NC9の中国残留孤児事業報道 -
日中友好に流された汗と涙と血
一部に、日本は中国との経済関係において全面的に依存する関係にあるから、日本は中国との間で戦争を起こすことはないという意見がある。歴史を振り返れば、こうした見方が安直で楽観的に過ぎることがよく分かる。歴史を鑑にしなければならないと言われる所以である。
1941年12月、日本は世界最大の経済大国に宣戦布告して戦争を始めた。その国は日本の最大の貿易相手国であり、しかも自給不能なエネルギー資源である石油の輸入を100%依存している国でもあった。
常識では開戦など絶対にあり得ない選択だが、陸軍も海軍も天皇も政府も開戦を選択して、機動部隊で奇襲攻撃をかけた。中国が日本の最大の貿易相手国であるという経済的事情は、日本が中国に侵略戦争を仕掛けないという論理的根拠にはならない。
第二次大戦における独と英仏の関係を見ても同じだろう。経済関係は友好関係の第一歩だが、経済関係を深めるだけでは友好関係を深めることにはならない。
それ以上に重要なのは心の問題である。日本の国民が中国とどう向き合うかが大事なのであり、態度こそが信頼関係を築く鍵となる。それは日常の人間関係と同じであり、不信ではなく信頼を持ち合えるかどうかが友好関係を深める前提となる。
両国の国民が相互に信頼を維持するためには、両国の国民と政府が両国間の基本法である72年の日中共同声明の精神を守る必要がある。原点の誓いを忘れずに守る必要がある。
いつだったか、70年代後半だったと思うが、民間と厚生省による中国残留孤児の調査と帰還の運動が始まって、第一次と第二次の残留孤児の帰還があったころ、NHKの「ニュースセンター9時」に身元不明の残留孤児たちが出演して、中国語で「お父さん、お母さん、どうして私を助けてくれないんですか」と泣きじゃくりながら訴えたことがあった。
何人も何人も、男も女も。そのとき、生放送のスタジオで、NHKの女のアナウンサ−が堪えきれずに涙を流して泣いた。覚えているだろうか。
日中友好とか、日中関係とか、その原点とか、そういう言葉に触れるときに私の頭の中に浮かび上がるのは、田中角栄と周恩来の調印式や握手の映像ではなく、そうではなく、人民服を着て日本に来た皺だらけの顔の中年の残留孤児たちの悲痛な叫びであり、そして涙を流して泣いたNHKのアナウンサーの姿である。
あのとき感涙で声を詰まらせたのは誰だっただろう。宮崎緑だっただろうか、メインのキャスターは磯村尚徳だったと思うが、今は正確に思い出せない。そういう瞬間があった。戦後生まれのわれわれが、侵略戦争の残痕の悲劇に生々しく立ち会い、戦争が何を残したのかを肌身で知らされた瞬間があった。
「ニュースセンター9時」の中国残留孤児帰還事業の報道。あれこそNHKであり、国民のNHKの姿である。NHKの関係者はどうかそのことを忘れないで欲しい。思い出して欲しい。日中友好の最前列で奮闘尽力して立派な貢献と功績を残してきた先輩たちのことを忘れないで欲しい。日中関係はただの二国間関係ではない。
胡錦涛主席が早稲田大学で言ったように、国交回復から35年、そこには日中友好のために汗を流した人たちがいる。汗を流す前には、あの「ニュースセンター9時」の残留孤児帰還事業報道のように、われわれは涙を流した。
涙を流し、汗を流したが、その前には、それに百倍千倍する中国人の血が流されているのである。すなわち日中友好には、無数の人々の血と涙と汗が染み込んでいる。だから、日中関係はただの二国間関係ではなく、経済関係に一義的に還元解消される単純なものではなく、重い重い歴史があり、歴史を抜きにしては語ることのできない関係なのである。その重さを一人一人が感じ、重い歴史の石を心の中で持ち上げなくてはいけない。
それは日韓関係においても基本的に同じで、日本側の謝罪と反省の姿勢を欠いた未来志向関係などあり得ない。国と国との関係も人と人との関係と同じで、要するに国民と国民の関係なのであり、現業の実務の立場や利害以上に生い立ちと感情を持った生身の人間が国家を動かしているのである。
胡錦涛主席の早稲田大学での講演は意義深いもので、一言一句が重要で、精読して意味を確認する必要のある両国民へのメッセージだが、中国では全土にテレビで生中継されたが、日本の夜のニュース番組で中身を詳しく取り上げた局は一局もなかった。
福原愛との卓球の映像ばかりがクローズアップされて報道された。翌日の新聞に全文は無理でも要旨は載るだろうと思っていたが、朝日新聞は要旨すら掲載しておらず、日本側の報道では毎日新聞の記事をネットで読むしか確認することができない。
