大戦末期、労働力の不足は深刻であり、その人手不足は都市の軍需工場にも及びました。39歳までの未婚の女子が勤労報国隊として動員され、更には女子挺身隊が組織されて、彼女達は都市圏の軍需工場で働くようになりました。1945年3月当時、その数は約45万人にも達していました。
また一方に於いて、衣料不足と言う深刻な事態が起こり、生活必需品は総て配給でしたが、家庭向けの衣類の供給量は1944年の場合、7.4%といわれ、1937年を遥かに下回る数字でした。
女性は、総ての古着を再生してモンペに変え、本土決戦に備えてその準備が始まりました。
陸軍は本土決戦を呼号し、昭和20年6月の国会では「義勇兵役法」が成立しました。これは、男子は15歳から60歳まで、女子は17歳から40歳までを義勇兵として兵役に義務に服すべき法律であり、敵が上陸して来た場合、陸海軍の指導の下、義勇戦闘隊として戦場で戦うと言うことを定めたものでした。
この法律が成立してから、鈴木貫太郎首相は陸軍関係者から義勇隊に用意された武器を見せられました。小銃は十六世紀の戦国時代に遣われたと思われる火縄銃だったり、銃口から火薬を込める戊辰戦争当時のヤーゲル銃で、一発撃つ度に鉄を輪切りにした弾を銃口から押し込み、再び撃鉄を起こして発射すると言う時代遅れの単発銃でした。これは骨董品であり、近代戦を戦う「小銃」というものではありませんでした。
▲軍需工場に動員された女子学生。
▲竹槍訓練をする女子義勇軍。
他の武器賭しては、竹の先端を斜に切り、焼き入れをした竹槍、江戸時代の捕り物で遣う刺股(さすまた/江戸時代、罪人を捕えるのに用いた木製の長柄の先端に鋭い月形の金具をつけた武器)、突棒、更には弓矢でした。
この弓矢には説明書が付いていて、「射程距離、概ね3〜40メートル、通常射手にゆる命中率50%」と言うものでした。こうした陸軍が用意した武器の中で、唯一つ武器らしい武器といえば、焼き物の容器で造られた球形の手投げ弾で、これを敵に投げ付けると言うものでした。
しかしこうした、近代戦を戦う武器とは言えないような武器で、敵の戦車等の機甲で固めた、火炎放射器や自動小銃で武装した機械化部隊に、こうした物で、どう戦おうとしたのでしょうか。
15歳から60歳までの老人(この時代の男子の平均寿命は、男子が44.8歳、女子が46.5歳)や、女性によって編成された義勇戦闘隊で、陸軍は本気で本土決戦が戦えると思っていたのでしょうか。

