に反対する左翼と言う「ねじれ現象」
丹羽氏は、一連の「構造改革」が、左翼によって進められてきた理由を指摘している。
赤軍派に同情的な、増田氏は、「高度成長は復活できる」において、高度成長が終わった原因を田中角栄の平等政策せいにしているが、土地成金などのように、一部に、努力せずに、一儲けする人など、いつの時代、どの国にも、存在するものであり、努力せずに一儲けする人間が、社会の一部にとどまっている限りは、他の人間が、努力する余地はある。
また、成金を目指さなくとも、(必要以上に贅沢な暮らしを求めなくとも)それなりの生活はできる。高度成長以降に生まれ育った世代は、出世よりも、むしろ、それなりの生活が出来る収入で満足し、労働時間を減らして、個人の趣味などに使いたいと願う傾向もある。
増田氏の説に対し、当ブログは、単に、1ドル=360円の固定相場制から、変動相場制に移行したことが、高度成長が終わった原因であると述べた。丹羽氏も同様のことを述べている。
増田氏等、左翼が、何故「構造改革」を進めてきたのだろうか。フェミニスト等の左翼が、進めているのも、日本国の破壊である。
冷戦時代は、マルクス対ケインズの対立であり、マルクスの敗北が、決定的になった頃から、左翼は、マルクスから、新古典派路線に乗り換えていった。経済の知識が無い人にとって、このことは、解り難いが、所謂「構造改革」が、かつての左翼学生世代によって、進められていることや「改革」「革命」を唱える連中の姿に、左翼的な匂いを嗅ぎ取ることもできるだろう。
保守、右派、左派、「新自由主義」と言った言葉が、ろくに定義もされずに、濫用されている。「新自由主義者」とは、左翼であり、「新自由主義」に反対している者も、また左翼である、と言う、ねじれ現象が、生じているのは、「新自由主義」に反対している左翼が、「新自由主義」を理解していないこと、つまり、単に、経済に関して、無知であるためと、反対するだけと言う、55年体制時代の体質を引きずっているからである。
また、社民党や民主党、公務員のような、確信犯もいる。
地方では、自公、民主に社民も加えた、大連立が、すでに恒常化しているにもかかわらず、民主、社民は、あたかも自公と対立しているかのような、演出を行っている。演出を行っているのは、マスコミと一部ブログである。
長くなるが、以下丹羽氏の説より。
「日本経済新聞社が、その編集方針において、国内・国外の左翼陣営と連帯・共闘する姿勢を、きわめて明確に示すようになってきたということを物語っている。。。
「新古典派経済学」に固有のニヒリスティックで無政府主義的な思想体系は、保守主義というよりは、むしろ、新左翼(ニュー・レフト)の思想と通底しあっているのではないかと、考えてきた。。
上述のような、最近の『日本経済新聞』の動きを見るにつけても、そのような感をいっそう強めざるをえないしだいである。。。
米国では、いまや、「リベラル」という言葉が、「左翼」という言葉と、ほぼ同じ意味合いで用いられるようになってきている。
「新古典派」経済理論のなかでも、最も重要なパラダイムと言えば、それは、ケインズ的な「有効需要の原理」を否定するという論理であろう。
有効需要支出が増やされてもマクロ的には生産も雇用も増加せず、経済が発展・成長することも無いはずだとするペシミスティックな理論を唱道したのである。竹中平蔵氏に導かれた小泉内閣の経済政策スタンスも、明らかに、このルーカス理論であった。
ルーカスは、投資の「懐妊期間」に相当する2 〜3年ないし 3 〜4年前後といった「短期」については、当該社会における稼動可能な企業資本設備のマクロ的な総量を、近似的に所与で、その変化は無視しうる程度であると仮定している。このような仮定も、経済理論では頻繁に用いられており、まずまあ、妥当な仮定であるといってよい。
しかし、ルーカスは、それにとどまらず、暗黙のうちに、既存の企業資本設備の「稼働率」も一定を保つものと、仮定してしまっている。もちろん、投資の「懐妊期間」以内といった「短期」の期間中でも、多かれ少なかれ、景況の移り変わりはあり、需要も変動するはずであるが、にもかかわらず、既存の企業資本設備の稼働率には変化は生じることはないものと、ルーカスは前提しているのである。
つまり、需要が変動しても、企業が、それに応じて資本設備の稼働率を変化させて、諸商品の生産量・供給量を調節させるといったことはなされないものと、仮定されているのである。言うまでもなく、ルーカスが置いたこの前提は、きわめて非現実的であり、妥当性に欠けている。
ケインズ的政策でマクロ的に需要が増やされたとしても、物価が上昇するだけで、生産や雇用は増えず、経済の実質的な成長も生じないとする「新古典派」流のペシミスティックな結論を導き出すことが、容易にできるようになる。これこそが、まさに、ルーカス理論のエッセンスなのである。
