・・・まあ、ゆっくりとひとが普段、あんまり想いもしないような事柄を、けれど連綿に綴っていけばいいんですよ。判るひとはそのうち判ってくれます。あなたのお書きになる文章は大丈夫です。かの方が在る時、私にそう、告げてくれましたっけ・・・
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早逝した詩人と生きながらえた作家、そこには心の底から分かち合えた、友だからこその愛惜感が、じんわりと滲んでいる。
*朝日新聞・昭和46年1月14日、掲載文より<作家・大岡昇平>
中原中也の人と作品について、私はこれまでずいぶん方々に書いたが、多分これでおしまいになるだろう。この間山口県、北九州へ旅行した人のいうことに、小郡の駅で乗り換え列車を待ち合わせ中、駅の食堂で弁当を食べたら、割箸(わりばし)の袋に、中原の詩が印刷してあったそうである。
ああ、おまえはなにをして来たのだと……
吹き来る風が、私にいう。
有名な「帰郷」の結びの二行である。中原もとうとう割箸の袋になってしまったか、と私は思わず大笑いしたが、むろんうれしい笑いであった。最近、中原中也について卒論を書く大学生が増え、山口市湯田温泉の中原家ではその応接に忙殺されているという。昨年の正月には団体が三組もあったそうだ。そのうち湯田温泉では「中原まんじゅう」が売りだされるかも知れない。
私は二十年来、どうしても中原中也を認めまいとする詩壇のボス達とけんかして来たが、もはや目的は達した。角川版全集の別巻も近く出る。あとは中原の作品の力による自動的エスカレーションによって、(これまでだって、私の微力な擁護ではなく、中原の詩それ自身の価値によって、徐々に浸透してきたのだが)好きなだけ大きくなって行けばよい。その喜びはお母さんの福さんと弟思郎さんが受ければよいので、もはや友人が引っ込む時である、と思った。
思郎さんは中也の弟で、その名の示すとおり、四男だが、このほど『兄中原中也と祖先たち』という本を出した(審美社)。これもなかなかの好評で、版を重ねている。久し振りで上京されて、お話しする機会ができた。中原の作品について、独自な解を持っていて、友人として啓発されることが多い。
例えば、右の(本欄では「上の」)「おまえはなにをして来たのだと」という句にしても、東京の友人が考えるのでは、恋愛や乱酒にからんだ悔恨、あるいはボードレール風な形而上学的な悔恨だが、山口県であり、また中原家の一員たる思郎さんに、この詩句からぴんと来るのは、別だという。「おまえは東京へ出たくせに、ちっとも出世しないではないか」という意味にしか取れない、という。
長州は申すまでもなく、明治維新に際して薩摩とともに、統幕の推進力となった雄藩である。その後山縣有朋、田中義一など、陸軍はみんな長州から出た。岸、佐藤兄弟がいるかと思うと、萩からは野坂参三が出ている政治的な県である。「男子志を立てて郷関を出ず、学若し成らずんば死すとも還らず」と吟じつつ、上京した。むろん中原の詩人としての自覚は、そういうものへの反抗によって育っているのだが、郷土の力は強い。中原が死ぬまで、いわゆる一家をなすことを、気にかけていたらしい痕跡は、遺稿に散見する。
「帰郷」は初稿では次のようになっていた。
庁舎がなんだか素々(しらじら)として見える。
それから何もかもがゆっくりと私に見入る。
ああ、なにをして来たのだと
吹き来る風が、私にいう……
この前の二行は、詩集『山羊の歌』では除かれて今日に至っている。その機会は昭和三年この詩を作曲した内海誓一郎だという。「庁舎」という句に、どうしても楽譜がつけられない、と内海は作曲中、中原にいったら、除くことを承知したのであった。「帰郷」の全体を転載する必要はあるまい。これは昭和二年末に作品と考えられるが、たまに郷里へ帰り、縁の下でくもの巣が揺れ、庭に日がさし、静かな郷里の古い家にあって、「心おきなく泣かれよ」という「年増婦(としま)の低い声」に耳を傾けてたりしている。静かな屋内風景である。
縁側から山の枯木が「息を吐く」さまも見えるが、「庁舎」も見えるのである。「庁舎」といえば、県庁かなにか公共建築物でなければならない。「素々として」という句により、疎外されているのだが、とにかく帰郷した詩人はそういう国家的なものに対して無関心でいられないのだ。ここにはまさに思郎さんの指摘されたような、出世しない後悔がほの見えるのである。これまでの「帰郷」の解は、この点を読み落としていたのである。
「庁舎」うんぬんの二行を除くことにより、終聯(れん)二行という破調的効果を加えたが、ついでに「なにもかもがゆっくり私に見入る」という、沈思的詩句も除かれたのを惜しむ人もいよう。「ああ、なにをして来たのだと」というつぶやきに替って、「おまえは」と指弾的に付け加えられた。それまでの四聯四行に対して、終聯だけ二行になったのだから、それだけ強くしなければならない。ここにも中原の優れた技巧を見ることができる。
山口市は商業的には、宇部、徳山、下関に結びつき、周防灘、北九州工業地帯に組み込まれていよう。大都市へ出るなら、京大阪がある。東京まで行くということは、政治か文化で、功成り名遂げねばならないので、この辺は東京人はいうまでもなく、関西、中京の人には理解できないことなのである。
中原思郎さんももはや六十に近く、中也が死んだ年の二倍近くになってしまった。いまや一家の誇りとなった中也の全部の作品の、山口県人として、独自の解を出そうと、意気込んでいるそうである。その結果は刮目して待つべきであろう。
青空文庫より
帰 郷
柱も庭も乾いてゐる
今日は好い天気だ
縁の下では蜘蛛(くも)の巣が
心細さうに揺れてゐる
山では枯木も息を吐く
あゝ今日は好い天気だ
路傍(ばた)の草影が
あどけない愁(かなし)みをする
これが私の故里(ふるさと)だ
さやかに風も吹いてゐる
心置なく泣かれよと
年増婦(としま)の低い声もする
あゝ おまへはなにをして来たのだと……
吹き来る風が私に云ふ
私のハンドルネーム、風とは、おまえはなにをして来たのだと・・・・・・吹き来る、この風にちなんで、名づけたことは以前、語ったことでもあるのですが、たとえば気の合う仲間、ふたり、何をするわけでもない、思い思いのことに耽っていたとして、突然、昔のもはや当人が忘れていたかのようなことを、何気にぽつりと、その横顔になげかけてくるかのような、そんな無粋さと愛くるしさが同居したかのような、中也の詩のそれは一側面に過ぎないのかもしれませんが、私には存外、魅力を感じる一面、です。そうして圧倒的に何か、懐かしい匂いがする、と申しましょうか、こちら、読み手の底辺にじんと染み渡る、愛惜感がある。ひと、それぞれの中原中也、今後も折りをみて、当blogsiteでどしどし取り上げていきたいと想います。