2009/8/31

福田衣里子さん、当選、おめでとう! そして、ちょっと気になっていること・・  公害・薬害・環境・医療問題

長崎2区、福田えりこ(福田衣里子)さん、当選、おめでとうございます!
・・とまずは祝福しておいて、ちょっと気になっていることを書かせて頂く。

今回の選挙の際、「エコ議員つうしんぼ」という面白い試みをしているサイトがあった。

エコ議員つうしんぼ
http://giintsushinbo.com/index.htm

立候補している議員に環境問題についていろいろと質問して、答えてもらい、有権者の参考にしようと意図したものだ。
ここで、長崎2区で出馬した福田えりこさんが返答されているのであるが、この答えに「あれ?」と意外に思うものがあったのだ。
それは、設問14の諫早湾干拓事業についての設問の答えである。
設問の内容は以下のものである。

「1997年4月の閉め切りから12年が経過した諫早湾干拓事業の潮受堤防が有明海全体の貧酸素化を招き、生物多様性や漁民の暮し、地域経済への被害が年々深刻さの度合いを深めている。
またアオコの発生や水質悪化により諫早湾の漁業だけでなく農業用水としても問題があると言われる調整池など諫早湾干拓事業は多くの問題を抱えている。
これに対して2008年6月佐賀地裁は、「漁業行使権の侵害に対して、優越する公共性ないし公益上の必要性があるとは言い難い」とし、さらに堤防閉め切りと湾内環境悪化の因果関係について「相当程度の蓋然性は立証されている」と認めた。
諫早湾干拓事業の水門は佐賀地裁判決どおりに開放し、農水省は控訴せず一刻も早く有明海の生態系修復事業に着手しよう。」

これに対して、福田えりこさんは、なんと、「反対」と答えていたのだ。

この諫早湾干拓事業というのはまさに福田さんが出馬している長崎2区の地元の問題である。
そして、知られている通り、この諫早湾干拓事業は無駄な公共事業の代表的なもののひとつとして批判されてきているものであり、環境問題の視点からも、この諫早湾干拓事業によって干潟の生態系が破壊されたことはたいへん批判を受けていて、多くの環境NGO団体がこの事業の中止を求めているものである。
福田えりこさんは、自民党が進めて来た無駄な公共事業を問い直すと言っている民主党から出馬した議員であり、特に自らの地元の問題なのだから、むしろ、積極的に「賛成」の意を示すのではないか・・、てっきり僕はそう思い込んでいたのだ。

福田さんは、補足のコメントを寄せている。ここになぜ福田さんが「反対」と答えたのか、理由が示されている。

「14) 環境アセス調査は大事だが、現在、干拓農地には多くの農業者が入植しており、水門を開放しての調査は、農業に重大な影響を及ぼす懸念がある。農業者、漁業者と市民が共存可能な方策が必要。」

これを読んで、僕は、うーん・・と考え込んでしまった。
僕自身は、以前から諫早湾干拓事業には反対の考えの人間であり、干潟の生態系を今からでも取り戻して欲しいと思っている。(環境再生には、これまた莫大な費用がかかるらしいが・・。)
その意味では、福田さんが、自分と違う考えを持っていることを知って、ちょっとがっかりした気持ちがあったこともたしかだ。
でも、考えてみれば、自分と考えが違うからがっかりするなんていうのも僭越な話でしかないので、気分を変えて、どうして福田さんがこのように考え、答えたのだろう・・ということを推察してみた。無駄な公共事業を問い直すと言っている民主党から出馬した新人議員ならば、こういうところで「賛成」の意思を示して自らの存在をアピールするのではないか?とつい思ってしまうのに、どうして福田さんはあえて「反対」と答えたのだろうか・・と。
おそらく、福田さんは、地元だからこそ、実際に、多くの関係者と会っているのに違いない。そこで、漁業者、市民だけでなく、干拓事業が進み、干拓農地に入植した多くの農業者の人達とも実際に会って話を聞いたのではないだろうか? それで、干拓事業をやめてしまうと、一方でこの農業者の人達は被害を受けることになってしまうことに気がついてしまったのではないだろうか? 福田さんは肝炎訴訟で原告として闘って来た人である。とにかく被害を受けることになる弱者の人を出してはいけない・・という思いが強い人なのではないか?と思う。干拓事業をやめてしまうと、一方で弱者として被害を受けることになる農業者の人達が出てくるのであれば、それもいけない。そういう片方でメリットを受ける人達がいてももう片方にはデメリットを受ける人達がいるという現実があるのであれば、双方が話し合い、共存可能な道を探って行く必要があるのではないか? そうした考えで、「農業者、漁業者と市民が共存可能な方策が必要」という考えに達して、この設問に「反対」と答えられたのではないか? 僕はこのように推察したのだ。

これは難しい問題である。
現実は、世の中、何事も、すべての人に利益があって、メリットばかりがあってというわけにはいかないものだからである。片方でもうかる人がいれば必ず片方で損するやつがいる。たとえ社会主義社会でもこれはやっぱりそうなのだと思うが、資本主義社会ならむしろそれが当然のことであるとも言える。
早い話、自民党が進める無駄な公共事業・・というのにしたって、その公共事業、たとえばダム建設の工事に携わることによって給料をもらい、生活の糧を得ている人だっているのかもしれない。もしかしたら、その工事をやめてしまうと、失業してしまう人がいるかもしれないのだ。
無駄な公共事業だから削ってしまった場合に、そのように被害を受ける人達がいるのであれば、それには目をつぶってしまって果たしていいのだろうか?

