2008/8/28

『言えない秘密』(2回め)  映画

もっと大きなスクリーンで見てみようと、川崎の映画館まで2回めを見に行ってしまった。
2回めなので、少し冷静に見れて、前に書いた感想はちょっと勢いで書いていて僕の妄想が入ってしまっているかも・・と思ったりしたが、しかし、2回めで少し冷静になって見てみても、これはやはり凄い映画だ・・と思う。今回は1回めには見落としていたディテールとかを確認して、すみずみのディテールまで実によく練られているなあと感嘆する。
今週は、「中国インディペンデント映画祭」で見た『最後の木こりたち』や、田代陽子監督の『空想の森』といった素晴らしいドキュメンタリー映画に出会うことも出来たのだけど、『言えない秘密』のほうに頭がいってしまっているので、ドキュメンタリーについて書けん。
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2008/8/27

『言えない秘密』  映画

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これは凄い!初監督作品でこれだけ完璧なものを仕上げるジェイ・チョウ、天才すぎ!音楽の天才が映画でも天才だったなんて凄すぎる。
が、基本的なストーリー自体は決して目新しいものとは言えない。大林や岩井俊二、韓流ものなどですでに知っているもののはずだ。なら、何が既成のものとは違う印象を持たせているのか?
これはやはり演出力の勝利と言うしかないのだろうか。もちろん、撮影のリー・ピンビンをはじめ、最強のスタッフが集まって補っているところが大きいにしても、あの人物のひとつひとつの動作、そのテンポを演出しているのは監督、主演のジェイ・チョウの力量にほかならないのではないだろうか。特に、人物の背中をとらえた演出は、当然、成瀬の映画を思い起こさせずにはいられないものなのだけれども、ジェイ・チョウはまるで楽器を奏でるかのように、人物に細かい動作をつける演出をしてしまったのかもしれない。それがテレビ的な演出ではなくて、人物の後ろ姿(背中)をとらえたり、人物に振り返らせたり、立ち止まらせたりという、成瀬を思わせるような映画的演出として成し遂げてしまったという、このような演出をしてしまえる20代の新人監督がいるということの驚異。「音楽的」であることと「映画的」であることが両立しているというだけでも驚きだ。
いや、しかし、こんな風に、成瀬、成瀬と言って持ち上げるのもちょっと違うのではないだろうか・・。『言えない秘密』は、本当に成瀬の映画級の「偉大な映画」なのだろうか?もっと「普通の映画」なのではないのか?そして、「普通」にこのような作品が成立していることこそが驚きなのではないのか?
この映画の「秘密」自体は実はそれほど驚くものではない。先に書いたように、基本的なストーリー自体は決して目新しいものではないのだから。しかし、その「秘密」を扱う手つきが驚きなのであって、その意味ではこれはささやかな映画であると言える。決して「偉大な映画」「偉大な物語」というわけではないのだ。もっと、ささやかに、何か、とても大切な「秘密」を差し出しているかのようなのだ。それは恋愛の「秘密」であり、映画の「秘密」であり、天才であることの「秘密」であるとも言えるのかもしれないのだけれども・・。
それにしても、成瀬からウォン・カーウァイまで、どうしてメロドラマを描くことを得意とする映画作家たちは人物の背中をとらえることにこだわってきたのだろうか? それは映像としての見栄えとしてだけでなく、人物の背中に神秘的なものを感じるからなのではなかったのか? つまり、人が異性にひかれるのは、神秘的な要素があるからである。男は女のことを分からない。女は男のことを分からない。(もちろん同性愛者の場合は同性でも可。とにかく「他者」のことは分からないということ。)だが、分からないからこそ、神秘的なものを感じるからこそ、ひかれるのであり、「いったい、この人にはどういう秘密があるんだろうか?」と考えている内に、相手のことが気になっていってしまうのではないだろうか? 逆に言うと、完璧に相手のことが分かってしまったら、神秘的なものを何も感じなくなってしまったら、恋愛は成立しなくなるのかもしれない。だから、メロドラマを描くことにとりつかれた映画作家が、人の神秘性を感じさせる、その人が抱えている「秘密」が象徴的に表出されているかのように思える人物の背中をとらえることにとりつかれることになるのは道理だとも言えるのだ。
そして、『言えない秘密』が、「秘密」が「言えない」ものであることが重要であるのもこの点に関わることなのだ。「秘密」自体はたいしたことでなくていいのだ。とにかく、異性(他者)に対して「むむ、この人には何か、秘密があるぞ。なんだろう・・」と感じさせ、相手を自分に興味を向けさせることが大切なわけで、だから「秘密」は「言えない」ものでなければならないのだ。言ってしまったら、言って相手に伝わり分かってしまえるものであるのならば、相手は「ああ、この人の秘密は分かった。そういうことか・・」と納得して、そこで相手の「秘密」が解けて相手に対する興味は減じていってしまい、気持ちが離れていってしまうからだ。つまり、相手の気持ちを引きとめ続けるためには、「秘密」がある上に、それが「言えない」ものであることが重要な要素だと言えるのだ。
そして、映画というのが小説と異なるのは、やはり画で見せる芸術であるということで、ミステリーとして「秘密」をとく知的探求をするのであれば、言葉によってつづられている小説のほうが優位だとも言えるわけで、謎をときあかすミステリーは映画には向いていないと言えるのだ。だが、逆に、映画の場合は謎はときあかさなくても、あるいは、たいしたことでなかったとしても、いいのだとも言える。その「謎」を感じさせる、たとえば人物の背中や振り返らせる行為といったものを巧みに見せることが出来れば、「恋愛映画」として成立するのであって、そのほうが言葉によって「秘密」をとくミステリーの要素にそれほど重きが置かれていない分、逆に言葉よりも純粋に映像による表現として屹立しているとも言えるからだ。
『言えない秘密』という映画の驚異は、このような映画的な生理にそって作品が成立し得ていることから来るのではないだろうか?
さらには、『言えない秘密』で驚かされるのは、たとえばCGの映像も、まるで人物の背中を見せたり、振り返らせたりするのと同じようなテンポで見せていくことである。すなわち、この映画はSFXを用いてピアノの中をぐんぐんカメラが入り込んでいき、(人物の背中だけでなくて)ピアノの「背中」を見せていくのである。(これは物語上でも重要な伏線になっているのだが。)ここに、まるで成瀬映画の演出のようにCGとかSFXを用いて画面づくりをしてしまおうというこの新人映画監督の野心を感じ取れるのかもしれない。(もちろん、これも「壮大な野心」であるかのように思えるかもしれないけれども、そうではなく「ささやかな野心」として行なわれていることとして考えるべきなのかもしれない。)
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2008/8/26