5年前、ブッシュ政権がイラク戦争を始めたときは、開戦前から、開戦後も、何度も何度もブッシュ大統領の戦争演説の生中継が入り、ニュース番組では長い演説映像が流され、ワシントン支局長の
手嶋龍一が出ずっぱりでカメラの前に立ち、大統領の神聖演説を英語の分からない日本の臣民に解説して聞かせていた。
十年に一度の中国国家主席の訪日とそこでの演説は、歴史的にも重要なものと思われるが、その言葉を日本人と日本のマスコミはどうして簡単に無視するのだろう。
早稲田大学での演説の中にもあったが、胡錦涛主席は今回の訪日で日中の青少年の交流拡大に意欲を示している。これは有意義な政策で、特に中国が大々的に投資して戦略的に力を入れて取り組むべき課題だと思われる。
最近、日本の若い世代に極端に右傾化が目立つ。これは日本の責任であり、また若い世代に責任のある問題でもなく、無理もないと言うか、本屋に行けば右翼漫画家の反中嫌韓マンガが山積みになり、テレビを点ければ
青山繁晴の恫喝罵倒
や
金美齢のヒステリーばかりが聞こえ、
田原総一朗や
古館伊知郎の反中プロパガンダを「中立」だと思って鵜呑みにする日本の青少年に反中反共ロボットになるなと言う方が無理がある。
日本側に日中友好を牽引する若い人間が少ない。スポーツの福原愛の他に誰がいるだろう。NHKの鎌倉千秋くらいか。中国語を話せる若い日本人が少なすぎる。日本の優秀な青少年を大量に中国に招いて勉強させることだ。中国政府にぜひお願いしたいことがある。日本ではこの十年の新自由主義政策の徹底によって格差(貧富の差)が極端に開いた。
そのため、低所得家庭や母子家庭の子供は勉学の意志と希望を持っていても大学に進学できない状況になっている。どれほど学力があっても、家庭に経済的余裕がないために大学進学を諦めている子供がたくさんいる。
最近、岡山駅で殺人事件を起こした18歳の大阪の少年もそうした一人で、格差社会に対する絶望と怨念が犯行の動機の一つと考えられている。そういう子供たちに優先的に光を当てて欲しい。
中国は社会主義国なのだから、貧困な家庭の子供たちに教育の機会を与える政策は、きっと原理的に採用してもらいやすいだろう。ぜひ、恵まれない日本の子供たちに機会を与えてあげて欲しい。
経済大国の大型投資を、貧しい日本の子供たちに教育機会を与える中日友好事業に振り向けて欲しい。裕福な家庭の子供ではなく貧困な家庭の子供を中国に留学させていただきたい。機会を与えてもらった子供たちは、きっと日中友好に貢献する人材に成長するだろう。人材交流は重要だ。
今は、あまりに日中関係を壊そうとする人間ばかりが多すぎる。日本の政治家やマスコミだけでなく、日本で犯罪を犯している中国人も含めて。
5/9の朝日新聞の一面にあった若宮啓文のコラムに批判を加えたかったが、紙幅もないので次の機会にする。昨日(5/9)読んだときは、その歴史認識の出鱈目さに怒りと憤りを覚えたが、一日経って読み直すと、力が抜けて気分が萎えるだけで、批評を試みようという積極的な気分になれない。気の抜けた産経新聞と言うか、産経新聞が軟体動物になってふにゃふにゃ漂っている感じがする。その代わり、日本在住の中国人(学生)と思われるブログ読者からのメールを紹介する。
【 名前 : foggy 性別: 女 】
今の状況からみると、日中平和の実現は不可能ではないですか?
実際、先月からインターネット上でアンケート調査をやっていますが、今のところでは約8割以上の留学生の回答者が「今回のことで日本という国を嫌うようになった」という項目を選びました。
留学生は本当なら将来日中友好の実現に力を捧げるはずでしたが、いまは全く逆方向に走っています。長く日本に居れば、居るほど日本のマスコミやそのマスコミに洗脳された日本人に対する絶望感が強くなってしまいます。
日本はこれからどういう対中政策を取るでしょう? 日本にいる中国人の心すら掴めない日本は、中国にいる中国人の心を掴みたいと思っている(と言える)でしょうか?
26日に長野で国旗を振った留学生のほとんどは雨の中で涙をこぼして泣きました。その涙は中国のためではなく、日本のためにこぼした涙でした。日本という国が大好きだったからこそ、泣き出すほど悲しみます。大好きだった日本からこれだけの侮辱を受け、毎日古館伊知郎の発言を聞いてる留学生の心境は日本人には分かりません。
日本の
マスコミは日中平和の破壊の種をいま埋め込みましたが、将来その種から出てきた果実を味わうのは、結局「日本」という国自身です。
本当に申し訳ないと思う。申し訳ないとしか言えない。他に何も言えないのが苦しい。申し訳ない。