では、どうすればいいのかは僕にも分からない。

ただ、とにかく、もっと議論し合うことは必要であるようには思う。僕はやっぱり諫早湾干拓事業には反対の考えであるので、福田さんの考えとは合わないところもあるわけだけど、それでも福田さんがコメントされている「農業者、漁業者と市民が共存可能な方策が必要」という点に限ってはそうなのかもしれないと思う。片方に利益を得る人ともう片方に損をする人とがいるのであれば、双方がいがみあったりするばかりではなく、話し合い、より最善の選択とは何か?を見い出していくしかないのではないか?と・・。

なんていうか、4年ごとに、政権が変わってさ、これまで利益を得ていた人達が今度は損をする立場になって、そして損していた人達が利益を得るようになって・・という風に変わったとする。単にそれが4年ごとに繰り返される・・というのであれば、それは誰が利益を得る側になるか、自分がそうなるにはどうすればいいのか・・という椅子取り合戦をしているのでしかない・・という風にも言えるかもしれないわけで・・。4年ごとに繰り返しているのが、単に椅子取り合戦で、椅子を順番にまわしているだけだ・・っていうことなのだったら、なんだか、さびしくなってしまうではないか・・。
こんな風に書くと、人間社会っていうのはそういうもんなんだよ、しょせんは資本主義社会っていうのは椅子取り合戦でしかないんだから、いまさら、そんなことをさびしいなんて言っててどうするんだよ・・という風にクールな人(?)には言われちゃうかもしれないんだけれども・・。
それでも僕は、どうしても、単に椅子取り合戦になってしまうのではなくて、利害が一致しない者同士が話し合って、コミュニケーションを取りながら社会を築いて行く道は本当にないんだろうか?とつい考えてしまわないではいられないのである。
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2009/8/29

最高裁国民審査を審査する(マル激トーク・オン・ディマンド )  時事問題

*いよいよ明日が投票日。今回の選挙、昨年から、どれだけ、待たされたか・・。天気、悪いようですが、だからこそ、遠出を控えて投票所に行きましょう・・。
 ところで、最高裁国民審査についていろいろ検索していたら、下記の記事に当たり、その内容にちょっとびっくりしてしまいました。下記の記事を読むと、国民審査も問題ですが、それ以前に最高裁の仕組みそのものが大問題なのでは。。
これこそ民主党が改善に取り組んでほしいものです。


最高裁国民審査を審査する
http://www.videonews.com/on-demand/431440/001205.php

 総選挙前の恒例企画となった最高裁判所裁判官の国民審査特集。前回の国民審査以降の主要な最高裁判決を取り上げ、どの裁判官がどのような判断を下し、どのような意見を述べたかを、詳しく検証する。
 最高裁判所裁判官の国民審査は不信任の総数が投票総数の過半を超えた時に罷免となるが、それ以外は実質的な効力は何も持たない。いろいろな意味で、明らかに形骸化した制度であることは否めない。
 しかし、マル激で繰り返し見てきたように、最高裁の決定がさまざまな形で現在の日本の社会の在り方を規定していることは間違いない。首をかしげたくなる判決を下したり、おかしな意見を述べたり、あるいは批判を恐れずに勇気ある決定を下した裁判官に対しては、われわれはしっかりと意志表示をする必要がある。
 今回の国民審査の対象となる最高裁判所裁判官9名を、本邦メディアでは初めて(?)顔写真付きで一人ひとりのプロフィールを紹介するとともに、2005年の国民審査以降の主要事件として、一票の格差訴訟や和歌山カレー事件、情報公開訴訟、痴漢冤罪事件、催涙スプレー携帯事件における各裁判官の判断と意見を採り上げ、その内容を検証した。
 と、そこまではやるべきことをやってみたのだが、検証の過程で、あり得ないほど国民審査の制度が欠陥に満ちていることが明らかになった。そのような重大な問題が、これまで明らかにならなかったこと自体が、もしかすると国民審査を誰も真剣に受け止めてこなかった証左なのかもしれない。そう思えるほど、決定的な欠陥があるのだ。
 最高裁裁判官の国民審査は、まず裁判官任官後の最初の総選挙で審査にかけられ、その後10年間は審査がない。2度目の審査を受けるのは、最初の審査から最低でも10年以上経過した後になるが、ほぼ例外なく最高裁の裁判官には60歳以上の人が就任している。そして、最高裁裁判官は70歳が定年であるため、ほとんどの最高裁裁判官は、任官直後の総選挙時に一度だけ審査を受け、それ以降は審査を気にせずに悠々と裁判官を務めることになる。
 さて、問題は、その唯一の国民審査では多くの裁判官が任官からそれほど日が経っていないため、審査の判断材料となる主要な裁判にほとんど関わっていない場合が多いことだ。今回も過去4年間で主要な裁判に関わった裁判官の大半は、今回の国民審査の対象になっていない。仮に最高裁の決定に不服があっても、国民審査を通じて特定の裁判官に対してその意志表示をすることが、事実上不可能になっているのが、この制度の実情なのだ。
 また、最高裁は仕組みそのものに、大きな問題を抱えている。これまで数多くの裁判を傍聴し、最高裁をウォッチしてきた司法ライターの長嶺超輝氏によると、最高裁への上告申立て件数は年間数千件〜1万件近くにも及ぶという。わずか3つの小法廷に15名のみの裁判官(1名の長官と14名の判事)では、個々の案件を十分に審理することは、そもそも不可能なのだ。驚いたことに、最高裁がそれらを処理するスピードは、年間1万件とすると、1日あたり40件という計算になる。それを3つの小法廷で分担することを考慮に入れても、1つの小法廷で1日に13〜14件、1件あたり30〜40分に過ぎない。
 30分そこそこで地裁、高裁での審理を全て再検証し、最高裁として独自の判断を下すことなど、あり得るはずがない。そこで、実際には裁判官の補佐役として任命される調査官が、予め膨大な裁判記録を読み、裁判官に争点を説明した上で過去の判例を提示し、選択肢を示すことになる。それが裁判官の判断に決定的な影響を与えるであろうことは、想像に難くない。そもそも最高裁の裁判官は、調査官からあがってきた情報をじっくりと精査する時間すら無いはずだ。
 つまり、早い話が、最高裁の実質的な意思決定は、政治任命を受けた最高裁裁判官ではなく、司法官僚制度の中で人選された調査官によって機械的に下されている可能性が否定できないのだ。これでは、せっかく最高裁という権威のある裁判所を設置して、三権の長の一人として首相待遇の長官と大臣待遇の判事を並べてみても、下級審や過去の判例から外れた大胆な決定など下るはずがない。日本の司法判断が陳腐化し、時代の潮流からずれていると感じる人が多いのも、やむを得ないことなのかもしれない。アメリカなどに比べて日本では最高裁の顔が見えないと言われる所以も、そのあたりにあるのだろうか。 もはや有名無実化した最高裁を改革する術はあるのか。長嶺氏は、次の総選挙で民主党が勝った場合、慣例化した裁判官の人事システムに政治が介入することが突破口になる可能性があるという。
 最高裁判所の裁判官は、憲法上、内閣が任命することとなっているが、実際は最高裁事務総局という密室の中で司法官僚によって決められている。自民党政権下では、内閣は事務総局があげてくるリストを追認するだけだったが、政権交代を果たした民主党には、原理原則に立ち返り、内閣が独自の判断で裁判官を任命することで国民の関心を集めてほしいと、長嶺氏は注文をつける。まずは物議を醸すことで、世論を喚起し、マスメディアがそれを報じることから始めないと変わらないというのだ。それは、国民やメディアの関心の薄さが、最高裁の有名無実化や国民審査の陳腐化を招いてきたからだ。
 さらに、法律自体の違憲審査を行う「憲法裁判所」の創設や、十分な審理を行うために裁判官の人数を増員するなど、司法改革として手をつけるべきことはたくさんある。もしかすると裁判員制度などを導入する前に、日本の司法権力の頂点にある最高裁判所のこのような深刻な問題を改革することの方が、遙かに優先順位の高い問題だったのかもしれない。
 限られた事件の中で、最高裁裁判官の判決内容を検証するとともに、国民審査の欠陥と、そこから見えてくる最高裁や司法全体の問題について、長嶺氏とともに考えた。
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2009/8/28