中国インディペンデント映画祭、『あひるを背負った少年』  映画

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ポレポレ東中野で。
デジタルビデオ撮影の、役者も素人を集めたインディーズ作品のようだが、かなりしっかりとした画作りをしている。
素人の役者と言っても、単に予算がないから素人ですませたというばかりではなく(予算がないから素人ですませた面ももちろんあると思うんだけど)、観賞後、インターネットで検索したら東京フィルメックス映画祭でこの映画が上映された時のイン・リャン監督のインタビューが出てきて、監督が「チンピラ役の人は、実際ショバ代を取り立ててる人で、はじめに映画の出演依頼をよく理解せずに、ショバ代を取り立てる為に呼ばれたと思っていました(笑)」と語っている。ほんとのやくざが勘違いして(?)そのまま出ているというのはなんか、凄い(笑)。そりゃ、リアリティがあるはずだ。
むしろ、インディーズ作品にしては画作りも展開もしっかりし過ぎていて、普通の商業映画のように見れてしまうのが面白くないかも・・と思うぐらいで、展開が、いちいち起こる出来事が偶然のようでいてあまりにしっかり計算されていて、ちょっとわざとらしいかも・・とも思ったのであるが、最後に微妙に観客の予測を裏切る、すっきりしない展開を見せてくれる。ジャ・ジャンクーを初めて見た時ほどの衝撃と興奮はなかったけれども、このイン・リャン監督も一応、ひねりがある監督のようだ。
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2008/8/25

新藤兼人、2016年“東京五輪映画”に意欲を示す!  映画

*それは凄い!今時のひ弱な若者は見習わなきゃ!