by thessalonike4
以下参考(戦争へ)
昭和12年(1937年)8月13日には、第二次上海事変が起こり、再び日本海軍陸戦隊と中国軍の交戦が開始されます。

南京入城
同年の12月13日には日本陸軍が南京を占領し、中国軍民を殺害すると言う南京虐殺事件(南京城内外で、日本軍が中国軍(国民軍)の投降兵・捕虜および一般市民を大量に虐殺し、あわせて放火・略奪・強姦などの非行を加えた事件で、中国側は30万人が殺されたと発表しているが、当時南京市の人口はおおよそ5万、国民軍の軍人も併せて20万人弱だった。被害者が過大評価して自国の被害をでっち上げるのは歴史の常)が起こります。
▲上海事変当時の漢口に進行する日本海軍陸戦隊。

▲上海/四川路で戦う日本海軍の陸戦隊装甲車。
▲上海事変に駆り出される日本海軍将兵。
▲満州事変/上海郊外の日本海軍陸戦隊。

▲南京攻略祝賀会。

▲満州事変後の拡大する中国戦線。
▲南京城へ入城の松井石根(いわね)中支那方面軍最高司令官(陸軍大将)。第二次大戦後、南京大虐殺事件の責任を問われ、A級戦犯として絞首刑。

▲2.26事件以降、軍部の力は勁くなり、蘆溝橋(ろこうきょう)事件を発端に、日本は日中戦争に向かう。

▲上海事変当時。防毒面をつけての応戦する日本軍兵士。日本人僧侶が中国人に襲われた。しかしこの裏には、田中隆吉少佐の工作があった。
その後、昭和15年(1940年)には日・独・伊三国同盟が調印され、日本は軍国主義へと偏って、戦争の真っ只中に突入していく事になります。
大政翼賛会の結成、東条英機陸軍大臣の『戦陣訓』の示達、大日本青少年団の結成、国民学校令、生活必需物資統制令、大本営「対南方施策要綱」決定、日ソ中立条約の調印、国際スパイ容疑のゾルゲ検挙事件、第三次近衛内閣総辞職、臨事郵便取締令(外国郵便物が開封され検閲される)、そしてこれに代わり、東条内閣が成立し、国民勤労報国協力令昭和16年(1941年)12月8日には太平洋戦争が始まり、同月の16日には呉海軍工廠に於いて
戦艦大和が竣工します。
▲日・独・伊三国同盟調印/ベルリンでの調印式。起立者は外務大臣・松岡洋右。軍事同盟に並び、三国同盟が締結された。

