日本が大東亜戦争と言い、アメリカが太平洋戦争(PACIFIC WAR)と名付けた戦争は、主として東南アジア並びに太平洋方面における日本とアメリカ・イギリス・オランダ・中国等の連合国軍との間で激しい戦闘が繰り返され、その戦死者は数百万人とも言われます。
そして日本では、いつの間にか女性達が戦闘員として与(くみ)され、外地(満洲や東南アジアや太平洋諸島)や内地(本土空襲)で多くの婦女子達が無慙(むざん)に死んでいきました。
太平洋戦争下の1942年11月、東条内閣は拓務省ならびに外務省の一部、その他の外郭団体を吸収して「大東亜省」を打ち立て、大東亜共栄圏地域の政務を扱う中央行政機関を発足させました。
そのスローガンは欧米勢力を排除して、日本を盟主とする満州・中国および東南アジア諸民族の共存共栄を説き、アジア支配の正当化を捏造(ねつぞう)するものでした。

松岡洋右(1880〜1946年)。
山口県生れの政治家。アメリカで苦学した後、外交官となる。満鉄副総裁を経て政友会代議士となる。国際連盟脱退の際の首席全権。満鉄総裁を経て、近衛内閣の外務大臣として日独伊三国同盟・日ソ中立条約を結ぶ。第二次大戦後、東京裁判でA級戦犯として起訴され裁判中病没。

▲日ソ中立条約に調印する松岡洋右。
▲国際連盟総会から意気揚々と退場する外務大臣・松岡洋右。

▲松スターリンと松岡洋右外相。
大東亜共栄圏の思想は、1940年当時、外務大臣松岡洋右(国際連盟脱退の際の首席全権で、満鉄総裁を経て近衛内閣の外相として日独伊三国同盟・日ソ中立条約を結ぶ。戦後、A級戦犯として挙げられ裁判中病没)の談話に由来するものでした。そして彼のこうした発想は、やがて国民皆兵へと駆り立て、「一億火の玉」の戦闘思想へと繋がっていきます。
また一方、国際連盟は加盟国五十数ヵ国に達したていましたが、アメリカは当初から不参加、日本は昭和8年(1933年)3月27日、満州問題が原因で脱退、のちドイツとイタリアもこれにならい、一旦加入のソ連もフィンランドとの戦争の際除名され、この国際機関は有名無実のものとなっていきます。
そして世界の暗雲はこの時を境に暗い翳りを落とし始めます。
昭和15年(1940年)10月、ソ連駐在大使・建川美次を通じてソ連に不侵略条約締結を提議し、これを受けて、昭和16年(1941年)4月13日には日ソ中立条約がモスクワで調印されます。その時の全権は外務大臣の松岡洋右でした。
この条約は、有効期間は5年でしたが、昭和20年(1945年)4月5日、ソ連は外相モロトフが不延長を通告し、同年の8月8日の対日参戦により失効します。そしてソ連は満州へ進攻を開始します。
ソ連軍は、9日午前零時に豆満江(とまんこう)の河口、黒龍江(こくりゅうこう)中流の黒河(こっか)東南約100キロ地点の奇克(きこく)、ノモンハン(Nomonhan/かつての日ソの激戦地。
中国東北部の北西辺、モンゴル国との国境に近いハルハ河畔の地。1939年5月から9月中頃まで、日ソ両軍が国境紛争で交戦し、日本軍が大敗を喫した)の、三方向から満州に雪崩れ込みました。モスクワ時間では8月8日の午後六時でした。
鈴木貫太郎首相は、小石川の私邸でソ連参戦を知る事になります。
これまで精強を誇っていた関東軍も、南方方面や本土決戦に備えて日本内地に兵力を転出したばかりでしたから、満州を守る兵力は手薄であり、二ヵ月ともたないと判断されました。
日本はこの時、三つの決断に迫られます。それは、ソ連を仲介とする和平工作に失敗した責任をとって総辞職するか、ソ連の宣戦に応呼して日本も宣戦布告を発して徹底抗戦するか、ポツダム宣言を受諾して無条件降伏するか、でした。
結果的にはポツダム宣言を受諾する道を選択しますが、これには多くの難問が山積みされていました。
▲ソ連軍T34戦車(31.3トン)。日本軍の装甲の薄い97式中戦車では全く太刀打ちできなかった。 ▲8月8日午後六時(日本時間では8月9日)、満州に続々と攻め入るソ連軍機械化部隊。