(ニュース)
新藤監督 104歳で“東京五輪映画”撮る
8月25日7時2分配信
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2008/8/24

オリンピック・・たかがスポーツじゃないか!  スポーツ・将棋

なんか、あまりにも日本がメダルとれたの、とれないのとか、ナショナリズム(なのかな?)の方向ばかりに騒ぎ立ててる報道にうんざりして、ちょっと違うことを言いたくなってしまうのであるが、たとえば、日本と中国、韓国が互いに競い合っていることが「日本」だけでなく「アジア」の規模で考えると「アジア」をスポーツが盛んな地域にしているわけで、これは凄くいいことなんじゃないだろうか・・という風に前向きに考えることは出来ないのだろうか?と思う。
日本が野球やシンクロでメダルをとれなかったことを嘆く・・よりも、打倒日本をめざしてきて巨人軍で活躍する選手を4番にすえた韓国がキューバまで倒して野球で一番になったことや、日本のシンクロコーチが中国に行き中国チームをメダルとるまでにしたことを、中国、韓国、日本がお互いに競い合い、その中で国境をこえた交流も生まれていて、アジアという地域全体のスポーツ昂揚、スポーツ発展に至らしめていることとして、実に素晴らしいことじゃないか!と言ってみるのはどうだろうか?
なんか、日本がメダルとれたの、とれないの、そればっか気にして騒いでて、果てはメダルとれなくてすみませんと関係者があやまったりしてて(なんでそんなこと、いちいちあやまらなきゃいけないんだ?別に悪いことしたわけじゃないのに・・)、変だと思いませんか?
たかがスポーツじゃないか!もっと楽しんで、前向きの方向に考えて、見ましょうよ。
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2008/8/22

『Clean』  映画

実はこれまでそんなに面白いという印象がなかったアサイヤス監督作品なのだが、これはちょっと良かった。僕は音楽にはそれほど関心がないので、ミュージシャンの人を描いた題材には特に興味を感じないのだけど、これはミュージシャンを描いたというよりも、なんていうか、ミュージシャンの人にも普通に人生とか生活とかがあって、そういうものを描いたという感じだったので、そこが良かった。
ところで、この監督とマギー・チャンって別れちゃったんですか? もっとこの監督が描くマギー・チャンの姿を見てみたい気がしたのだけど・・。
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2008/8/22

『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』  映画

ホウ・シャオシェンってやっぱり凄いというのか、凄いカットが続出だったが、少年のキャラクターというのか、少年が何を考えているのかがよく分からないと言えば分からないかな・・。
たとえば、ピアノは、母親に言われるからやっているのか? それとも、本人も好きなのか?とか。
いい子すぎて、あまり感情を表に出さないから分からないのかな?
携帯電話のシーンで、「僕だって男だよ!」と言い出すのは面白いと思ったのだけど。
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2008/8/22

ジャン=シャルル・フィトゥッシ  映画

なお、前記事でちょっと触れたジャン=シャルル・フィトゥッシという人の映画は、携帯ムービーの『日本の時』というのは「?」だったが、『私は死んでいない』というのはなかなか凄かった。パソコンで上映と同時進行で日本語字幕を出してくれたのは良かった。映像だけでなく、台詞がかなり独特でユニークな面白さを持った映画作家であることが分かったので。(字幕がないとやはりそこまで分からない・・。)あんな台詞、どうすれば書けるんだろうか・・。
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2008/8/21

1970年生まれというのに何かがあるらしい・・  映画

今、アテネフランセで特集上映が行なわれているストローブ=ユイレの助監督だったという人について、藤原敏史氏が書いていて、次のようにあるのだが。

http://www.athenee.net/culturalcenter/

「ジャン=シャルル・フィトゥッシと同世代どころかまったく同じ年生まれの映画作家に、賈樟柯、P・T・アンダーソン、アピチャッポン・ウィーラーセタクンなどがいる。
 なぜ1970年にこうも映画作家が生まれているのか、偶然としか言いようがないが、・・(以下、略)」