▲日・独・伊三国同盟/東京での調印祝賀会。左端は内閣総理大臣の東条英機。
以上の歴史の流れをみますと、必然的に戦争へと突入していく構図が窺(うかが)えます。人間の大量死亡を裏付けする地獄への始まりです。これはまさに、日本の大都市圏が焦土と化す、その入口であった事が分かります。
昭和4年(1929年)10月に始まった世界大恐慌を、資本主義の経済破綻の最頂点に置きますと、そのドン底が昭和20年(1945年)8月であり、この16年間に、最悪の人間大量死のシナリオが実行されていった事になります。
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人間固有の弱点が大恐慌と大戦を卯を齎す
人類は歴史を記録し始めて、既に数千年以上経ちましたが、人間の本質は、少しも進歩していない事が分かります。
二十世紀の幕開けは、意図的に作られた共産主義と言う虚構理論で幕が開け、更に、二つの世界大戦を経験しながらも、おおよそ半世紀以上を経ても、世界各地に点在する戦争の火種は消えず、人の命は、かくも軽々と扱われて、この時代の幕を閉じました。
また、二十一世紀に至っても、現代という時代は、ひと握りの「幸福者」と、数十億と言う圧倒的多数の茫々(ぼうぼう)たる不幸な民衆が存在します。そして、不幸な民衆の命は、現代に至っても、微生物の如き、軽々しく扱われ、迫害や苛(いじ)めは、いつも弱い者に向けられます。
今でも世界中には、数え切れないくらいの紛争地域があります。こうした地域では、人々がお互に主導権争いを競い合い、戦争によって破壊行為を繰り返し、非建設的な作業に没頭しています。こうした愚かな行為によって、有史以来、どれほどの人類の貴重な遺産が傷付き、多くの人命が失われたことでしょうか。
小さな争い事も、地球規模の世界大戦争も、本質的には同じ起因から発生します。争い事は、人間の闘争本能と言いますが、両者に共通している事は、常に、争い事を欲する人間(=国際金融ユダヤ資本家たち)がいると言うことです。
つまり争う事によって、利益を得る事が出来るという集団が居ることで、こうした集団は、決して平和を望んだりしないと言うことです。争いを好む人間は、野望によって好戦的となり、その裏には爬虫類脳のR領域を満足させる、縄張り意識の達成という課題があるからです。
・・・・・・
日本が大東亜戦争と言い、アメリカが太平洋戦争(PACIFIC WAR)と名付けた戦争は、主として東南アジア並びに太平洋方面における日本とアメリカ・イギリス・オランダ・中国等の連合国軍との間で激しい戦闘が繰り返され、その戦死者は数百万人とも言われます。
そして日本では、いつの間にか女性達が戦闘員として与(くみ)され、外地(満洲や東南アジアや太平洋諸島)や内地(本土空襲)で多くの婦女子達が無慙(むざん)に死んでいきました。
太平洋戦争下の1942年11月、東条内閣は拓務省ならびに外務省の一部、その他の外郭団体を吸収して「大東亜省」を打ち立て、大東亜共栄圏地域の政務を扱う中央行政機関を発足させました。
そのスローガンは欧米勢力を排除して、日本を盟主とする満州・中国および東南アジア諸民族の共存共栄を説き、アジア支配の正当化を捏造(ねつぞう)するものでした。

松岡洋右(1880〜1946年)。
山口県生れの政治家。アメリカで苦学した後、外交官となる。満鉄副総裁を経て政友会代議士となる。国際連盟脱退の際の首席全権。満鉄総裁を経て、近衛内閣の外務大臣として日独伊三国同盟・日ソ中立条約を結ぶ。第二次大戦後、東京裁判でA級戦犯として起訴され裁判中病没。

