無慙(むざん)に散っていったのです。
癒しの杜
参考
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20090427