そういえば、先日、見てびっくりした『地球でいちばん幸せな場所』のステファン・ゴーガー監督も1970年生まれだということに気がつく。『地球でいちばん幸せな場所』はすでに書いたようにジョン・カサヴェテスの作品にオマージュを捧げているようなものだけど、凄いのは、監督、脚本だけでなく、撮影までひとりでやってしまっていることで、監督、脚本、撮影までひとりでやるなんてまるでルルーシュみたいなのだが、ルルーシュみたいなタッチでカサヴェテスにオマージュを捧げているような作品をこの人は撮りあげてしまったとも言えるわけで、これはたしかに藤原氏があげている作家たちと共通するところがあるような気がする。
1970年生まれというのに何かがあるのだろうか・・。
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2008/8/18

『ダークナイト』  映画

自分の「専門外」のジャンルの映画という感じで、実際、前作『バットマン ビギンズ』も見てないわけだけど、あまりの評判の高さ(何しろ、『タイタニック』をこえそうな勢いなのだから・・)に、急きょ、鑑賞。
結果は、今時、珍しいぐらいの「骨太の映画」で(たまたま今、シネマヴェーラ渋谷で内田吐夢監督特集がやっているから無理矢理、言うと、まるで内田吐夢監督作品のような「骨太の映画」だ!)、とりあえずどうして評判になっているのかは確認。

こんな「ピカレスクロマン」のものをやるならいっそのこと、もうアメコミのバットマンとしてやるのではなく、別にやればいいのに・・という声も聞こえてくるものなのかもしれないが(実際、タイトルからはほんとにバットマンの文字が抜けているのだけど、そうではなくて内容においてももうバットマンものではなくやれば良かったのではないかという・・)、それはそうではなく、一方でまぎれもなくこれはバットマンものの1本であり、バットマンものとしてやっているからこそ、ヒットしているし、より広く人々の心に訴えるものになっているのではないか・・とも思える。そこも魅力的・・というのか、ああ、「映画」だなあと思う。映画っていうのは、やっぱり本来、そういう猥雑な活劇なのだから・・。

この『ダークナイト』の素晴らしさは、そうした猥雑な活力みたいなものが渦をまいているかのような、躍動感ではないだろうか。決して、これは構成、脚本など、完璧主義の作品ではない。たとえば『タイタニック』などは、かなりきっちりとした構成力を持つ作品で、そこは馬鹿にするものでは決してなくむしろ凄いと思うのだけど、その『タイタニック』に興行成績で迫る勢いのこの『ダークナイト』は、アンバランスな構成のもので、前半がやけに長い割に、後半の展開があまりに急にぐいぐい進むという、バランスを崩している構成であることは明らかなのである。しかし、そこも逆に魅力的というのか、新鮮に思えて、これだけヒットしているのかもしれない。奇妙な面白さを持った映画だ。

そのアンバランスさは、主役の、ヒーローたるバットマンよりも、悪役のジョーカーのほうが魅力的なキャラクターとして観客に迫ってくる・・というところにも見い出せるのだろう。逆に言うと、「ヒーローもの」としては優柔不断きわまりないものであるわけで、これならいっそのこと、ジョーカーを主役にしてジョーカーの視点で描いていく「ピカレスクもの」としてつくればいいのではないか・・という気さえ、してきてしまうのだが、しかしそれは違うのかもしれない。そうではなく、あくまでヒーローものの1本として、バットマンものの1本としてバットマンが主役でありながら、悪役のほうが魅力的に輝いてくるというアンバランスな作品として仕上がっているからこそ、独特の猥雑な活力が渦巻いている作品になり得ている・・と思えるからである。実際、とことん悪の道を進む、悪人の主観で描いた「ピカレスクもの」はそれはそれで今までいくらも作られてきたと思うし、そうではなくて、ヒーローものなのに、悪役のほうが魅力的で、悪役が言っていることのほうが正論のようにさえ思えてくる・・というアンバランスな、渾沌とした作品であるからこそ、観客に「そもそも正義と悪とはなんだ?」と問いかけてくる作品になっていると思えるのである。
つまり、ジョーカーの言葉に、バットマンはたじろぎ、自分は本当に正義なのか?と悩むわけだけど、たじろぎ、悩むのはバットマンだけではなく、観客もなのだ。バットマンという正義のヒーローものを見に来た観客は、悪役のほうに魅力を感じている自分を発見し、そうした自分に、「おいおい、俺は何を見に来たんだ!?」とたじろぐことになる。バットマンと同様に、ジョーカーの言動にたじろぎ、混乱した観客は、作り手から与えられたものをただ享受するのではなくて、自分自身が「いったい、何を求めて映画を見に来たのか?」を考えながら見なければいけなくなるわけで、能動的に自分から映画に参加しなければいけなくなるのだ。その意味でこれは観客が参加することで成立する映画なのだとも言えるのかもしれない。