新古典派の「有効需要の原理を否定する理論」の核心をなしている「ルーカス型総供給関数」では、企業が商品を販売しうる「実際の価格水準」が社会の成員の「期待(予測)物価水準」を上回っている場合においてのみ総生産は増えることができるだけであって、この両者の水準が一致したとき(あるいは前者が後者を下回ったようなとき)には、企業にとっては、生産を増やせばかえって利潤が減ってしまうことになるので、結局、マクロ的にも総生産は増加することができないという意味のことが示されているのであるが、それは、まさに、上記のようなロジックによっているわけである。そのうえ、ルーカスたちは、ここで、くだんの「合理的期待形成仮説」をかなりオーバーな形で持ち込み、人々による「合理的な期待(予測)」が多くの場合に的中して、「実際の物価水準」と人々による「期待物価水準」とが高い確率で一致することになるのが通常の状態だと想定している。そのように、この両者がほとんど常に一致しているのであれば、かれらのロジックに則って言うと、、生産や雇用が伸びるといったことは、そもそも、ほとんどありえないことだということになってしまう。。。「…‥ だからこそ、ケインズ的な有効需要政策は無効果なのだ!」とニヒリスティックに決め付けられてしまっているわけである。
このようなルーカスの論理からすれば、ただ単に政府の「ケインズ的マクロ政策」(財政政策および金融政策)による場合のみならず、それとは無関係に純粋に民間の経済活力の高まりだけで総需要が増えた場合であってさえ、雇用も総生産も増加せず、景気の回復や経済の成長も生じないとする、まことに非現実的かつシニカルな結論になってしまう。このことを、われわれは見逃すべきではないであろう。
しかも、このような非現実的でシニカルな結論は、「短期」だけではなく、「長期」についても、同様に導き出さざるをえなくなるのである。なぜならば、もしも、ルーカスたち新古典派が叫んでいるような、総需要が増えても経済成長はもたらされないといった失望的な「短期的事態」が、本当に常に生じるのであれば、企業経営者たちは、もはや、将来の経済成長を見込んだ生産拡大のための「長期的」投資を行なおうとは、しなくなるはずだからである(そうであるがゆえに、新古典派の経済理論体系には、ほとんどの場合、企業の「投資関数」が組み込まれていない)。そうなってしまえば、人類文明の「長期的な」進歩発展ということも、ありえなくなるにちがいない。
もちろん、これは、実際にはとうてい考えられないような、きわめて非現実的な話である。すなわち、まさに、このような非現実的なパラダイムこそが、「需要が変動しても企業資本設備の稼働率は変化しないものとする」という奇矯な前提から導出される論理的な帰結なのである。そして、このような論理からすれば、市場メカニズムの最も有益な特徴である「消費者主権の原理」も貫徹しえないということになってしまう。すなわち、ルーカス理論は「反市場主義」でもあるのである。
現実には、需要が拡大すれば、それに応じて、企業は資本設備の稼働率を引き上げて商品の生産・供給量を増やそうとするはずである。この場合、企業としては、生産拡大のためには労働投入量も増加させねばならないということは当然のことだとしても、資本設備の稼働率を引き上げることによって「労働の資本装備率」の低下を避け、そうすることによって、労働生産性が下がることを防ぐことができる。実際には、ほとんどの場合、そのように需要の増加に応じて企業資本設備の稼働率を引き上げることができるようなときには、労働生産性も向上するのが常である。そうなれば、当然、「限界収穫逓減」の傾向の発現を食い止めることができることになる。
国内需要の不振・低迷による不況に直面した企業は、外需に依存せざるをえなくなり、死にもの狂いの輸出努力で生き残りをはからざるをえなくなる。他方、原・燃料の輸入にしろ、最終財の輸入にしろ、いずれにせよ、国内不況の状況のもとでは、その輸入量は減少・低迷する。
要するに、国内で不況が発生すると、輸出にドライブがかかり、輸入が抑えられ、貿易収支黒字が拡大(あるいは貿易収支赤字が減少)する傾向となる。かつての 360円=1ドルといった固定レート制の場合であれば、このような貿易収支黒字の拡大(外国からの輸出代金純流入の増加)が、必ず、景気の回復をもたらすことになった。1950年代、60年代に、わが国の経済の高度成長が長期にわたって持続しえたのは、そのようなメカニズムによるものであった。
しかし、1973年から導入されたフロート制のもとでは、このような貿易収支黒字の拡大は、すぐに、その国の通貨の対外交換価値──つまり対外為替レート──の高騰を、国際通貨市場においてもたらさずにはおかない。日本の場合であれば、「円高」が高進するわけである。しかし、言うまでもなく、そのような「円高」の高進は、輸出を困難にし、輸出産業をはじめとして、全般的にわが国の諸産業に多かれ少なかれ打撃を与え、不況は悪循環的に永続化することになる。
1970年代の後半以降今日までの30年間にもわたって、わが国の経済がかつての高度成長とは打って変わった低成長に呻吟してきたのは、まさに、このような悪循環によるものであった。 1970年までの360円=1ドルというレートから近年の110〜117円=1ドルというレートまで円高になり、1990年代の半ばごろにいたっては80円=1ドルといった超円高にもなったのであるから、わが国の経済が長期停滞の不振状態に落ち込んでしまったのも、いわば、当然のことであった。
