2008/3/31

『靖国 YASUKUNI』が全館で公開中止に!  映画

*新宿バトル9で上映が中止になり心配していたけど、ついに4月12日公開予定の全館で映画『靖国 YASUKUNI』が公開中止に!
映画の内容がどうこうというのは見た人それぞれが判断することであり、とにかくまず見せろ!見せてくれ!見せてほしい!
どんなに左翼よりの映画であったとしても、あるいは右翼よりの映画であったとしても、公開中止にはしないで観客に各自で判断する自由を与えてほしい!
これは、表現する側からすると「言論の自由、表現の自由」をめぐる大問題だけれども、観客の側からしても「いろいろな表現に触れる自由」に対する侵害であると思えることであり、映画ファンとして今回の各映画館の自粛(?)は残念でならない。

(ニュース)
問題作『靖国 YASUKUNI』次々と上映中止で東京公開断念に…
2008年3月31日(月)
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2008/3/31

『家光と彦左と一心太助』  映画

『家光と彦左と一心太助』
1961年 東映 監督 沢島忠 脚本 小国英雄

神保町シアターで。
これは一心太助シリーズの中で一番、上映されることが多い作品のようだけど、やっぱり一番、面白いのかな?
中村錦之助が将軍の世継ぎの徳川家光と魚屋の一心太助を二役で演じるが、この二役は以前からこの一心太助シリーズであったものなのだけど、本作ではなんと、命を狙われている家光の身代わりになって家光と一心太助が入れ替わっちゃうのだ。そのドタバタを演じる、中村錦之助の二役の面白いこと、面白いこと。これはいわゆる「水戸黄門」に代表される、偉い人が身を隠して・・というパターンの日本の伝統的な明朗時代劇の一変種であるわけだけど、それをコメディタッチでこれほど軽やかに描き切ったものはない。しかし、太助が自分の命が危ないかもしれないのに侠気であっさり身代わりになることを決意しちゃうとか、太助が変になったのを「殿様病」になったということで女房までが疑わずにすぐ信じてしまうとか、実にいい加減だと思うのだが、そのいい加減な軽さが映画なのかも。いい加減と書いたけれども、その心は・・というと、将軍だって魚屋だって同じ人間じゃないか、正義は正義、悪は悪、同じように正義と幸せを求めればいいじゃないか・・みたいなのがあるんだよね。それが江戸っ子的平等思想なのだ。偉い将軍家の兄弟にも、貧しい子供たちにも同じような兄弟愛があることが描かれている点こそがこの映画の話の肝なのでは。うーむ、実はこの国では江戸時代にすでにマルクス主義が達成されていたのだろうか(笑)。

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2008/3/24

『月の出の決闘』  映画

『月の出の決闘』
1947年 大映京都 監督・脚本 丸根賛太郎 撮影 中田節三 出演 阪東妻三郎

神保町シアターで。
『素浪人罷通る』に続いて、米軍の占領下でGHQによりチャンバラ禁止令が出ていた中でつくられた時代劇映画を見てしまった。
伊藤大輔は「刀を抜かない侍」の話という形でチャンバラ禁止令を逆手にとったわけだけど、丸根賛太郎の場合はどうしたのかというと・・

い、いやー・・
参りました。これはなんという美しいストーリーなのか!
後半はほとんどずっと目頭が熱くなりっぱなしだったけど、チャンバラ禁止令が出ている中で、よし、それならこういう話をやってやろうじゃないか・・とこんな話を考えついてしまうカツドウ屋ってやっぱり頭がどうかしていると思います(笑)。
GHQの人たちもつい感動してしまって、チャンバラシーンを検閲でカットすることが出来なかったのではないでしょうか(笑)。
丸根賛太郎こそが真のカツドウ屋であったことを気づかせてくれる、至福の傑作。

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2008/3/23

『素浪人罷通る』  映画

『素浪人罷(まかり)通る』
1947年 大映京都 監督 伊藤大輔 脚本 八尋不二 撮影 川崎新太郎 出演 阪東妻三郎

神保町シアターで。
主人公が最後まで刀を抜かない、剣戟シーンがない時代劇というのも珍しい。
時は天下泰平の八大将軍吉宗の時代の話だから、実際、侍にとって刀を抜くというのはそれだけで大変なことで、侍といえども、いや、侍だからこそ刀を抜かずに知恵によって事を成し遂げないといけなかったのかもしれない。そして、刀を抜かずに、つまり他人を殺傷することを全くせずに事を成し遂げてしまうのが知将といえるのではないか。その意味で、刀を抜かずに天下の政事を成し遂げてしまうこの映画で阪東妻三郎が演じる主人公の浪人武士こそが本当の江戸時代の知将の侍なのかもしれない。
それにしても、こうした「刀を抜かない侍」の話を、ハラハラと面白く見せる脚本は秀逸だと思う。実はGHQがチャンバラ禁止令を出したのでこうした映画が作られたそうなのだけど、何かを禁止されてもそれを逆手にとって面白いものが作れるという心意気を感じずにはいられない。