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しかし物資欠乏と言いながら、あるところにはあるもので、大戦末期の食糧難でも、大本営参謀本部の陸海軍軍首脳はこうした酒食に溺れる宴会三昧を毎日繰り返していた。(写真は昭和13年当時の「日本陸軍将校クラブ」のもの)
元海軍大将の
鈴木貫太郎首相は、思わず「これは……ひどいなア」と声を漏らしました。しかし陸軍関係者は「精神で戦うのだ」と首相の言を一蹴(いっしゅう)します。
酷いのは武器だけではありませんでした。食糧の配給も底を尽き、昭和20年の7月12日から主食の配給は、今迄の一人当り330gから297gに減らされていました。これは一割強の減配です。
この主食というのは「米」のことではなく、トウモロコシ、大豆、イモ、イモの蔓(つる)等の雑穀を含めて主食というのであり、米はひと粒も混じっていませんでした。
国民の大半は、既に栄養失調であり、配給は遅配続きで、「肚(はら)が減っては戦が出来ぬ」と昔からいいますが、政府と陸海軍は国民に対して、どう戦えというのでしょうか。
当時の厚生省の担当官は、こう言い捨てます。
「一割減ったからと言って慌てる必要はない。即ち、従来われわれが目につけていなかった未利用食糧源を活用すれば、相当程度、栄養補給をする事が出来る」
この未利用食糧源というのは、ドングリや野に咲く雑草(タンポポ、ハコベ、イタドリ、アカザ、アザミ)等を言い、あるいはアルコールを搾(しぼ)り取った後の薩摩薯(さつまいも)の蔓(つる)、その搾(しぼ)りカス、イモの蔓そのもの、家畜の餌(えさ)のトウモロコシ等でした。
来るべき本土決戦の構想は、進んで日本を滅ぼす側に廻る方と、敵の侵入を拒み、決戦に徹する方とに真っ二つに分かれ、御前会議では激しい議論がやり取りされました。
日本を滅ぼす側の代表格は、海軍大臣の 
米内光政で、「日本は既に敗北しているも同然だ」と一蹴(いっしゅう)して徹底抗戦はを退けます。
逆に、陸軍を代表する陸軍大臣の阿南惟幾(あなみこれちか)は、これに対立して、「敗北とは実に怪しからん。われわれは、まだ敗北しているわけではない」と、こう切り返します。
下記参照
http://www.geocities.jp/torikai007/war/1945/yonai-amami.html
豊田は米国機B29の来襲で打撃を受け、軍需物資の生産が著しく低下している事を述べ、石黒は東北地方の冷害で来年は飢饉が避けられない事を説明し、小日山は朝鮮、満州、台湾はもとより、本州と北海道の交通さえ、困難である事を発言しました。
しかし国論は二つに割れ、決着がつかないまま、国民は更に過酷な戦闘訓練へと駆り出されます。

▲愛国婦人会の女性に、兵用帯革の武装を施す。

▲本土決戦に備えて戦闘訓練をする少年兵。

▲本土決戦に備えての少女の薙刀練習。
昭和20年8月14日午前八時、鈴木首相は内大臣の
木戸幸一を訪ねて、通常の手続きによらない、天皇の御召と言う特別な形で御前会議の開催を求めました。
出席対象者は、最高戦争指導会議のメンバーでした。前日の閣議では、ポツダム宣言受諾の結論は出ず、また、このままでは陸軍のクーデターの懸念すら疑われていたのです。

▲最後の御前会議の模様。
14日午前10時50分をやや過ぎた頃。
木戸は天皇の元に行き、この旨を伝えて、天皇は鈴木の希望を認めました。しかしその前に、阿南陸相は天皇に三人の元帥にあう事を薦(すす)め、その意見を聞いてからという注文をつけました。
三人の元帥とは、第二総軍司令官の畑俊六陸軍大将・元帥、第一総軍司令官の杉山元陸軍大将・元帥、軍令部総長の永野修身海軍大将・元帥でした。他に、寺内寿一陸軍大将も元帥でしたが、サイゴンにいた為に呼ばれませんでした。
天皇は杉山と永野に、意見はどうかと訊ねます。二人異口同音に「まだまだ一戦する余力が御座います」と答えましたが、西日本防衛の最高責任者だった畑だけは、「敵が上陸して来た場合、これを撃滅する方法はございません」と正直者に答えました。
畑は、侍従武官や陸軍大臣を歴任した事があり、天皇の信任は厚いものでしたが、天皇がすっかり憔悴しているのを見て、杉山と永野のような空元気の返答をする事は到底出来なかったのです。
こうして日本は終戦に向かって動きだします。8月15日正午、天皇自ら詔書を朗読放送をする事で、日本国民にポツダム宣言受諾を明らかにする事になりました。
東郷茂徳外務大臣は即座に外務省に行き、スイス経由でアメリカ政府宛にポツダム宣言受諾の伝法を打ちます。この公電をアメリカに届けたのはスイス臨時代理公使グラスリで、ワシントン時間で14日の午後六時でした。
午後七時、