『それでも恋するバルセロナ』  映画

ウディ・アレンの映画を見ると、ほんとーにこの人は恋愛が好きなんだなぁ・・と思ってしまう。
ウディ・アレンの映画の男というのは、せっかく幸せになる機会を得たのにもかかわらずわざわざ面倒なことになる方向を選択していっているとしか思えないところがあるからである。これは、どう考えても、そういう面倒なことになること自体が、つまり、恋愛でもつれてぐちゃぐちゃになること自体が好きで、そうしようとしているとしか思えない(笑)。
この映画で言うと、ひょんなことからすぐ口説けそうなスカーレット・ヨハンセンではなく生真面目そうなレベッカ・ホールのほうと出来ちゃったら、僕だったら「おお、意外な展開に。これはこれでもうけもの。やりぃ。」とか思ってレベッカ・ホールのほうにずんずん行きそうだけど、なぜか、この主人公のハビエル・バルデムはスカーレット・ヨハンセンのほうに行くのである。で、スカーレット・ヨハンセンとうまく行ってて安定された幸せを得たと思ったら、そこにペネロペ・クルスを連れ帰ったりするのだ。そりゃ、面倒なことになるに決まっている。なんでわざわざ安定された幸せになる機会を壊し、面倒なことになるような方向を選択するのか? そもそも、ペネロペ・クルスとの関係に懲りていたのなら、恋愛とかは面倒なので関わらないようにしようとかいうことになりそうなのに、女をナンパする、それも2人の女を一緒にナンパするなんて、最初からどう考えても面倒な状況をさらに面倒にさせたくてやっているとしか、思えない(笑)。
結局、なぜウディ・アレンの映画の男がこうなってしまうのか?と言うと、面倒なことになること、恋愛がもつれてぐちゃぐちゃになること自体が好きでそうなりたくてしているとしか、思えないのだ。
「成就しない恋愛こそがロマンチックだ」とハビエル・バルデムが言うのは、気取っているのではなくて、ほんとーに心の底からそう思っているのに違いない。つまり、すぐに成就してしまったら、ときめいたりドキドキしたりすることがなくなってしまうから、ウディ・アレンの映画の男としては面白くない(ロマンチックでない)のである。面倒な状況こそ、ドキドキしたりときめいたり出来るわけだから、そういう瞬間がウディ・アレンの映画の男は好きでたまらない、ほんとーに純粋に「恋愛すること」そのものが好きでたまらないわけだから。
『アニー・ホール』の冒頭で「僕は自分を会員にするようなクラブには入りたくない」と主人公の男が言うが、結局、ここにすべてが集約されていると思う。つまり、「自分を好きになるような女を好きになりたくない」ということだ。それではすぐに恋愛が成就されてしまうので。だから、わざわざ自分を好きになりそうにないような女を好きになろうとするのだ。
アレンの映画では執拗に片思いしている男とか、もつれた恋愛が描かれるが、片思いであっても(いや、片思いだからこそ?)、アレンの映画の男は生き生きしているのだから呆れてしまう。それはもう、ほんとーに自分がそういう状況に置かれることが・・、恋愛のもつれでぐちゃぐちゃになることが心底、好きだからなんだと思う。
たとえば『ハンナとその姉妹』のような作品が成立するのもアレンの映画の男の行動原理がそのようなものであるからで、普通はそもそもわざわざ自分の妻の妹を口説いたりして面倒なことになるようなことは最初からさけるものだと思う。
だから、ほんとーにあんたは恋愛が好きなんだねぇ・・と僕は呆れつつ、自分みたいな恋愛ベタの人間はこういう人の爪の垢でも煎じて飲まなきゃいけないのかな・・と思ったりするのだ。
アレンの映画は、映画のつくりとしてはかなりカチッと決めて撮って行くものではないかと思うが、にもかかわらず堅苦しくなることを逃れて軽やかさを獲得し得ているのは、このように主人公の男の行動の動機が、根っから恋愛が好きで、面倒なことに巻き込まれたいので、好きだからわざわざそうするのだ・・・・という、根がいい加減なものだからなのではないだろうか? ドラマを成立させるには登場人物の行動を動機づけることが必要であると思うが、あまりに動機づけにがんじがらめになってしまうと窮屈なドラマになってしまうと思うのだが、恋愛をすること、面倒な状況になることが好きだからそうしているのだ・・という風に動機づけしてしまえば、窮屈にならずに成立させられるわけである。
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2009/8/26