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2008/3/23

え?ネグリ氏来日中止?  ニュース

(ニュース)
<ネグリ氏>初来日中止 過去の政治運動に絡む有罪判決で
3月20日18時51分配信
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2008/3/21

『座頭市御用旅』  映画

『座頭市御用旅』
1972年 勝プロ、東宝
監督 森一生
出演 勝新太郎、森繁久彌、大谷直子、三國連太郎

浅草名画座で。座頭市シリーズ23作め。
森一生監督の映画作品としては最後のものになるらしい。(テレビ作品はこの後も手がけている。)
話は定番という感じで、市が火攻めにあうシーンなど、見所はあるが、突出してすごいという程ではない。これが三隅研次監督作品だったら、こうしたシーンはもっと映像美が凝った名シーンになっていたかもしれない。と書くと、三隅監督より森監督のほうが力がないように思われるかもしれないけど、そういうことではなく、監督の持ち味の違いで、森一生監督の映画には三隅研次監督作品のような、おおと思わせるような凝りに凝った映像美のシーンはあまりないかもしれないけれども、森一生監督の場合は個々のシーンはシナリオの文字を忠実に映像にしているのかもしれないけれども、そのかわりにじっくりと物語を聞かせる感じがする。エピソードもてんこ盛り(森一生のモリは「てんこ盛り」のモリかも・・)であるが、それが散漫にならずに物語として流れている。
この『座頭市御用旅』の場合は、ナレーションを浪曲のような語りにしていて、これが物語の語り口とうまく結びついて作用しているような気がする。
また勝新太郎が耳をくるくると動かすシーンがあったのだが、これはもちろん特殊な撮影をしているわけではなくて勝新太郎が芸としてやってみせたのだろうけど、もしかしたらまさに「シナリオの文字」そのままにやったシーンなのかもしれないけど、妙に味わいがあって、こういうのがある意味で文字そのままをきわめた面白さということなのかもしれない・・なんて、ちょっと思ったりした。
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2008/3/21

チベット  時事問題

何がどうなっているのか・・

とりあえず、下記のリンク先が詳しくて参考になります。

http://nvc.halsnet.com/jhattori/green-net/Tibet/index.htm
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2008/3/18

原爆症認定問題関連ニュース  原爆・原発問題

*原告側としては、こうなったら議員立法で原告全員の一律救済を求めるしかないのかもしれないが、議員立法での一律救済は、かえって認定する基準の根拠が明快に示されなかったり、これまでの行政の対応のどこに問題があったのかの責任問題をうやむやにしてしまう可能性もある。
きちんとした納得できる基準を国側が示す必要があるのではないかと思うのだけど、新基準は「原因確率」については見直すというのだけれども、距離や日にちが限定されている点など、これが科学的なものなのだと厚生労働省は主張するが、その「科学性」の根拠が結局、よく分からないものだから説得力がないのだと思う。たとえば爆心地から3.5キロメートル以内で被爆した人と、3.6キロメートルのところで被爆した人とで類似の症状が出た場合に、後者の人が原爆症ではないとすることは、科学的、医学的に考えてみてもおかしいと思うことなのではないか・・。
なお、こうした距離の基準に厚生労働省がこだわる背景のひとつとしては、これはアメリカのネバタ核実験のデータをもとにしたものらしいのだけど、これをとっぱらってしまうと、アメリカ政府の核実験被害者への救済基準も見直さないといけなくなる・・ということもあるそうである。

補記
訂正です。距離の問題は、アメリカ政府の核実験被害者への救済基準とはあまり関係ないことのようです。この点で、「アメリカ政府の核実験被害者への救済基準も見直さないといけなくなる」と書いたのは間違いでした。すみません。


(ニュース)
「被爆者を分断」と反発=原爆症の新認定基準−長崎
3月17日21時0分配信
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2008/3/16