トルーマン大統領はホワイトハウスで記者会見し、
日本の無条件降伏を発表しました。
「本日午後、8月11日に国務長官から日本政府に送った電報に対する回答を受け取った。この回答は、無条件降伏を定めたポツダム宣言の日本側の完全な受諾と考える。
マッカーサー将軍が日本の幸福を受諾する連合軍最高司令官に任命され、日本の降伏についてイギリス、ソ連、中国の代表が列席する事になった。これによって連合軍の攻撃中止の命令が下された」
こうして、日本の無条件降伏は世界中を駆け巡ります。
しかし実質的には、日本ではまだ、全てが終わっていませんでした。
阿南陸相は14日午後十一時に署名を終えた後、鈴木首相官邸を訪ねます。
阿南は敬礼した後、「終戦の議が起こりましてから、私は色々と申し上げましたが、総理には大変御迷惑をおかけしました。私の真意はただ一つ、国体の護持にありました。どうか、ご了解下さいますように」と言い、鈴木も「よく分かっています。しかし阿南さん、皇室は必ず安泰ですよ」と励ますように言いました。
▲
自決した陸軍大臣・阿南惟幾大将
阿南は「私もそう信じます」と言って、新聞紙に包んだ葉巻の箱を鈴木に贈り、再び敬礼した後、首相官邸を後にします。
鈴木はこの後、阿南が自決するだろうという事を既に察していました。
阿南は陸相官邸に戻り、
「一死以て大罪を謝し奉る
昭和二十年八月十四日夜
陸軍大臣阿南惟幾
神州不滅を確信しつつ」
という遺書を認めた後、決起を飽きられた義弟の竹下正彦と別れの酒を酌み交し、かつて天皇から拝領した白いシャツを身に付け、短刀を抜いて自決しました。
しかしこの日、日本各地の航空基地からは多くの特攻機が、基地周辺の若い女性達の涙ながらに振る日の丸の小旗に送られて、飛び立ちました。この日飛び立った搭乗員達は、果たして国体の護持の為に出撃してのでしょうか。
15日正午、国民の多くは「重大放送」があると知らされていたので、職場や核施設、学校や家庭ではラジオを野前に集まりました。この放送は「玉音放送」と称され、はじめ、国民は天皇からの激励の放送と思っていましたが、無条件降伏を促す放送であると分かり、大きな衝撃と、これまでの事と錯誤して、なんとも言えない虚脱感に襲われました。そしてこの日は、太陽が無性に輝き、驚くべき暑かった日と言います。

▲
玉音放送で日本の敗戦を知る。
幸田露伴の娘で作家の幸田文は、その著書『菅野の記』に、「あの年の関東のあの暑さは、焦土の暑さだったと云うよりほかにないものだと、私はいまも思っている。前年の夏だってその前の夏だって暑かったのだろうが、日本はまだ戦っていた。誰の眼にも旗色は悪く、戦争の疲労と倦怠になげやりになっていたとは云え、それでもみんなそれぞれの親と子を兄弟を砲弾の下に送ってい、自分たちもいつ空襲に死ぬかわからない恐怖で、暑さなんぞに負けてはいられなかった」と記しています。
その日の空は、既に上空では秋風が立ち、恐ろしいほどに澄んでいたと言います。しかし、「無性に暑かった」と誰もが記憶しています。
玉音放送が終わった後、大分航空隊にいた第五航空艦隊司令長官の宇垣纏(まとめ)海軍中将は、先任参謀の宮崎大佐を呼んで、艦上爆撃機「彗星(すいせい)」5機に出撃準備を命じました。
宇垣中将は沖縄のアメリカ艦隊に向けて突撃するのだと言います。参謀以下の幕僚達は止めにかかりましたが、宇垣をこれを聴かず、「最後の死場所を与えてくれ」と言います。
また、若い搭乗員達に、「自分も必ず行く。一足先に行って待っていてくれ」と訓示していた手前もあり、自分一人がおめおめと生き残れないと言います。
宇垣が飛行場に到着した時、五機のはずであった「彗星(すいせい)」が、十一機も並んでいました。宇垣は襟の階級章を外し、「彗星」に乗り込みました。
十一機の「彗星」が飛び立つ際、海軍伝統の「帽を振れ」の号令がかかり、宇垣も山本五十六から拝領した軍刀を掲げて、これに応えます。十一機の彗星は、暮れ泥(なず)む夕暮れの中を、一路南に進路をとって飛び立ったのでした。
午後八時二十五分、「トラ・トラ・トラ」(「ワレ奇襲ニ成功セリ」)の真珠湾攻撃の時と同じ電文が入電されます。その後、「ツー」という長音が宇垣の機から発進され、やがてこの音は消えました。これが昭和20年8月の最後の特攻隊の出撃でした。
阿南陸相に続いて、軍令部次長で、特別攻撃隊の生みの親であった海軍中将・大西瀧次郎も、16日未明割腹をして命を断ちました。