▲日ソ中立条約に調印する松岡洋右。
▲国際連盟総会から意気揚々と退場する外務大臣・松岡洋右。

▲松スターリンと松岡洋右外相。
大東亜共栄圏の思想は、1940年当時、外務大臣松岡洋右(国際連盟脱退の際の首席全権で、満鉄総裁を経て近衛内閣の外相として日独伊三国同盟・日ソ中立条約を結ぶ。戦後、A級戦犯として挙げられ裁判中病没)の談話に由来するものでした。そして彼のこうした発想は、やがて国民皆兵へと駆り立て、「一億火の玉」の戦闘思想へと繋がっていきます。
また一方、国際連盟は加盟国五十数ヵ国に達したていましたが、アメリカは当初から不参加、日本は昭和8年(1933年)3月27日、満州問題が原因で脱退、のちドイツとイタリアもこれにならい、一旦加入のソ連もフィンランドとの戦争の際除名され、この国際機関は有名無実のものとなっていきます。
そして世界の暗雲はこの時を境に暗い翳りを落とし始めます。
昭和15年(1940年)10月、ソ連駐在大使・建川美次を通じてソ連に不侵略条約締結を提議し、これを受けて、昭和16年(1941年)4月13日には日ソ中立条約がモスクワで調印されます。その時の全権は外務大臣の松岡洋右でした。
この条約は、有効期間は5年でしたが、昭和20年(1945年)4月5日、ソ連は外相モロトフが不延長を通告し、同年の8月8日の対日参戦により失効します。そしてソ連は満州へ進攻を開始します。
ソ連軍は、9日午前零時に豆満江(とまんこう)の河口、黒龍江(こくりゅうこう)中流の黒河(こっか)東南約100キロ地点の奇克(きこく)、ノモンハン(Nomonhan/かつての日ソの激戦地。
中国東北部の北西辺、モンゴル国との国境に近いハルハ河畔の地。1939年5月から9月中頃まで、日ソ両軍が国境紛争で交戦し、日本軍が大敗を喫した)の、三方向から満州に雪崩れ込みました。モスクワ時間では8月8日の午後六時でした。
鈴木貫太郎首相は、小石川の私邸でソ連参戦を知る事になります。
これまで精強を誇っていた関東軍も、南方方面や本土決戦に備えて日本内地に兵力を転出したばかりでしたから、満州を守る兵力は手薄であり、二ヵ月ともたないと判断されました。
日本はこの時、三つの決断に迫られます。それは、ソ連を仲介とする和平工作に失敗した責任をとって総辞職するか、ソ連の宣戦に応呼して日本も宣戦布告を発して徹底抗戦するか、ポツダム宣言を受諾して無条件降伏するか、でした。
結果的にはポツダム宣言を受諾する道を選択しますが、これには多くの難問が山積みされていました。
▲ソ連軍T34戦車(31.3トン)。日本軍の装甲の薄い97式中戦車では全く太刀打ちできなかった。 ▲8月8日午後六時(日本時間では8月9日)、満州に続々と攻め入るソ連軍機械化部隊。

▲日本陸軍の九七式チハ中戦車。(乗員4人、重量15トン、エンジンは空冷V6ディーゼル・エンジン170馬力、時速:38キロ、航続距離:210キロ、最大装甲:25ミリ、武装:57ミリ砲1門、7.7ミリ機銃2丁)
歩兵支援用として開発された戦車だが、武装と装甲がひ弱だった為、太平洋戦争では米軍のM4シャーマンやソ連軍のT34戦車(ディーゼル12気筒500馬力、時速51キロ、装甲75ミリ、武装85ミリ砲1門、機銃2丁。当時、世界中の総ての戦車に対抗出来るように作られていた)には全く太刀打ち出来ず、最大装甲が僅かに25ミリという薄さは、戦車乗員達を大いに苦しめた。敵戦車からの74ミリ砲が命中すると、まるで飴のようにグニャリと変型し、簡単に破壊されてしまった。
かつて、作家の司馬遼太郎氏は大戦末期、陸軍将校として、北支方面で戦車隊長をしていたが、日本戦車のあまりの装甲の薄さと、火力の弱さに、「これでどう戦えと言うのだろうか?」と、日本陸軍の戦車戦思想を大いに疑っていた。
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滅びの美学
一言で、「国敗れて山河在(あ)り」と言いますが、恐らくこうした情緒で、「滅びの美学」を唱えるのは日本人だけでしょう。