『武士道無残』  映画

『武士道無残』
1960年 松竹京都 白黒 74分 監督・脚本 森川英太朗

ラピュタ阿佐ヶ谷、「高千穂ひづる特集」で。
藩のために16歳の少年武士が殉死を命じられる。きれいなままで死んでいく少年を不憫に思った兄嫁が死ぬ前の一夜、海辺で体を許し男と女の関係に・・。
これまでいろいろと時代劇に触れてきたが、このストーリーはけっこう、なかった気がするもので、新鮮だった。森川英太朗監督の第1作で、当時は「松竹ヌーヴェルヴァーグ時代劇」と称された作品らしい。たしかに新鮮な着眼点の作品。
高千穂ひづるの濡れ場も見れたし・・。(ただし、高千穂氏本人の弁によると一部、吹き替えも入っているそうだ。)
しかし、死のうと決意した少年を「男」にしてしまってはかえって未練が残って死に切れなくなってしまうのではないか・・と思って見ていたら、終盤にかけて展開が思わぬ方向に二転三転する。最後までひねりがあって意欲的な作品だ。

そして・・
なんと、本日は上映後にゲストとして高千穂ひづる氏本人が観客の前に登場!
「ナマ高千穂ひづる」を初めて見て感激。
女優業から久しく離れている高千穂氏だけど、機会があればまた出演してみたいとも言っておられた。ぜひとも起用する映画人が出て来ないものか・・?

なお、僕がこの作品に興味を持ったのは、監督助手として森崎東氏の名前がクレジットされていたけれども、森崎監督が自分がチーフ助監督をしていた作品として以下でこの映画の話を書いていたからである。

http://www.dgj.or.jp/modules/contents6/index.php?id=46

それにしても、森川英太朗という監督は、ほかに1本ぐらいしか、撮っていないようで、ちょっともったいない監督だ。
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2008/3/16

訃報 上田現  音楽・演劇

ミュージシャンの上田現氏が亡くなられた。
といって、レピュッシュ時代はけっこう好きなバンドだったのでよく聞いていたのだけど、最近はあまりこの人の音楽は聞いていなかったのだが、先日、見た松井良彦監督の久々の新作『どこに行くの?』で「音楽 上田現」とクレジットされていて、お、懐かしいと思ったばかりだったのだが・・。
ご冥福をお祈りします。

http://www.sonymusic.co.jp/Music/Arch/SR/GenUeda/

「ファンの皆様へ

かねてより病気療養中であった上田 現ですが、肺がんのため3月9日午後5時15分 永眠致しました。
一昨年末の発症以来、「腰痛」という公表のもと、完治を信じて、それこそ驚異的な努力を続けてまいりましたが、残念ながら47歳の誕生日を過ぎて間もないこの日、旅立っていきました。
ここに謹んでお知らせ申し上げます。

来たる3月13日午前11時より、千日谷会堂(JR信濃町駅 徒歩1分)に於いて仏式により告別式が執り行われます。
本人の希望でもありますので、少しでも多くの方々にお見送りをしていただけたら幸いに 存じます。

平成20年3月10日
株式会社ミュージック・タブロイド
代表取締役 河原田仁志」
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2008/3/15

原爆症 原告団が認定新基準を拒否  原爆・原発問題

(ニュース)
厚労省との協議、物別れ=原爆症認定見直し
3月14日16時31分配信
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2008/3/13

ミュージカル映画ベストテン  映画

かえるさんのブログの下記の記事に触発されて、ミュージカル映画ベストテンというのをつくってみました。

「ミュージカル洋画ぼくの500本」メモ
http://LatchoDrom.exblog.jp/7448532/#7448532_1

上の記事のコメント欄に書き込んだものなのですが、せっかくですので、こちらのブログにも載せておきます。

『有頂天時代』(1936)
『ヴォルガ・ヴォルガ』(1938)
『鴛鴦歌合戦』(1939)
『ヤンキー・ドゥードル・ダンディ』(1942)
『ヒットパレード』(1948)
『スタア誕生』(1954)
『フレンチ・カンカン』(1954)
『ブリガドーン』(1954)
『渇き』(1957)
『ロシュフォールの恋人たち』(1966)