しかし、ヒーローたるバットマンが悪役の言葉にたじろぎ、悩む・・という、正義のヒーローの側のほうが弱く思える「ヒーローもの」なんてほんとに賞賛されるべきものなのか? そういう疑問も沸いてくるかもしれない。そうした映画が出てくることは、映画にとってほんとにいいことなのか? だって、そんなものを認めてしまったら、「映画」というものが成り立たなくなってしまうのではないか? 「ヒーローもの」の物語なんて成り立たなくなってしまったら、そもそもアクション映画そのものが成立しないじゃないか!?と。
それもそうかもしれず、実際、映画としての強度で言うならば、たとえばイーストウッドの『ダーティハリー』を並べるならば、イーストウッドの映画のほうが強度というのか、主人公が確信を持って動いていることは明らかだろう。『ダーティハリー』の刑事が悪役の言葉にいちいちたじろぎ、悩んでいたら「映画」は成立しなくなるのだ。ハリーは容赦なく悪人を撃ち殺さなければいけないのだ。
なんだけれども、しかし、実際問題としては、イーストウッドの映画の刑事の行動は間違いなのだと思う。いくら悪人とは言え、やはり犯人をきちんと逮捕して裁判にかけるべきなのである。私刑みたいな形で撃ち殺すなんて間違っているのだ。フィクションの映画だからといって、そんな行為を認めてしまっていいのだろうか?と思うのだ。
と書いたけれども、もちろん、フィクションであるのだから、いいと言えばいいんだけど・・。映画はフィクションなのだ。だからあれでいいのだ。そこに現実的な立場での疑問を投げ込むことのほうが間違いなのだ・・という意見もそれはそれで正論だからである。
結局、何が言いたいのかと言うと、ほんとのところ、僕は分からないのだ。いつもこの問題はここで堂々めぐりするのだ。映画はフィクションなんだから、映画をフィクションとして成立させるためなんだから、それでいいのだ・・とするべきなのか、それとも、いかに映画とは言え、現実において認められないことであるならば、現実においてと同じように接して、認めるべきではない、我々はフィクションの作品の中の人間であっても現実の人間に接するのとまったく同じように接しようとするべきである・・というのが正しいのか? 僕は、どっちの考えも、それぞれ一理あるなーと思ってしまうので、ここで分からなくなって混乱してしまい、いつも判断がつかなくなってしまう。それで、つい、映画的であること、映画として優れているということと、その映画に乗れるか否かは別のことだとか、映画の良し悪しというのは実は僕にはよく分からない・・といった言い方をして、逃げてしまう。
バットマンにしたって、そもそも現実問題として言うならば、バットマンにしろスパイダーマンにしろ、個人が勝手に自警団みたいになって行動していること自体が間違いなのである。犯罪者の逮捕は警察に任せるべきなのだ。そもそもバットマンにしろスパイダーマンにしろその存在自体が間違いなのである。
・・が、しかし、そんなことを言って、いったいどうするのだ!? それじゃ、そもそも「ヒーローもの」なんて最初から成立しないじゃないか、kusukusuさん、ちょっと頭を冷やしてよ・・という風に言われると、それもそうだと思ってしまうので、結局のところ、えー、僕は混乱してしまっているので、バットマンやスパイダーマンについての作品としての判断はつきません、そうした作品は自分の「専門外」です・・と言って逃げ出したくなってしまうわけなのだ。