▲海軍神風特別攻撃隊の米空母フランクリンへの壮絶な体当り。特攻機は艦橋に撃突。
太平洋方面の玉砕や万歳突撃も、航空機やロケット機での敵艦隊当たりも、総べて「滅びの美学」から来たもので、その根本には「死への憧れ」と「死の美学」がありました。
したがって日本人の内情は、国家存亡を賭(か)けて戦い、国益をぶつけ合って戦うという意識が薄く、元々太平洋戦争は、こうしたところにも戦争目的が不明確でした。
日本人は、明治維新以来、一旦戦争に負けると、山や河はおろか、国家や民族としての纏(まと)まりすら奪われ兼ねないと考える欧米人の思考とは大きく逸ししています。また、ヨーロッパで起こった今迄の歴史すら研究しようとしませんでした。
逆に言うと、欧米では民主主義と言う市民社会では、国民達を守ってくれる軍隊に対し、深い信頼と尊敬を寄せ、勝利した戦争に誇りを持つと言う意識が強くあります。
フランス国歌の「ラ・マルセイエーズ」は、マルセイユから祖国防衛の為に進軍する義勇軍の歌ですし、アメリカ国歌の「星条旗よ永遠なれ」は独立戦争当時の、銃弾に倒れた愛国者の歌です。そして欧米では、戦争はしばしば、自分達の民主主義を標榜(ひょうぼう)する市民社会の同一性であり、正統性を形作る為の神話にまで発展させていたのです。
こうした例をアメリカにとるならば、それは独立戦争と南北戦争に回帰されます。
この国は、二度の戦争を経験しながら、軍隊は、正しい戦争を戦う勇者達という感覚を持っていて、健全な市民社会のバロメーターとなっていました。
しかし考えてみれば、戦争は「矛盾と欺瞞(ぎまん)」に満ちています。
市民社会としての一員である市民は、殺人や暴力が禁じられています。また市民自身も、普段ではこうした行為はいけない事であると信じています。ところが一旦戦争になると、敵を攻撃し、殺害する事を躊躇(ちゅうちょ)してはならぬ事を教え込まれます。
こうした矛盾を繕(つくろ)う為に、心理的な「任務遂行のメカニズム」が用いられます。
すなわち「命令」であり、軍人の命令厳守は「任務を遂行している」のであり、決して人殺しをしているのではないという「任務遂行のメカニズム」が動員されます。任務を遂行し、これを果たせば、軍人としては名誉であり、市民が賞賛し、尊敬すら得る事が出来ます。
また、政府は任務遂行に対し、勲章や称号や階級特進の制度を与えます。こうした心理的なメカニズムによって、市民社会と軍隊が両立していたのです。そして市民社会では、市民はこうした両方の世界を行ったり来りしました。
そもそも戦争は、矛盾と欺瞞(ぎまん)で満たされているのですが、これでも軍隊は維持しなければならないと言う、人類特有のエゴイズムがあります。戦争の悲惨さは充分に分かっていても、人間が市民として暮らしていく為には、市民社会が必要であり、この幾つもの市民社会は民族を形成し、国家を形成します。
市民社会が国民国家として立ち行く為には、平和を共存する必要があります。近代に於ける軍隊は、そういう国際社会の現状の、不可欠な一部であると定義出来ます。
しかし、こうした背景に、人類が唯一つの価値観を信じ、唯一つの市民社会に纏まって暮らせる日が来るまで、人類から戦争は無くならないのです。
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負けるべく戦い、太平洋戦争
日本は、いよいよ「滅びの美学」に向かって突き進みます。
「大本営陸海軍部発表。帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」
これは昭和16年12月8日早朝のラジオの臨事ニュースです。
日本海軍が真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争に突入した事を報じたニュースです。
下記参照
英米イスラエルの背後にいる寡頭勢力=国際ユダヤ金融資本家たち
第二次大戦に米国を参戦させるための手口・・真珠湾攻撃http://www5f.biglobe.ne.jp/~shishoukaku/07sk/160813guide/guide.html#06
この日より日本は国家滅亡に向かって進んでいく事になり、大勢に非戦闘員の命が失われる最悪の暗示がありました。
日本が米英を相手に戦いを始めた事は、大局的に見て戦略的な失敗であり、また日本の国家戦略のなさが悉々く敗因へと繋がっていきます。
明治維新以来、日本はアジア諸国を決して友邦として扱おうとしませんでした。日本人から見るアジア人は、常に日本人より一等低く扱われ、蔑視して、中国や朝鮮を連携の対象と看做(みな)していなかった節がありました。
連携する事はもとより、中国に侵略して、植民地支配を続け、抗日、侮日のナショナリズムを高揚させていったのです。こうした事が、日本をアジアの中で孤立させる事になります。
更には、
ABCD包囲網によって経済的には封鎖される事にもなります。