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2008/3/11

韓流シネマフェスティバル『台風太陽』  映画

『台風太陽 〜君がいた夏〜』
あまりに明瞭な青春アクション映画。
あの『子猫をお願い』のチョン・ジェウン監督の長編2作目ということで期待が大きすぎたのか、あるいは今回の「韓流シネマフェスティバル」ではすでにパク・クァンス監督の『まぶしい日に』という傑作を見てしまっていたのでそれと比べてしまったのか、アクション映画としては最高だけど、ドラマのほうがちょっと弱いというのか、あまり各登場人物の内面性が深く掘り下げて描かれていない気がしたのだけれども、でも逆に、十代の男の子たちの外見的なかっこよさをつかまえたということでは抜群な映画なのかもしれない。まあ、感覚的に、自分にとっては遠い映画だったので、きちんと判断できないところはあるんですが・・。
『子猫をお願い』に続いて、地下鉄構内のシーンが抜群でした。
あと細部の音声処理が独特。地下鉄構内で壁に耳を傾けた主人公の少年の映像から、忘れ物として届けられた(実はスケートをやめた主人公の先輩の少年が「忘れ物」として自分の靴を届けた)スケート靴の映像にかわり、そこにスースーという人の寝息(?)の音をかぶせるといった絶妙な音使い。主人公の少年が憧れている少女との別れのシーンで、飛行機の音に消されて少女の最後の言葉が聞こえないというのも印象的だし。
まあ、こういうのもある意味でやっぱり「外見的なかっこよさ」にほかならないわけだけど、でも考えてみればそもそも映画というのは「外見」を描く芸術であるわけだから(人物の「内面」も外見の表現として血肉化して描かなければ映画にならないわけだから)、たしかにこの監督の映画は抜群に「映画的」なのかもしれないが・・。

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2008/3/7

「医師の診療行為については刑事責任を追及しない」という考えになぜ反対なのか?  公害・薬害・環境・医療問題

「白鳥一声」さんのブログの、

不適切な医療行為について、医師の方が考えること
http://8910-1000.at.webry.info/200802/article_21.html

という記事にコメントしたところ、別記事で僕のコメントを引用して丁寧な返信を頂いた。

問題提起: 医療者の過失と刑罰
http://8910-1000.at.webry.info/200803/article_2.html

さらに、この記事に別のブログ(「ある町医者の診療日記」)の方がトラックバックされている記事でも僕のコメントの内容について反論がされていた。

「不適切な医療行為」をしているのに刑事罰を科されないのはおかしい?
http://blog.hashimoto-clinic.jp/200803/article_1.html

せっかくなので、返信しておきたい。
なお、長くなりそうなので、このように記事にしてトラックバックすることにした。

けっこう、ややっこしい問題であるようなので、論旨が混乱するのをさけるためにも、まず僕の基本的な考えを明快にしておくと、僕は「ある町医者の診療日記」の記事を読んでもなお、「医師の診療行為については、刑事責任を追及しない」という考えには賛同できないでいる。
ただ、「町医者」さんが指摘されているように、医学について素人の裁判官が判定している裁判にはいろいろと問題点があるのかもしれないとは思うから、医療裁判については他の裁判とは別枠で特別な形式で行うことを検討したり、あるいは、裁判ではなく法廷外で医者側と患者側が調停する委員会なり制度なりを設けることを検討する必要性はあるのかもしれないとは考える。(ただ、そうした調停の委員会を、専門家の医者のみでつくるべきだという町医者さんの意見にはやはり反対である。)