高速道路無料化には賛成できません  公害・薬害・環境・医療問題

民主党が掲げている高速道路無料化案は、自動車の総量を増やすことが予測されるもので、環境政策の観点からは逆行したもののように思え、賛成できません。
細かい論点については、以下の気候ネットワークによる反論がまとまっていて、説得力を感じるものです。ここにリンクしておきます。

http://www.kikonet.org/iken/kokunai/2009-08-21.html
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2009/8/26

『キャデラック・レコード』  映画

これ、どういう内容の映画か、事前によく知らず、ビヨンセの歌が聴ける音楽を題材にした映画らしい・・ぐらいの感じで見だしたので、冒頭数分で、マディ・ウォーターズの伝記映画ということに気がついて、おお、これは拾い物かも・・、事前情報もなく映画をふと見ると思わぬ出会いがあるなあとちょっと小躍りする気持ちがしたんだけど・・。
しかしねぇ・・、基本的には凄くいい映画だと思うんだけど・・、途中からなんか、ちょっと違うような気が・・。
端的に言うと、こういう黒人音楽ものって、黒人がブルースとかのルーツでいい歌をどんどん作ったのだがやがて白人がパクって歌うようになっていって・・みたいな話になっていくことが多いのだが、まあ、実際、それが事実だったんだろうし、間違いはないんだろうけど、なんか、それって物事を図式化して、単純化してとらえているものじゃないだろうか?という疑問があって・・。
まあ、伝記映画とは言え、基本的にはこの映画はフィクションであるわけだから、単純化して描くことは間違いではないのかもしれないけど・・。
そもそもねぇ、「盗作」と「リスペクト」ってどう違うんだろうか? これ、よく分からないんだよなぁ、音楽でも映画でも。ビージースは「盗作」したんだけど、ローリングストーンズはマディ・ウォーターズを「盗作」ではなく「リスペクト」したんだ・・とか、言われると、その違いって何よ?と思うんだよね。それじゃ、RCサクセションはそのローリングストーンズを「盗作」したのか、「リスペクト」したのか!?
結局、気持ちの問題だと言われるとそうなのかもしれないけど、その「気持ち」の違いって何よ?
片方は商売のために真似たのだが、もう片方は単に商売ではなく「気持ち」をこめて「リスペクト」したんだと言うのなら・・その違いは一体、どこにあるのか? だって結局は、皆、商売ではあるわけで・・(本当に一生、路上で歌い続けたとか、インディーズや自主製作の映画のみに徹したとかいうなら話は別かもしれないが・・)。
映画だって、たとえばトリュフォーはヒッチコックを「盗作」したのか、「リスペクト」したのか? その違いはどこにあるのか? トリュフォーはヒッチコックにインタビューする本まで出してヒッチコックにも印税が入ったんだろうから、「盗作」ではなく「リスペクト」ということになるわけなのだろうか?
じゃあ、自分だけでなくルーツの人ももうけさせてあげればいいわけなのか? マディ・ウォーターズやヒッチコックももうかるようにしたのなら「リスペクト」ということか!? しかし、それじゃ、結局、商売なのでは・・。
そもそも音楽でも映画でも、あるいは「物語」というもの自体が、本当に全くのオリジナルのものっていうのがあり得るのか? 過去の、なんらかのものに影響を受けたり真似たりしているのではないのか?
黒人のブルースだって、それがロックの原点とか言うけれども、さらに遡ればもっと原点と言えるものがあるんじゃないのか?
・・まあ、もしかしたら、この映画は別にそこのところを問題にして見なくても良かったのかもしれないが・・、そんなことを見ながら考え出してしまったら、結局、映画の感想がまとまらなくなってしまいました・・。
 