▲サイパン島で発見された日本軍車輌。

▲ソ連軍に降伏した関東軍司令部の将官クラス。

▲東京大空襲で灼き殺された人々の死体。

▲沖縄戦でアメリカ軍に降伏する司令部の面々。
昭和20年8月15日、確かにこの日、戦争は終わりました。しかしこの戦争は大きな傷跡を残し、日本人はかくも無惨に百数十万人もの犠牲者を出しました。
太平洋戦争を振り返った時、この戦争に至る原因と責任を追求した場合、開戦に至るまでの日本側の諸々の政策や決定事項には多くに失敗があった事は、率直に認めなければなりません。
しかし同時に、アメリカやイギリス、オランダや中国が総て正しいかったかと言うと、決してそうでもありません。太平洋戦争に至る戦争の原因は、彼等も同じように作ったし、この責任については二本ばかりでなく、連合国軍も同時に担うべきでしょう。
戦争は、一方が正しくて、一方が悪いと言う事は絶対にありません。
もし、「悪」を挙げるならば、日本側と連合国側の、「悪の想念」をもって、戦争に誘導した者(=国際ユダヤ金融資本家たち)こそ、責められるべきであって、本来ならば、こうした結果に至った場合、日本では「喧嘩両成敗」という論理で、こうした悪を裁いて来ました。
更に、徳川時代は「喧嘩両成敗」をする事によって、二百六十年の平和な時代を築いた実績があるからです。これこそ、人類の平和求望の叡智ではなかったのでしょうか。
しかし太平洋戦争は多くの怨念を抱え込んでしまう事になりました。
進歩的文化人の中には、この戦争を「民主主義」対「日本軍国主義」の戦いと決めつけ、民主主義の正義と人道がこの戦争に勝利したと言いますが、これは歴史的に見て、とても連合国側が正しいとは言えません。
まず、責められるべきは、戦争を起こした双方であるべきで、日本側だけに一方的に非があり、マルクス主義陣営から見た戦争観であり、一方的に日本の責任とするのは余りにも自虐的なイメージと言えましょう。