以下、どうしてこのように僕が考えるのかを述べていきたい。

まず、医者はたしかに医学の専門家ではあるのだけれども、それは内科とか外科とか、医学の知識についての専門家なのであって、こうした手術や治療をすることが倫理的にいいか、どうかを判断する面では専門家であるとは言えないのではないだろうか?と僕は思う。(というか、そういう判断をすることに関しての「専門家」などという人間は世の中には存在しないのかもしれないが。人間は神様ではないのだから。)
たとえば、分かりやすい例として、ある患者が助かる見込みはまずないから苦しむぐらいならここで死んでしまいたい、尊厳死をさせてくれと求めて、医者がその患者の尊厳死を選択したケースがあったとする。ここにおいて、医者が医学的に「この人は助からない」と判断したこと自体は専門家が判断したことであり、そのこと自体は罪に問えないことだとは思う。だけれども、その患者が助からない状況で、そして患者自身が望んだからといって、尊厳死を認めていいか、否か?というのは医学知識がある専門家であるか否かとは関係ない、倫理的な判断の問題ではないだろうか? そして、現在の日本の刑法では、尊厳死を個人の人間が判断して実行することは違法とされている以上、それが罪になるのは当然であると思う。その判断した人間が医者であったからといってそのことが罪にならないのであれば、それはかえっておかしくないだろうか? つまり、医者が専門家として「この患者は助からない」と判断したこと自体はたしかに罪に問えることではない。仮に、その判断が間違っていたとして、助けられる治療方法があるのにその医者が知らずにそういう判断をしてしまったのだとしても、それはあくまで専門家の職務上の判断の間違いでしかないのでそのことで刑罰を問うことはおかしいのかもしれないとは思う。しかし、尊厳死をさせることを実行したとなると、それはその人間が医学の知識がある専門家であるか否かにかかわらず、法律違反であることを勝手に判断して実行したことは倫理的に問題があるのであるから刑罰を問われるのは仕方がないということになるのではないだろうか?
たとえば、医者ではなく、その患者の家族が見るにみかねてその患者を尊厳死させたとする。当然、刑罰を問われるだろう。しかし、担当の医者がそのような尊厳死を実行したとする。それはその医者の「医療行為」なのだから罪にはならないのだとすると、おかしくないだろうか? 法治国家において、ある人間がある行為を実行した場合に、他の職業の人間が同じことをやったら刑罰になるけれども医者が行ったら刑罰には処されないということでは法律が不平等だということにならないだろうか?
今、分かりやすい例として尊厳死のケースを持ってきたのだけれども、他のケースの治療とか手術においても、医者が専門家としてこのような治療をすることが有効であると判断したこと自体は、たとえそれが結果として間違っていた判断だったとしても、そのこと自体は刑罰の対象になるべきものではないのかもしれないとは僕も思う。しかし、医者の治療の行為が倫理的にみておかしなものであり、刑罰に触れるようなものであったならば医者とはいっても刑罰の対象になるのは仕方がない、というか、当然のことなのではないか? 倫理的に法律に触れることを医者であればやってもいいなどということはおかしいのであるから。
もっとも単に「医療行為」の方法の判断に間違い(あくまで現状の「医学」の範囲では間違いと考えられるものということですが)があったということなのか、それとも倫理的にその医者がおかしいことをやったのか?の区別がなかなかつくものではないので、そこが難しい問題なのかもしれないけれども。
倫理的に間違いというのは、たとえば、その医者がその薬は処方してもなんの効果もないことを知っていてその薬を処方するとお金がもうかるので処方したとか、する必要がない手術だと知っていて、手術をするとお金もうけになるからという理由で手術したとかいった場合である。「医師の診療行為については、刑事責任を追及しない」ということになってしまうと、その医者が単に治療方法の判断で間違いがあったということではなく、その医者が確信犯的に必要がない手術や治療を自らがお金がもうかるからという理由でしていた場合も罪に問えないことになってしまう。しかし、こうした場合は、その医者の行為は倫理的に考えてどう考えてもおかしいと思うから、これが罪に問われないというのは社会的正義に反すると思うのである。
birds-eyeさんが「やぶ医者」の例をあげていたけれども、「やぶ医者」の場合は、むしろ、僕は刑罰に問うべきではないのかもしれないと思うのだ。それは医療上の判断のミスでしかないわけだから。それより、こうした治療方法は最善のものではないということをその医者自身が知っていて、しかし最善と思われる治療行為を選択することは自らのお金もうけに結びつかないからよりお金もうけに結びつく治療行為のほうを選択したという場合にその医者の倫理性が問題になるのであり、そうした場合でも刑罰を問えないというのはおかしいと思うから(だから、「やぶ医者」ではなく、むしろ、優秀な医者が倫理的におかしいことを確信犯でした場合に罰せられないのはおかしいから)「医師の診療行為については、刑事責任を追及しない」としてしまうことには危険性を感じるのである。
たとえば安部英氏の例を考えると、安部氏は「やぶ医者」だったわけではなく、血友病の専門医としてはそれなりの人であったのだとやはり思う。しかし、製薬会社と癒着があり、そのことから危険性が危惧されていた治療方法を放置してきたと疑われるのでそこに倫理的に問題があったのではないかと考えられるので裁判になったわけである。
もっとも安部氏本人は、あくまで自らはこれが正しい治療行為だと考えて行なっていたのだと主張されていたのであり、結局、法廷では決着がつかなかった。この安部氏のケースを見ても分かるように、単に「医療行為」の方法の判断に間違いがあったということなのか、それとも倫理的にその医者がおかしいことをやったのか?を区別し判断することは難しいことなのだとは思う。
その点は、町医者さんが指摘されていることも一理ある意見なのかなとは思うのだ。
でも、「判断をすることが難しい」からといって、「そのような判断をすること自体、やめてしまい、医師の診療行為については刑事責任を問わないことにするべきだ」という意見にも賛同できないのだ。それでは、倫理的におかしいことを医者が行った場合も刑罰が免責されることになってしまうので、社会的正義に反すると思うから。
従って、「判断をすることが難しい」というのは分かるけれども、それでもそうした判断をしていく必要性があると思うわけだから、より厳密に(もちろん、完全ということはあり得ないと思うが、より精度があるということだけれども)判断していくようにするためには、医療裁判については他の裁判とは別枠で特別な形式で行うことを検討したり、あるいは、裁判ではなく法廷外で医者側と患者側が調停する委員会なり制度なりを設けることを検討する必要性はあるのかもしれないとは考えるわけである。
そして、そうした調停の委員会を、専門家の医者のみでつくるべきではないと考えるのは、そうした判断をする上で、その医療行為を厳密に分析する必要性があるとは思うから当然、多くの医者がその委員会に加わるべきだとは思うけれども、しかし医者は医学の知識に関しては専門家ではあるけれども、倫理的にその医者の行為が正しかったか、否かを判断する上では専門家ではないわけだから、医者のみでつくられた委員会ではそこまでの判断は出来ないと思うし、判断が医学面からの判断のみに偏りかねないので(たとえば尊厳死の例で、「この患者は助からない」という判断は医学的に正しかったという結論が出ると、その委員会が医者のみでつくられたものだとすると「だから尊厳死を選択した医者の判断は正しい」という結論になってしまいかねない)、他に、法律の専門家とか、あるいは哲学の専門家とかもかもしれないけれども、そうした専門家を集めて委員会をつくっていくのがいいのではないかと思うのだ。
またそうした委員会の調査や討論は公開して、患者側に示すべきではないかと思う。専門の医者が秘密で行うものでは、患者側が不信感を持ち、裁判を起こそうとすることを止めることも出来ないのではないか?と思うからである。
結局、「町医者」さんとは結論は正反対になってしまっているのかもしれないが。
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2008/3/4