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2009/8/26

『ディア・ドクター』  映画

個人的には、『蛇イチゴ』『ゆれる』、そしてこの『ディア・ドクター』の西川美和監督の3本の長編映画の中ではこれが一番好き。理由は、僕が八千草薫ファンだということに尽きる気がするが(笑)。
ラストも救いがある終わり方だったし・・。まあ、考えてみると、「救い」だけではないラストかもしれないが、それでもこれまでの3本の中では一番救いがある終わり方と言えるのではないか・・。
逆に、西川美和監督ならではのシビアさ、厳しさは薄れている・・という見方は出来るかもしれないけれども、まあ、でも、その西川監督のシビアな、人間の裏側を見るような人間観察・・そこを凄いと思いつつ、好きになりきれないところも僕的にはあったわけで・・。(基本的にはやっぱり僕は甘チャンの人間ですからねぇ・・。)
西川監督がそういう僕のような甘チャンの観客にまで届くように作品をつくってくれたことに感謝しないといけないのかな・・。
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2009/8/25

『アマルフィ〜女神の報酬』  映画

ううむ、これだからやっぱり映画は見てみなきゃ、分からない・・。
予想外に(?)、この作品は佳作である。
他の作品は見て無いけど、この西谷弘という監督は、普通に面白いプログラムピクチュアの映画を撮れる監督だと思う。
フジテレビ製作のイタリアロケ作品ということでイメージするような大味な大作ではなく、むしろ、多くの観客が見落としてしまうような細かいディテールを丹念にコツコツと演出した作品だ。特に戸田恵梨香が出てくるシーン、黒手袋の演出を初め、戸田恵梨香をひたすら第三者として介入させつつ生き生きととらえている演出ぶりには思わず涙が出てくるぐらい。天海祐希にしても、たとえば髪の乱れぐあいとか、そういうところまで演出しているように思える。この手のテレビ資本の作品を手がけながら、多くの観客が見落とすようなこういう細部をきちんと演出せずにはいられないこの監督に妙に感心してしまう。だって、単に受ければいいのなら、もっとあざとく分かりやすい演出に走るでしょ、普通。この監督は広く分からないかもしれない(多くの観客が見落とすかもしれない)ところを、きちんとせずにはいられない性分の人としか思えない。
たしかに、話の辻褄は合っていないように思うが、これは視角的に面白く見せるために、あえてそうしているのだと思う。映画なのだから、ミステリーとして辻褄を合わせることより視覚的に面白く見せることを重視するのは当然だ。もちろん、小説だったらこのストーリー展開ではまずいだろうが、そこが映画と小説の違いなのだ。真保裕一が脚本のクレジットを外し、別にストーリーをつくって小説として発表している(読んで無いが、おそらくこっちのほうが辻褄は合ったものになっているのだろう)のは、小説と映画とのそうした根本的な違いを考慮した上でのものなのではないか?
そうだとすると、シナリオ作家協会の抗議の方が見当違いという気がしてくるかも・・。
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2009/8/22

浜岡原発、地震で放射能漏れしていた・・  原爆・原発問題

*浜岡原発5号機、先日の11日の地震で放射能漏れしていた・・。
 やっぱり危ない浜岡原発。浜岡原発はすべて運転停止し、廃棄にするしかないのではないか?

(ニュース)
浜岡原発5号機 排気筒から微量の放射性ヨウ素検出
2009年8月20日19時59分
 中部電力は20日、駿河湾を震源とする地震で被災して停止中の浜岡原子力発電所5号機(静岡県御前崎市)で、排気筒の排ガスから、検出限界値を超える微量の放射性物質ヨウ素131を検出した、と発表した。同社は放出量を約30万ベクレルと評価、年間換算でも管理目標値の2万分の1にすぎないことから、人体や環境への影響はないとしている。

 同社は排ガス中の放射性物質を測定するため排気筒にフィルターをとりつけ、週1回取りかえて分析している。地震直後の12日に取りかえた時には検出されなかった。地震との関連を含め、原因を調査している。(朝日)
http://www.asahi.com/national/update/0820/TKY200908200246.html

浜岡原発、排出ガスから微量の放射性物質
2009年8月20日(木)18:55
 中部電力は20日、静岡・駿河湾を震源とする11日の地震で自動停止した浜岡原子力発電所(静岡県御前崎市)5号機で、建屋内の空気を排出する排気筒から、微量の放射性物質「ヨウ素131」が検出されたと発表した。
 人体への影響はないという。
 19日に排気筒のフィルターを交換する際の点検で検出した。地震との関連を含め原因を調べている。
 中電によると、検出された放射性物質の濃度は、放射能分析器で検出できる下限をわずかに上回る程度で、仮に1年間、人体に浴び続けても、原子炉等規制法で定める限度の約300万分の1という。(読売)
http://news.goo.ne.jp/article/yomiuri/nation/20090820-567-OYT1T00622.html

<浜岡原発>5号機排ガスに微量の放射性物質
 中部電力は20日、静岡県御前崎市の浜岡原発5号機の排気筒から、ごく微量の放射性物質を含む排ガスが放出されたと発表した。推計される放出量は国の保安規定値の約2万分の1で人体への影響はないという。同市は11日早朝に起きた駿河湾を震源とする地震で震度6弱を観測。同原発4、5号機が緊急停止しており、関連を調べている。
 中電によると、5号機の排気筒に設置した捕集フィルターを19日に調べたところ、1立方センチメートル当たり約10億分の3ベクレルのヨウ素131を検出した。通常の運転時には、検出限界値(同10億分の1ベクレル)以下という。このフィルターは12日に取り換えたもので、1週間ごとに異常がないかを分析している。地震により5号機は機器などが故障し、運転再開のめどは立っていない。【舟津進】
(毎日新聞 - 08月20日)
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2009/8/21

押尾学、酒井法子が出演している映画をオクラにするのには反対  映画

*酒井法子が出演している裁判員制度広報映画『審理』が公開中止になっていることに続いて、押尾学が出演している映画が湯布院映画祭出品中止になり、公開が危ぶまれている。