ところが・・である。今度の『ダークナイト』はそう言って観客の側が逃げ出すわけにもいかない作品なのである。なぜなら、作り手自身が、そのように問いかけてきているからだ! 観客の、僕が、勝手にそういうことを考えている・・ということではなくて(イーストウッドの映画の場合のように)、『ダークナイト』は、作り手自身がそういうことをテーマとして作品の中で描いていて、観客に問いかけてきている作品なのである。

・・正直に言って、僕にはよく分からない。『ダーティハリー』と『ダークナイト』のどちらが映画作品として正しいあり方のものなのか!? 作品としての良し悪しの判断が僕にはつかない。ただ、とりあえず言えることは、『ダーティハリー』のような作品があり、『ダークナイト』のような作品もある。そのことによって、今、書いてきたようなことを問いかけてくる渦のようなものが沸き起こっているように思える。それは、まあ、映画というものが存在するからこそ沸き起こっているものなのではないだろうか、そうであるならば、そこに映画というものが持つ可能性を見出すべきなのではないだろうか、と。そういうことは言ってもいいのではないか・・と。
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2008/8/15

「フランス映画の秘宝」  映画

とりあえず、『曳き船』『最後の切り札』『最後の休暇』『パリ横断』『三重スパイ』『誰でもかまわない』の6作品のチケットを購入。

ジャン・グレミヨン監督の『この空は君のもの』や、クロード・オータン=ララ監督の『肉体の悪魔』が大好きなフランス映画である(というより、僕をフランス映画好きにするのに大きな影響力を持った映画である)僕としては、ジャン・グレミヨン監督の『曳き船』、クロード・オータン=ララ監督の『パリ横断』は見れるとなれば外せない。

白状すると(僕の筋の悪さというか、頓珍漢さを告白するみたいだけど・笑)、中学、高校時代に、ゴダールの『勝手にしやがれ』やルノワールの『ピクニック』を見たのだけど、それほど、ピンと来なかったのだ。むしろ、僕を「フランス映画って素晴らしい!」状態にさせたのは、『肉体の悪魔』であり『この空は君のもの』でありルイ・マル監督の『鬼火』だったりする・・。
だから僕が前にあげた「フランス映画ベスト20」は以下のようになっているのだ・・。

フランス映画ベスト20
http://blue.ap.teacup.com/documentary/428.html

えー、あと、名前は有名だが、実は見たことないロジェ・レーナルト監督作品(『最後の休暇』)もこういう機会に見ないとなー。
あと、メルヴィルの『海の沈黙』も、レジスタンス映画の傑作と言われるもので、政治的な意味合いでも(?)押さえておきたい作品ではあるのだが、日程が調整つかなそうなので・・。まあ、当日で行けたら行くかも・・。
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2008/8/13

『地球でいちばん幸せな場所』  映画

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ジョン・カサヴェテス!
ステファン・ゴーガーというベトナム系アメリカ人の映画作家が撮り上げた『地球でいちばん幸せな場所』は、ジョン・カサヴェテスへのオマージュとでも言うべき作品であり、この監督が熱烈なジョン・カサヴェテス主義者とでもいうのか、「ジョン・カサヴェテス命」みたいな奴であることは作品からうかがえるのだけれども、それにしても、いかにもシネフィルというようなオマージュのやり方ではなくこんなやり方でカサヴェテスにオマージュを捧げ、変奏して映画をつくる試み方があったとは・・。ステファン・ゴーガーの方法論は、全編、手持ちカメラ撮影という、シンプルなものであるが、だからこそ、限りなく「素っ気無く」、カサヴェテス主義の魂を浮かび上がらせているかのようなのだ。
たとえば今年公開の映画で『4ヶ月、3週と2日』という「ルーマニア ヌ−ヴェルヴァ−グ」と称されている衝撃的な映画があったのだけど、あのラストの「街の喧噪」の音を聞かせるシーンは見事なものではあったのだけど、逆に見事にスタイリッシュに決め過ぎていた感もあったわけで、『地球でいちばん幸せな場所』のラストに響く、街の喧噪のノイズは、本当に素っ気無くノイズを響かせているだけなのだけど、より鮮やかに浮かび上がらせていると言えるのではないだろうか。何をって? ジョン・カサヴェテスの魂を、である。
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2008/8/9