▲赤い夕陽の満洲といわれた新天地も、決して日本人入植者が考えるような「王道楽土」ではなかった。
松岡洋右の談話に由来する「大東亜共栄圏」という、日本を盟主とする満州・中国および東南アジア諸民族の共存共栄を説くこの思想も、アジア諸国の理解を得られるものではなく、西欧植民地に日本が取って代るというスローガンにしか過ぎませんでした。
その上、
満州事変を正当化した「王道楽土」の建設も、結局、当時の中国人には全く通用しないものでした。 しかし、これにもかかわらず、太平洋戦争が勃発してしまうこの経緯は、既に日本を戦争の中に引きずり込む、歴史の罠が存在していたからです。
太平洋戦争は海軍が主体の戦争でした。アメリカを相手にして日本が勝つ見込みは殆どありませんでしたが、しかし勝てないまでも、より良い負け方をする方法は幾らでもあったのです。
もし、日本側の戦争指導者の中に、高度な戦略思想を持ち、それを実行する愛国心に燃えた指導者がいれば、この戦いはもっと別の方法で、より良い負け方をしていたはずです。そして多くの犠牲者を出さず、戦局もまた違ったものになっていた事でしょう。
大日本帝国海軍という軍事組織の中枢は親米派や欧米派によって彩られていました。その主要な人物は総てがフリーメーソンのメンバーであり、日本海軍首脳(日本海軍士官の研究・親睦・共済機関で、1876年に創設され「水行社」と言われた。
終戦後、解散し、東京本部ビルは在日ユダヤ系団体の本部となり、この建物はメソニック・ビルと言われる)はフリーメーソン支配層にコントロールされた節が否めません。
▲冷暖房完備の全長263m・最大幅38.9mの大和ホテル。戦艦「大和」(排水量6万9100トン)の主砲46cm砲9門のアウトレンジ戦法は、ついに見る事がなかった。
この為、日本海軍は太平洋上において不可解な動きをします。それはアメリカに手心を加え、まるで負ける事を意識したような作戦を次から次へと展開したからです。これでは、勝てるはずの戦争も勝てるはずがなく、軍部の中枢に、利敵行為を働くような買国奴がいては勝てるはずもありません。
こうした動きは海軍ばかりでなく、陸軍統制派の中枢にもこうした手合いがおりました。大本営参謀本部の高級参謀達は、常に無謀極まる作戦計画を立て、日本軍に多大な損害ばかりを与え、多くの下級将兵ばかりを失う事ばかりを繰り返していたのです。
陸軍参謀本部といえば、陸軍大学校を優秀な成績で卒業したエリート中のエリートが集うところであり、この優秀な頭脳を持った彼等が、まるで痴呆(ちほう)のような幼稚な作戦計画を立てるのです。
そして、
拙劣な作戦を立案するばかりでなく、それを強引に強行して、現場の将兵にこれを押し付けたのです。
日本軍に次から次へと負けるような戦いばかりを押し付けていき、最後は「滅びの美学」を持ち出して、万歳突撃を敢行させたり、特攻隊を編成するような愚行をやらかします。
陸海軍の参謀本部のエリート達は、日本を敗北に導く為に、国際ユダヤ金融資本の支配層によってコントロールされた人達でした。
そして彼等の一部はフリーメーソンの高級メンバーであり、また、その一部はソ連に通じ、共産主義分子でした。
癒しの杜