(ニュース)
押尾容疑者出演映画が湯布院映画祭出品中止…「誘拐ラプソディー」
2009年08月18日08時15分 / 提供:スポーツ報知
 合成麻薬MDMAを使用したとして麻薬取締法違反の疑いで逮捕された俳優の押尾学容疑者(31)が出演した映画「誘拐ラプソディー」が湯布院映画祭(26日から大分県由布市で)の出品を取りやめたことが17日までに分かった。押尾容疑者の役はインテリヤクザ。撮影は2日間だったが、ストーリー上、欠かせない役柄でカットすることもできないという。
 俳優でもある榊英雄監督は菊地凛子主演のスペイン映画「マップ・オブ・ザ・サウンズ・オブ・トーキョー」(原題)で、押尾容疑者と共演し意気投合。「この役で勝負してよ」と出演をオファーした。関係者向けの初試写は逮捕翌日の4日だった。
 榊監督は「びっくりしています。僕の知っている彼はナイスガイだった。映画には罪はないので、なんとか公開する道を探したい」と話している。12月公開を予定しているが、映画会社は「協議中」としている。
 もう1本の出演作「だから俺達は、朝を待っていた」(内田英治監督、10年2月公開予定)も、今後について結論は出ていない。

*僕は『審理』も『誘拐ラプソディー』もどちらも基本的には公開中止には反対であるが、『審理』のほうは裁判員制度の広報映画という性格のものであり仕方がない面もあるのかなと思うところもまったくないではないのだが、『誘拐ラプソディー』や『だから俺達は、朝を待っていた』がもしこの件のために公開中止になるのであれば、それは他のスタッフ、キャストの労力を考えても、理不尽な話だと思う。
もしこうしたことが当然のように行なわれてしまうのであれば、過去に同様な問題を起こした役者が出ている映画も公開できなくなることも起こりかねず、そうするとたとえば勝新太郎が出ている映画などは見れないことになってしまうではないか。それは映画ファンにとって大きな損失である。
麻薬をやっていた役者が出ているからといってすぐに映画を公開中止、オクラにしてしまうことにはやはり反対である。

なお、以下の切通理作さんのブログでは、映画『審理』再公開及び作品保存を求める署名を集めているようです。

http://d.hatena.ne.jp/PaPeRo/20090818
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2009/8/10

酒井法子の失踪騒動について  テレビ・ラジオ

なんていうか、ひとりの芸能人が麻薬をやっていたという、ありがちな話としか思えないネタを、まるで世紀の大事件かのように報道する感覚のほうに、むしろ、メディアって凄いなあと思ってしまう。
ネタ自体よりも、子供を連れて失踪、もしかしたら心中?から、子供は発見(というか、最初から知人に預けていただけだったようだが)、ところが当人に逮捕状が・・というぐあいに、二転三転するストーリーが、ありがちなネタをまるで前例がない大事件かのようにショーアップさせてしまったとも言えるが。
しかし、これ、偶然が重なってこうなったというより、やっぱりどこかで誰かが考えたストーリーに沿って展開していただけなのではないか・・。結局、酒井法子が単独でほんとに逃避行してたわけじゃなくて、誰かに匿われながらコソコソしてたってだけなんでしょう。警察も居所を知っていながらすぐにつかまえないで様子見してたとしか、思えないし。(なんでだ?夫をつかまえた時に一緒に署に連れていけばよかったのだが、そこで取り逃がした失態をまずいと思ってうやむやにしようという意図があったのか?)もしかしたら、警察と所属事務所とマスコミの間で裏で打ち合わせしてて、それで落とし所を決めて、ストーリーをつくって展開してたんじゃないだろうか?なんて邪推まで浮かんでしまう。
これがほんとに酒井法子がひとりで車を運転して全国を逃避行してて、追って来た警察の車とカーチェイスでも繰り広げてくれたとかいうことなら、なんだかんだ言っても、ああ、なんて安っぽいストーリーだとか思いながらも、映画ファンなら興奮せずにはいられなかったと思うんだけど。
酒井法子当人が、テレビを見て驚いたとか警察に供述しているそうだけど、たしかに、実際にはこの人は誰かに匿われて影でコソコソしてただけなのに、自分が主演の二転三転するストーリーがどんどん進行してるんだからそりゃ、驚くよな。
しかし、まあ、こうしたメディア報道の過剰ぶりを批判するより、こういうありがちなネタをまるで前例がない出来事のように仕上げてしまう手法をみならうべきなのだろうか?(つくりて的に言うなら。)
それとも、自分なんかは、そういうテレビ的なストーリーをやろうとしても向いてないだろうから、そういうのを参考にしてみならっても仕方がないのであって、もっと別のやり方を考えたほうがいいのだろうか?
それにしても、このストーリーが一般の人々(視聴者、観客)を引き付けているのは、やはりあんな清純そうな酒井法子が実は・・という部分なのだろうか? なんで人はそういう他人の仮面の裏側みたいなものを見たがるのか? そもそも、「人は見かけだけでは分からない。人を見かけだけで判断してはいけない。」というのがテーマであるのならば、今回のように、見かけは清純そうなスターだが実は麻薬をやっていた・・という風に、善人そうな人が実は悪人だったと展開していくストーリーではなくて、見かけは麻薬をいかにもやってそうだが実は麻薬はおろか、酒もたばこもやらない人だった・・という風に悪人そうな人が実は善人だったと展開していくほうが、テーマである「人は見かけだけで判断してはいけないんだ。」ということが浮かび上がるのではないだろうか?と思うのだが、後者のように、悪人そうな人が実は善人だったというストーリーのものはあまり聞いたことがない気がする。なぜ、善人そうな人が実は悪人だったというストーリーのものは成立し、多くの視聴者、観客が見るようなのに、悪人そうな人が実は善人だったというストーリーのものは成立しにくいようなのか?
もしかしたら、悪人そうな人が実は善人だったというストーリーでは、視聴者からすると、最初、「お、こいつ、すごいワルだな」と思った視聴者自身の見方が間違いだった、視聴者自身が人を見かけだけで判断していたのが間違いだったということになってしまうので、まるで視聴者自身が批判されているように思えてしまい、視聴者の側が不快な気持ちになってしまうのであまり好まれないということなのだろうか?
それに対し、善人そうな人が実は悪人だったという展開だと、視聴者は裏切られたという気になるわけだけど、それは裏切ったほうが悪いということになるので、つまり、「この人は麻薬なんて絶対やらないような人に違いない」と思った視聴者自身は間違っていたわけではないのだということになるので、視聴者は自分自身は正しいという位置にいながら、意外な展開を見ることが出来る。だから、そっちのほうが受けるのだろうか? そうすると、一番、ひどいのは実は視聴者、観客の側(もちろん自分もそのひとりだが)なのかしら?
しかし、今回、酒井法子が何年か前にクラブでDJをやってたという映像が流れてて、それでやっぱりワルだった・・とかいう解説をつけてる報道にはさすがにこれはないのでは・・と思ったんだけど。単にDJをやってたというだけじゃん(笑)。これこそ、「人を見かけだけで判断している」ことの典型のようなものであるわけで、結局、「人は見かけだけで判断してはいけない」というテーマには至らなくて、むしろ、「人を見かけで判断する」ことをより強めよう・・という結論に至っているのだと見ることも出来る。