▲日本陸軍の九七式チハ中戦車。(乗員4人、重量15トン、エンジンは空冷V6ディーゼル・エンジン170馬力、時速:38キロ、航続距離:210キロ、最大装甲:25ミリ、武装:57ミリ砲1門、7.7ミリ機銃2丁)
歩兵支援用として開発された戦車だが、武装と装甲がひ弱だった為、太平洋戦争では米軍のM4シャーマンやソ連軍のT34戦車(ディーゼル12気筒500馬力、時速51キロ、装甲75ミリ、武装85ミリ砲1門、機銃2丁。当時、世界中の総ての戦車に対抗出来るように作られていた)には全く太刀打ち出来ず、最大装甲が僅かに25ミリという薄さは、戦車乗員達を大いに苦しめた。敵戦車からの74ミリ砲が命中すると、まるで飴のようにグニャリと変型し、簡単に破壊されてしまった。
かつて、作家の司馬遼太郎氏は大戦末期、陸軍将校として、北支方面で戦車隊長をしていたが、日本戦車のあまりの装甲の薄さと、火力の弱さに、「これでどう戦えと言うのだろうか?」と、日本陸軍の戦車戦思想を大いに疑っていた。
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滅びの美学
一言で、「国敗れて山河在(あ)り」と言いますが、恐らくこうした情緒で、「滅びの美学」を唱えるのは日本人だけでしょう。

▲海軍神風特別攻撃隊の米空母フランクリンへの壮絶な体当り。特攻機は艦橋に撃突。
太平洋方面の玉砕や万歳突撃も、航空機やロケット機での敵艦隊当たりも、総べて「滅びの美学」から来たもので、その根本には「死への憧れ」と「死の美学」がありました。
したがって日本人の内情は、国家存亡を賭(か)けて戦い、国益をぶつけ合って戦うという意識が薄く、元々太平洋戦争は、こうしたところにも戦争目的が不明確でした。
日本人は、明治維新以来、一旦戦争に負けると、山や河はおろか、国家や民族としての纏(まと)まりすら奪われ兼ねないと考える欧米人の思考とは大きく逸ししています。また、ヨーロッパで起こった今迄の歴史すら研究しようとしませんでした。
逆に言うと、欧米では民主主義と言う市民社会では、国民達を守ってくれる軍隊に対し、深い信頼と尊敬を寄せ、勝利した戦争に誇りを持つと言う意識が強くあります。
フランス国歌の「ラ・マルセイエーズ」は、マルセイユから祖国防衛の為に進軍する義勇軍の歌ですし、アメリカ国歌の「星条旗よ永遠なれ」は独立戦争当時の、銃弾に倒れた愛国者の歌です。そして欧米では、戦争はしばしば、自分達の民主主義を標榜(ひょうぼう)する市民社会の同一性であり、正統性を形作る為の神話にまで発展させていたのです。
こうした例をアメリカにとるならば、それは独立戦争と南北戦争に回帰されます。
この国は、二度の戦争を経験しながら、軍隊は、正しい戦争を戦う勇者達という感覚を持っていて、健全な市民社会のバロメーターとなっていました。
しかし考えてみれば、戦争は「矛盾と欺瞞(ぎまん)」に満ちています。
市民社会としての一員である市民は、殺人や暴力が禁じられています。また市民自身も、普段ではこうした行為はいけない事であると信じています。ところが一旦戦争になると、敵を攻撃し、殺害する事を躊躇(ちゅうちょ)してはならぬ事を教え込まれます。
こうした矛盾を繕(つくろ)う為に、心理的な「任務遂行のメカニズム」が用いられます。
すなわち「命令」であり、軍人の命令厳守は「任務を遂行している」のであり、決して人殺しをしているのではないという「任務遂行のメカニズム」が動員されます。任務を遂行し、これを果たせば、軍人としては名誉であり、市民が賞賛し、尊敬すら得る事が出来ます。
また、政府は任務遂行に対し、勲章や称号や階級特進の制度を与えます。こうした心理的なメカニズムによって、市民社会と軍隊が両立していたのです。そして市民社会では、市民はこうした両方の世界を行ったり来りしました。
そもそも戦争は、矛盾と欺瞞(ぎまん)で満たされているのですが、これでも軍隊は維持しなければならないと言う、人類特有のエゴイズムがあります。戦争の悲惨さは充分に分かっていても、人間が市民として暮らしていく為には、市民社会が必要であり、この幾つもの市民社会は民族を形成し、国家を形成します。
市民社会が国民国家として立ち行く為には、平和を共存する必要があります。近代に於ける軍隊は、そういう国際社会の現状の、不可欠な一部であると定義出来ます。
しかし、こうした背景に、人類が唯一つの価値観を信じ、唯一つの市民社会に纏まって暮らせる日が来るまで、人類から戦争は無くならないのです。
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負けるべく戦い、太平洋戦争
日本は、いよいよ「滅びの美学」に向かって突き進みます。
「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
これは昭和16年12月8日早朝のラジオの臨事ニュースです。
日本海軍が真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争に突入した事を報じたニュースです。
下記参照
英米イスラエルの背後にいる寡頭勢力=国際ユダヤ金融資本家たち
第二次大戦に米国を参戦させるための手口・・真珠湾攻撃http://www5f.biglobe.ne.jp/~shishoukaku/07sk/160813guide/guide.html#06
この日より日本は国家滅亡に向かって進んでいく事になり、大勢に非戦闘員の命が失われる最悪の暗示がありました。
日本が米英を相手に戦いを始めた事は、大局的に見て戦略的な失敗であり、また日本の国家戦略のなさが悉々く敗因へと繋がっていきます。
明治維新以来、日本はアジア諸国を決して友邦として扱おうとしませんでした。日本人から見るアジア人は、常に日本人より一等低く扱われ、蔑視して、中国や朝鮮を連携の対象と看做(みな)していなかった節がありました。
連携する事はもとより、中国に侵略して、植民地支配を続け、抗日、侮日のナショナリズムを高揚させていったのです。こうした事が、日本をアジアの中で孤立させる事になります。
更には、
ABCD包囲網によって経済的には封鎖される事にもなります。