現行のフロート制(変動為替相場制度)のもとにおいては、ある国の政策当局が国内的に「総需要」(すなわち「有効需要支出」の総額)の確保を怠り(あるいは、それに失敗し)、デフレ・ギャップを生じさせて不況を発生させしまうと、上述の悪循環的な不況の永続化という「罰」を受けることになるわけである。
他方、フロート制は、為替レートの変動を媒介として、適切な程度に国際収支の自動的な均衡をもたらすシステムでもある。したがって、ケインズ的政策によって国内的に「総需要」を十分に確保し、デフレ・ギャップもインフレ・ギャップも発生させないようにすれば、マクロ的に完全雇用・完全操業の「国内均衡」状態を達成しうるとともに、フロート制の特質によって、望ましい程度に「対外均衡」も自動的に達成されるという理想的な経済運営が、実現されうるのである。このような意味で、フロート制は、まさに、信賞必罰のシステムなのである。
わが国の政策担当者たちは、新古典派に追随しようとするあまり、この基本的な定理を軽視してきたために、わが国の経済を、30年にもおよぶ長期的な悪循環的衰退プロセスに陥れてきてしまったのである。要するに、フロート制がうまく作動するためには、主要各国が、ケインズ的なマクロ的有効需要政策を十分に実施していなければならないということが、重要な必要条件なのである。これは国際経済理論の最も初歩的かつ基本的な定理の一つである。。
人類文明の現行の経済体制を破壊し、衰亡させてしまおうとするきわめてニヒリスティックな情念が、内含されていると見なければならないのである。。
1973年(ないし、その前後)に、わが国ほか全世界の西側陣営主要諸国が固定為替レート制からフロート制に移行したのは、新古典派「反ケインズ主義」軍団の総帥フリードマンなどによる「フロート制に移行すべし!」というきわめて声高な唱導に、当時の主要諸国の政策担当者たちが従うにいたったという面が多かったということが、周知の事実だからである。
マルクス主義的な左翼陣営からの熾烈な攻撃に立ち向かって、自由企業と市場経済システムによる資本主義的な現行体制を守り抜くための最も有力な経済思想的戦力となったのが、ほかならぬ、ケインズ主義であった。ケインズ的政策こそが、資本主義的な市場経済体制に永遠の繁栄をもたらしうるものであったからである。端的に言えば、「冷戦」とは、経済思想戦の次元では、マルクス対ケインズの対決であったのである。
第2次大戦を契機に米国に本拠を移した「フランクフルト学派」の特徴であるニュー・レフト(新左翼)的なニヒリズムと、その底流を同じくしているのである。すなわち、新古典派の経済思想は、断じて、保守主義ではないのである。
新古典派のニヒリスティックな思想的・理論的な特異性が、とくに米国において、ベトナム後遺症世代の知識人たちを、強く惹きつけるものとなったということは、容易に想像しうるところである。
新古典派と左翼陣営の連携・共闘という、一見、不可思議な状況の続出についても、それが、むしろ必然の趨勢であるということが、わかってくるのである。そして、わが国の場合は、いわゆる全共闘世代の学者や官庁エコノミストやジャーナリストたちの多くが、とくに米国留学で、このような新古典派による思想的洗礼を受け、そのニュー・レフトとも底流を同じくするような奥深いニヒリズムに、共感するようななったわけである。」
http://homepage2.nifty.com/niwaharuki/ronbun/18.11gekkann-nihon.htm
http://homepage2.nifty.com/niwaharuki/index.html
「需要が無い」と言う事は、民主党も主張していることである。民主党は「過剰設備を抱えているから」中小企業に対する、融資を行わないのだと説明しているが、同じ主張は、日銀によって、繰り返しなされた。融資を行えば、過剰設備も稼動させることができる、と日銀も言っている。
「需要が無い」のではなく、買いたい物があっても、我慢しているのが、現状であるし、投資を行えば、過剰設備も稼動させる事ができる。それだけのデフレギャップがある。
民主党は、需要が無いのに、ハイパーインフレが起こると矛盾したこと主張しているし、日銀による国債買い上げによって起こるのは、ハイパーインフレではなく、バブルであると認めている。
国債買いオペによって、銀行に資金が供給されても、回収できる見込みも無いところへむやみに資金を貸し出すことはありえない。短期間のに利益を上げることのできる、投機分野に資金が、供給されるから、起こるのは、ハイパーインフレではなく、バブルである。
バブルによって、株が買われ、国債は売れなくなり、金利は上昇する。その結果、国は破産する。日銀による国債買い上げか政府通貨などで、国の借金を減らさない限り、身動きが取れない。
柳澤氏が言った、「国の借金はもう返済不可能」と言う言葉は、増税を行っても、返済不可能と言う事であり、民主党の言うように、「増税しないと返済不可能」と言う意味ではない。
アメリカにも、外国に干渉しない事が、本来の伝統保守であると言う考え方があるように、日本にも、「保守」という言葉をめぐって様々な異論はある。「ポピュリズム」と言う言葉を乱用するブログが、同時に、経済に関する知識が無いまま、「新自由主義」と言う言葉を乱用している現状がある。
by地声人語日記