始まってしまったロシアーグルジア戦争  時事問題

まさに北京オリンピックに世界の注目が集まっているドサクサに紛れるような形でロシアとグルジアが戦争に突入してしまった。表向きは南オセチア自治州の独立をめぐる紛争ということだけど、実質的には、エネルギー資源のパイプラインをめぐるロシアと西欧との利権争いの代理戦争のようなものなのだろうか。何、食わぬ顔で北京オリンピックの開会式に参列しているプ−チンは恐ろしいが、ロシアとグルジアのどちらの側が悪いとは言えない。つーか、戦争という手段に訴えている時点でどちらも悪い。国連安全保障理事会は即時戦闘停止を求める声明案に合意できなかったというが、ロシアも、NATOやアメリカも「当事者」みたいなものなのだから、合意できないのは当然なのかもしれない。しかし、それでは国際社会にこの戦争を止めさせる力はないということで、戦争の泥沼化が懸念される。NATOやアメリカも、まさか、ロシアと全面戦争をするわけにはいかないだろうから、おおっぴらにはこの戦争に参戦まではしないのだろうが、アメリカは既に特殊部隊をグルジアに派遣しており、実質的には参戦しているとも言える。また仮に今後、アメリカにオバマ政権が出来た場合(マケインのほうが勝つかもしれない、まだ分からない情勢のようだけど)、イラクからの米軍撤退にも影響を与えるかもしれない。仮に陸上部隊をイラクから撤退させたとしても、グルジアにいざと言う時に出撃する兵力として航空部隊はイラクに残すことになるかもしれないからだ。実際にグルジアに出撃しなかったとしても、そうしたことが出来るぞということをロシア側に示し続けることが必要・・とアメリカ政府は判断するのではないだろうか?

追記
なお、オバマ政権が出来た場合にイラクからの米軍撤退に影響を与えるかもしれない・・と書いたが、マケインの場合はそうではないということではない。それどころか、マケインになったらもっと危うく、イラクから米軍が撤退しないどころか、それこそ、ほんとに米軍の航空部隊がイラクからグルジアに出撃・・なんて事態に発展してしまう可能性もある。
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2008/8/6

三村晴彦監督の訃報  映画

*4日の新聞の朝刊に掲載されていたのだが、見落としていた。まだまだ映画を撮って欲しい名匠だっただけに残念。

<訃報>三村晴彦さん71歳=映画監督
8月3日20時14分配信
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2008/8/2