韓流シネマフェスティバル『まぶしい日に』  映画

シネマート六本木の韓流シネマフェスティバルで『まぶしい日に』(パク・クァンス監督)。この監督が並々ならぬ演出力を持つ監督であることは、すでに『イ・ジェスの乱』やオムニバス『もし、あなたなら 〜6つの視線』の1編を見て知っていたけれども、これほどのすごい監督だったとは・・。まるでマキノの映画を見ているかのように、次から次へと卓越した演出のシーンが炸裂するこの傑作によって、パク・クァンス監督は一気に突出した地平に躍り出たかのようである。まあ、『イ・ジェスの乱』はとんでもない野心的な作品だったけれども野心的すぎてちょっとATG映画でも見ているような気さえしてくるものだったし、『もし、あなたなら 〜6つの視線』のパク・クァンス監督の短編は絶品のしゃれたホラー映画だったけれども短編なのでまだこの監督の真価は判断がつかないところがあったのだけれども、今度の『まぶしい日に』は、もしかしたら変に野心的に気張らずにひたすら職人的な演出に徹しようとしたのかもしれないが、とにかくいい意味でのプログラムピクチュアの快作のように、弾けまくった超絶品の作品に仕上がっているようである。それにしても、あのぞくぞくするような電球がついたかと思うとシュートするシーンや、テレビの映りが悪いのでアンテナを動かし映りをよくするために屋根の上にのぼった子役のソ・シネに降り出した雨が吹き付けるシーンや、そして極め付けの韓国チームがサッカーで勝ったのに興奮して群衆が踊るシーンのような演出をやってしまう(やってしまえる)監督が、今の(同時代の)韓国にいたのだということに驚きと喜びを隠しようがない。特に、この群集シーンでは、乱舞する群集たちの中でまったく別のドラマが進行しているのだけれども、まるでマキノの映画とグリフィスの映画が同時に共存してシーンとして進行しているのを見るかのような、この感触はいったい、何事なのか。とにかく、パク・クァンス監督が何か、すごい領域に進もうとしていることはたしかであるように思う。

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