▲赤い夕陽の満洲といわれた新天地も、決して日本人入植者が考えるような「王道楽土」ではなかった。
松岡洋右の談話に由来する「大東亜共栄圏」という、日本を盟主とする満州・中国および東南アジア諸民族の共存共栄を説くこの思想も、アジア諸国の理解を得られるものではなく、西欧植民地に日本が取って代るというスローガンにしか過ぎませんでした。
その上、
満州事変を正当化した「王道楽土」の建設も、結局、当時の中国人には全く通用しないものでした。 しかし、これにもかかわらず、太平洋戦争が勃発してしまうこの経緯は、既に日本を戦争の中に引きずり込む、歴史の罠が存在していたからです。
太平洋戦争は海軍が主体の戦争でした。アメリカを相手にして日本が勝つ見込みは殆どありませんでしたが、しかし勝てないまでも、より良い負け方をする方法は幾らでもあったのです。
もし、日本側の戦争指導者の中に、高度な戦略思想を持ち、それを実行する愛国心に燃えた指導者がいれば、この戦いはもっと別の方法で、より良い負け方をしていたはずです。そして多くの犠牲者を出さず、戦局もまた違ったものになっていた事でしょう。
大日本帝国海軍という軍事組織の中枢は親米派や欧米派によって彩られていました。その主要な人物は総てがフリーメーソンのメンバーであり、日本海軍首脳(日本海軍士官の研究・親睦・共済機関で、1876年に創設され「水行社」と言われた。
終戦後、解散し、東京本部ビルは在日ユダヤ系団体の本部となり、この建物はメソニック・ビルと言われる)はフリーメーソン支配層にコントロールされた節が否めません。
▲冷暖房完備の全長263m・最大幅38.9mの大和ホテル。戦艦「大和」(排水量6万9100トン)の主砲46cm砲9門のアウトレンジ戦法は、ついに見る事がなかった。
この為、日本海軍は太平洋上において不可解な動きをします。それはアメリカに手心を加え、まるで負ける事を意識したような作戦を次から次へと展開したからです。これでは、勝てるはずの戦争も勝てるはずがなく、軍部の中枢に、利敵行為を働くような買国奴がいては勝てるはずもありません。
こうした動きは海軍ばかりでなく、陸軍統制派の中枢にもこうした手合いがおりました。大本営参謀本部の高級参謀達は、常に無謀極まる作戦計画を立て、日本軍に多大な損害ばかりを与え、多くの下級将兵ばかりを失う事ばかりを繰り返していたのです。
陸軍参謀本部といえば、陸軍大学校を優秀な成績で卒業したエリート中のエリートが集うところであり、この優秀な頭脳を持った彼等が、まるで痴呆(ちほう)のような幼稚な作戦計画を立てるのです。
そして、
拙劣な作戦を立案するばかりでなく、それを強引に強行して、現場の将兵にこれを押し付けたのです。
日本軍に次から次へと負けるような戦いばかりを押し付けていき、最後は「滅びの美学」を持ち出して、万歳突撃を敢行させたり、特攻隊を編成するような愚行をやらかします。
陸海軍の参謀本部のエリート達は、日本を敗北に導く為に、国際ユダヤ金融資本の支配層によってコントロールされた人達でした。
そして彼等の一部はフリーメーソンの高級メンバーであり、また、その一部はソ連に通じ、共産主義分子でした。
癒しの杜
続 日本を敗戦に導いた戦争指導者達