▲沖縄戦でギブアップした兵隊。

▲軍刀を差し出す日本陸軍将校。

▲日本軍の降伏と武装解除。
中国共産軍(八路軍)に押収された日本軍の武器の数々。

▲日本軍の降伏、そして武装解除。
国敗れての、日本海軍の末路。
●シベリア抑留
太平洋戦争は昭和20年8月15日に終戦を迎えました。しかし日本国民は、これで解放されたわけではありません。これを境にして日本人の受難はまだまだ続きます。
ポツダム宣言受諾による無条件降伏後、ソ連は軍事捕虜として、ソ連国内の各地に日本人を抑留します。この抑留期間は二年ないし四年と言う事でしたが、こうして強制労働を余儀無くされた日本人の数は約六十万人強と言われます。
捕虜抑留の名目はあくまで「軍事捕虜」でしたが、ソ連軍と戦闘を交えた関東軍や千島部隊の将兵だけではなく、満蒙開拓団員としてソ連国境付近に入植していた日本人農民や、満州国の官吏、南満洲鉄道や満州重工業開発の国策会社の社員、協和会や新聞社の社員や職員、従軍看護婦や軍関係の事務職員、婦女子に至るまでの十五歳から五十歳くらいまでの幅広い年齢の日本人が、ソ連軍の捕虜狩りの網にかかり、捕まえられ、犯され、奪われ、そしてシベリアへと送り込まれたのです。
抑留は、日本軍を武装解除させた後、これを老えた部隊を中間集合地点に終結させ、ここから再び編成を改めてシベリアへと送る手段がとられました。
中間地点は満州では、敦化(とんか)、延吉(えんきち)、牡丹江(ぼたんこう)、海林(ハイリン)、新京(満州国の首都・長春)、奉天(瀋陽)、満州里、海拉爾、哈爾浜(ハルピン)、大連、孫呉(そんご)等の二十七ケ所で、北朝鮮では咸興(ハムフン)、三合里、興南、平壌(ピョンヤン)、京城などの六ヶ所でした。
武装解除をした関東軍の将兵は勿論の事、戦闘と敗走から命拾いをしてやっと北朝鮮にまで辿り着いた人、ソ連兵の「トーキョー・ダモイ(東京に帰れるの意味)」の甘い言葉に乗って連れてこられた人、恐怖と上から逃れる為に民衆を頼ってやって来た人と様々であり、その数は厚生省資料によりますと遥かに五十七万五千人を遥かに超え、実質的には七十万人に達するだろうと言われています。

▲降伏後、連合軍から身体検査を受ける日本陸軍将校。

▲武装解除後、
ソ連軍の連行によって捕虜収容所に向かう日本軍将兵。
日本人の多くは戦闘での犧牲は免れたものの、抑留地へ向かう中間集結地点で命を落とす人も少なくありませんでした。
中間集結地点では、『戦陣訓」の「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」の語が重くのしかかって、捕虜になる事を潔くとせず逃亡を企てて射殺された人、飢えや病弱で死んで行く人、伝染病を煩って死んで行く人、ソ連兵の掠奪(りゃくだつ)や暴行に耐えかねて逃亡を図り射殺される人、あるいは運良く追手から逃れ、やむなく逃避行後、そこで行き倒れとなって死んで行く人と、その犧牲は様々でした。
集結地点では約千人単位で「作業大隊」が編成され、敗戦後約2週間から翌年の昭和21年の8月頃まで、逐次ソ連各地の収容所に連行され、軍事捕虜として過酷な強制労働が課せられました。
厚生省援護局の作成資料には、抑留者とそこで死亡した人の数は次のようになっています。
ソ連本国に抑留された日本将兵をはじめとする抑留者 約57万5千人。
日本へ帰還出来た人 約47万4千人。
彼地で死亡した人 約5万5千人。
病弱等の為に、入ソ後、満州(中国東北部)や北朝鮮に送還された人 約4万数千名。但し、多くの途中で死亡。
ソ連から中国に戦犯として引き渡され、処刑もしくは獄に繋がれた人969人。
日本人の、こうして軍事捕虜になった人々は、半ば強制的に重労働を課せられ、それを果たさねばならないものとして、屈辱に耐えねばなりませんでした。そして軍事捕虜の場合、生命を保証されると言う事が明確でなく、かつて《カチーンの森》で大量虐殺されたポーランドの将校のように、後ろ手に縛られ、口の中に大鋸屑(おがくず)を詰められ、ソ連の秘密警察に殺されたようにならないとは限らないのです。 朝、収容所の広場で点呼を受け、作業機材を持たされて作業場に向かう日本人捕虜の列は、誰の目から見ても無気力な、ボロを纏った集団にしか過ぎませんでした。
冬ともなれば、マイナス50℃にもなり、この厳寒は日本人には耐え難いものでした。北海道や東北出身の兵隊でも、相当に厳しいものであり、ありったけの衣類を身に付け、更にその上に毛皮や外套(がいとう)を覆い、鼻の頭に凍傷を受けない為に薄汚れたマスクをし、その上に被った防寒帽の垂れを降ろして雪の泥濘(ぬかるみ)をのろのろと歩かねばならなかったのです。何と言う、悲惨な姿でしょうか。
北の凍土では、こうした現実が起こっていたのです。
癒しの杜
続