『憐-Ren-』  映画

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これはSF青春ものであるらしい。たとえば、小津の映画を見ていて、「もしかしたらこれはSFなんじゃないか・・」という妄想にかられることがあるけれども、そのように「もしかしたら・・SFなのかもしれない」といった「たとえ」として言っているのではなく、この『憐-Ren-』という映画は500年後の未来から来たという少女が主人公のストーリーのものであり、だから間違いなくSFものであるようなのだ。だがしかし、この映画では500年後の未来がCGを用いて描かれたりはしないし、500年後の未来から来たという少女が主人公であるということは、当の少女の口から台詞として語られているだけであり、だから実際のところは本当に少女が500年後の未来から来たのかどうかは分からない。もしかしたら少女がそう思い込んでいるだけであるのかもしれない。そうだとすると、実はSFものではないのかもしれないし、小津の映画を見ていてふと「もしかしたらこれは・・」と思うのと同じように、SFものではないものをSFものであるかのように見えているだけなのかもしれない。
でも、小津の映画では登場人物が500年後の未来から来ましたと語るシーンなんてないではないか。たしかにリュウチシュウがハウスのシチューでも作りながらとつとつと自分が500年後の未来から来たと語るシーンが小津の映画にありでもすれば、観客はこれは小津のSFものか!と信じるかもしれないが(そして、ハウスから深読みして小津と大林宣彦との関連性を語る者だって出てくるかもしれないが)、そんなシーンが小津の映画にあるなんて聞いたことはない。だから、『憐』のようにヒロインが私は500年後の未来から来たのと必死で周囲の人間に台詞で説明する(相手役の単純そうなーこう書くと悪口みたいだけど、逆に一途で純なやつとも思えるー少年以外はなかなか容易に少女の言葉を信じてくれないのだけど)ような映画と、小津の映画とを同一視するべきではないと言われるかもしれない。
それはその通りなのだけど、でも『憐』と小津の映画とをつい比較したくなってしまうのは、実は単にSFみたいだ・・という連想からだけではなくて、画面のつくりにおいて、複数の人物が同一方向を見ながら話をするといった点に『憐』という映画が小津の映画を想起させるところがあるからであって、これは偶然ではなく、『憐』の堀監督が小津の映画を意識してつくっているのに違いないのではあるのだけど。
しかし、画面の構図においては小津を連想させるものであったとしても、『憐』は現代の高校生を描いた作品であるから、自転車で2人の人物が並んで走るとか、集団で高校生たちがバスケットボールをするとか、夜の海辺で高校生たちが焚火をするといった、まあ、小津にはあまりなかったアイテムも出てくるわけだけれども(ちなみにこの夜の海辺の焚火のシーンは小津よりもむしろ森崎東の『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』を想起するところなのかもしれないのだけれども)、でも小津の映画のように大人たちがバーで並んで飲んで話をするのではなくて、高校生たちが半円形に円陣を組んでバスケットボールをしながら話すのであったとしても、これがある種の「ごくごく日常的な情景」として描かれている点では(とにかく『憐』という映画の登場人物のひとりが言うには、この高校生たちはバスケットボールしかしていない・・というぐらい、バスケットボールばかりをしているらしいのだが)たぶん通じるスピリットを持つものであるように思えるのだ。
そして、SFものなのに、現代の高校生のごくごく日常的な情景が描かれるばかりなんておかしいじゃないか・・と思われるかもしれないが、これは実はストーリーとしても整合性がとれているのである。なぜなら、これは500年後の未来(そこでは少女は荒んだ人生をおくっていたらしい)から来た少女が、現代の高校生の同級生たちのごくごく平穏な日常に接して、日常の幸せというものを知っていく・・という話なのであるから、ごくごく日常的な情景をきちんと描写することはむしろ、当然なのだ。(原作は読んでいないが、おそらくこの日常の再発見という視点を丹念に描いたことによって、単に眉村卓とか筒井康隆とかの二番煎じではないものを表現していたからこそ小説として世に出たのだろう。)だから、このストーリーに、小津の映画をイメージさせる丹念な日常描写を盛り込むことはストーリーやテーマと合致するものであると言えるし、決して小津の映画からかけ離れたSFもののストーリーの作品に、監督が小津の映画が好きな人だったから小津を模倣した画面の作り方を無理にしたというわけではないのであり、その意味でストーリーやテーマと表現手法、画面づくりが合致した作品になっていると思えるのである。
だが、それにしても、なんでバスケットボールなのか? バスケットが今の高校生の間で流行っているから? よく知らないがそうかもしれない。画になるから? それもあるだろう。あるいはなぜも何も、原作にバスケットボールとあるから映画のつくりてがその設定をそのまま忠実になぞっただけなのかもしれないが、結局、「みんなと一緒の幸せ」のイメージとしてはまさにバスケットボールしか、今の高校生にはないのかもしれない・・。たとえば今の高校生のアイテムとしては携帯電話とか、あるいはみんなと共通の話題としてはテレビとかインターネットとかがあるのかもしれないが、基本的に携帯電話とかはひとりでするものであり(まあ、通話の相手はいるけれども、だとしても2人の間でするものであり)、みんなで一緒に・・と言うとバスケットとかスポーツになるわけである。だから、『憐』に出てくる高校生たちはバスケットばかりをしているのかもしれない。
もうひとつ、小津の映画のような家族の団らんは実は今の高校生たちにはないのかもしれない。たとえばこの映画で少年は冷蔵庫から出した食品を電子レンジで勝手にチンしてひとりで食べるのである。これが現代的な食事風景なのだ。それに対し、ヒロインのほうの家庭は対照的にまだ古風な家の食卓の団らんが描かれているようなのだけど・・実はこうした食卓の風景こそが「SF」なのである・・。
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