PS
ところで、これはたまたまの偶然であるが、今回の騒動の最中に、アメリカの映画監督、脚本家のジョン・ヒューズが亡くなったことにはちょっと感慨深いものがあるかも。ジョン・ヒューズが青春もののヒット作を連打して特に活躍してた80年代後半から90年代初めというのは、酒井法子がアイドル歌手として活躍してた時期と重なるところがあるので。ジョン・ヒューズものが酒井と関連深い野島伸司ドラマに多少は影響を与えているとも思うしね。
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2009/8/9

『クライマーズ・ハイ』  映画

昨夜、テレビでやってた。
どっちかと言うと苦手なほうの原田眞人監督作であるが、これはちょっと面白かった。
でも、基本的には、すぐ男達が血走って喧嘩ばかりしているようなこういう世界にはついていけないところはあるんだけど、ここまでいけばある種、荒唐無稽とも思えるので、実際の事件をネタにしていながら、日航機の現場とかはほとんど見せずに、新聞社内の室内の口論を主軸にしてそういう域に持って行く力量はたしかに認めるしかないのかな。
この監督は作品の出来、不出来にムラがあると言われているけど、組織ものというのか、会社とか警察とか職場内での男達の口論みたいな世界を描かせたら力がある作品を撮る監督のようだ。
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2009/8/7


人類が核兵器を手放すことが出来ないのは、実は政治的な国と国との駆け引きの問題ではないのではないか?
オバマ大統領が言うことを歓迎しようとか、いや、オバマはあくまでアメリカの「核の傘」というのを前提にして言っているのだからあんな言説をまともに受け取ってはいけないのではないか?といったことが議論されていて、それはそれで意味がある議論なのかもしれないが、でも、本当に本質的な問題は、そういうことじゃないのではないか?
それはもっともっとひとりひとりの心の内にあることの問題なのではないか? おそらくは。
つまり、ひとりひとりの心の中にある「恐怖心」に、ひとりひとりの人間がうちかつことが本当に出来るのか?という問題なのではないか?
結局、自分が手放して、自分以外の誰かが持っているのだとすると、自分の頭の上に落ちてくるかもしれない。それが恐い。そういう恐怖心があるから手放すことが出来ないのではないか?
日本だって、たとえば日米安保を完全に破棄して、米軍が完全に日本国内から撤退し、その上でなおかつ核兵器は保有しない・・という道を多くの人々が選択することが本当に出来るのだろうか? それが出来ないのであれば、どんなにかっこいいことを言ってても、結局、アメリカの「核の傘」の下で言っているわけでしかないのではないか?
こうしたことは核兵器についてだけではなく、すべてのことに言えるのかもしれないが。たとえば、誰かがナイフを持って自分に襲いかかって来たとする。その時、自分の近くにナイフがあったとする。そしたら、自分はそのナイフを手にとって、相手にやられる前に相手を刺そうとするのではないだろうか? その時に、たとえ正当防衛だったとしても、結果として殺人者になってしまうのはイヤだから、相手を刺すわけにはいかない。自分が刺されて死んでしまうかもしれないけど、それも黙って受け入れよう・・という道を果たして僕は受け入れることが出来るのだろうか? そういう自信は僕にはない。
結局、自分が殺されてしまうかもしれない、死んでしまうかもしれない・・という「恐怖心」にうちかつことが出来る・・という自信が僕にはない。
そうした、確実に自分の心の中にある、何がなんでも自分だけは死にたくない・・という、ことによると自己防衛のために他人を死に至らしめる結果を招くことになるかもしれない、「恐怖心」を自覚するのであれば、核兵器を人類が手放すことが出来ないのは、自分は善良な人間で核兵器を廃絶したいと心から願っているのであるが、世の中にはもっと邪悪な心を持った人たちがいるから核兵器廃絶が実現しないのだ・・なんてことではないのであって、自分の心の内にあることの問題、自分の心の内と地続きの問題であると認識するしかないのではないだろうか?
自分は善良な人間だが、誰かが邪悪な心を持っているから・・ということではないのではないか? 人間はそんな風に善人と悪人とにきれいに分けられるものではそもそもないのではないか? 邪悪な面は確実に自分の心の内にもあるのではないだろうか?
こうしたことを考えて行くと、逆に言うと、どんなに善人そうに見える、ああ、なんて素晴らしい人なんだろう・・と思うような人であったとしても、もしかしたら邪悪な面も持っているかもしれない・・とも思えてくるわけだから、そんな風に全人類の、ひとりひとりの人間の心の中にそうした「恐怖心」が確実にあるのだとすると、その上で、そうしたひとりひとりの「恐怖心」を乗り越えて核兵器廃絶を実現させることが本当に出来るのだろうか? そんなこと、とても心の底から、自信を持って思って言うことが出来ない・・というのが正直な気持ちである。
だから、核兵器廃絶は可能なんだ・・と心の底から思うことなど、現在の僕には出来ない。
しかし、まずはそうしたことを自己認識すること。そういう風に、核兵器廃絶は可能であると心底、思うことが出来ないでいる自分というものを自覚し、そうなんだ、この問題の本質はこういう自分の心の内にあることなんだと認識し、そのことを正直に表明する(ここにこうして書く)こと。この問題について、他人となんらかのコミュニケーションをとろうとするのであれば、そこからしか、何も始まりようがない・・ということは言えるのではないだろうか?
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2009/8/2

益田ミリ『結婚しなくていいですか。』  マンガ

傑作。
淡々としていながら(淡々としているように表面的には見えながら)、これ程、巧みに伏線や、登場人物達の偶然の出会いなどを張り巡らせた物語作品はちょっと珍しいのではないか? このマンガ作品で描かれる「偶然の出会い」は、トレンディドラマとかで「偶然の出会い」によって展開していくような「偶然の出会い」とは違う「偶然の出会い」であるのではないかと思われるが、淡々としていると書いたが、淡々とした日常描写に徹した作品のように一見、見えるからこそ、それが巧みな伏線であったことにその瞬間には気がつかなくて、読み進む内に、あっとたびたび思わされることになるわけだけど。この絶妙さ。マンガだからこそ達成できたものなのかもしれないが(たとえばモノローグの手法などはマンガでないとちょっと出来ない)、そうしたマンガの表現手法としてのユニークさ(絵は決して上手くはないが、逆にそれがヘタウマ的な味わいになっている)、物語の語り口の巧みさという点で斬新な作品だと思うのだけど、このマンガでさらに長所であると思われることは、そうした手法や語り口ばかりが突出しているわけでもなく、そうした斬新な語り口が確実にある種のテーマ的な達成に至っていると思えることだろう。
たとえば、伏線の張り巡らせ方とかの語り口の巧みさということならば、映画で言えばリチャード・リンクレイターのような巧みさをちょっと思わせるものなのかもしれないが、この『結婚しなくていいですか。』は、リンクレイターの『恋人たちの距離』のような「恋愛もの」ではなく、むしろ、「恋愛もの」の対極にあるような、「反(アンチ)恋愛もの」と言える。いや、「反(アンチ)」というのとも違うのかもしれない。「反(アンチ)」というより「非」であり、「非恋愛もの」とでも言うべき作品なのかもしれない。
その意味では、リンクレイターよりもエリック・ロメールにまだ近いのかもしれないが、しかし、ロメールとも異なるものである。
何より、そうした「非恋愛」の日常の時間の素晴らしさ、豊かさを描き出したという点で優れている作品とも思える。つまり、この『結婚しなくていいですか。』というマンガ作品は、「恋愛」を抜きにしても女性の人生には豊かなディテール(瞬間)があるのだということを描き切った、真の意味で現代的な女性賛歌であるとも言えるのではないだろうか。
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2009/8/2

ヤスミン・アハマド  映画

*早すぎる死に残念と言うしかない。ご冥福をお祈りします。

*以下、第22回東京国際映画祭事務局のサイトより引用
http://2008.tiff-jp.net/report/daily.php?itemid=982

2009.07.27[更新/お知らせ]
ヤスミン・アハマド監督のご訃報に接し、心からお悔やみ申し上げます。
2009年7月25日、ヤスミン・アハマド監督が急逝されました。享年51歳。

TIFFでは、ヤスミン・アハマド監督のデビュー以来、全作品をジャパン・プレミア(第4作『ムクシン』はワールド・プレミア)で上映という、大変ゆかりのある監督の一人でした。

2005年、第18回東京国際映画祭・アジアの風部門で『細い目』(最優秀アジア映画賞受賞)を上映。
2006年、第19回東京国際映画祭・アジアの風部門にて「マレーシア新潮」を特集、
『細い目』『ラブン』『グブラ』『ムクシン』の4作品を上映。
2008年、第21回東京国際映画祭では、『ムアラフ-改心』(スペシャル・メンション受賞)を上映しました。

謹んで哀悼の意を表しますとともに心からお悔やみ申し上げます。
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2009/8/1

柘山一郎監督『憑依』再上映のお知らせ(終了)  映画

(終了しました。)

5月に下北沢の短編映画館「トリウッド」で上映した知人の映画『憑依』、再上映決定!

(日時)8月1日(土)、午後7時から
(会場)下北沢「トリウッド」
「トリウッド」のサイト
http://homepage1.nifty.com/tollywood/2009/yonbunnoichi/yonbunnoichi.html

(入場料)700円

以下が映画『憑依』のサイト
http://www.kirindojp.com/


「桃まつり」のブログでも長島良江監督が絶賛していました。一部で話題の作品です。
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