2012/5/28

カネミ救済法 この機を逃せば後がない(西日本新聞社説)  公害・薬害・環境・医療問題

カネミ救済法 この機を逃せば後がない(西日本新聞 社説)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/304507

「しかし、これほど深刻なダイオキシン類摂取の健康被害は世界に例がない。40年以上、国民の健康を守るべき国が医療費の支援すらせず、状況を放置してきたことこそ異常と言わざるを得ない。」


*その通り。
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2012/5/21

橋下さん、それはちょっと・・  原爆・原発問題

橋下さん、「ピーク時に限定して再稼働させる」だって。でも、それなら、ピーク時のために原発を温存させるのだから、何も変わらないのではないでしょうか。

http://www.nikkei.com/news/latest/article/g=96958A9C93819481E3EBE2E3858DE3EBE2E7E0E2E3E0E2E2E2E2E2E2

>橋下徹大阪市長は19日、大阪市内で開いた関西広域連合の会合で、関西電力大飯原子力発電所3、4号機(福井県おおい町)を夏の電力需要のピーク時に限定して再稼働させる案に言及した。橋下市長は再稼働を「容認したわけではない」と強調する一方で「ゼロか100かの議論ではなく、フル稼働に向けた動きを少しでも食い止めるためのぎりぎりの提案」とした。
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2012/5/20

必見番組  テレビ・ラジオ

テレビ朝日
「ザ・スクープ」
『米軍は沖縄で枯れ葉剤を使用した!?』
http://www.tv-asahi.co.jp/scoop/
 
放送日:5月20日
放送時間:14時〜15時30分

*これは必見。録画をセット。
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2012/5/16

福島県が18歳以下の医療費無料化  原爆・原発問題

*国で負担してくれないので、結局、県で負担して行なうことになったようだ。

(ニュース)
福島の18歳未満3万人が避難 流出抑制へ医療費無料化(河北新報社)
http://www.kahoku.co.jp/news/2012/05/20120515t61013.htm

「県外流出を食い止める施策の一環として県は14日、10月から18歳以下の医療費無料化を実施する方針を正式に発表した。
 県議会6月定例会に本年度分の事業費10数億円の補正予算案を提出する。
 対象は、県内に住所がある小学4年生から18歳以下の人で県外避難者も含む。実施主体は市町村で、県が東京電力の賠償金などを基に創設した県民健康管理基金から全額補助する。小学3年生までは県内の全59市町村で既に無料化が図られており、県の事業との組み合わせで18歳までが一律無料化となる。」

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2012/5/9

『僕達急行 A列車で行こう』  映画

森田芳光監督の遺作 をようやく鑑賞。面白かった。
これもロードムービーの一種なのだろうが、国土が広いアメリカなどとは違い、狭い日本はなかなかロードムービーを成立させることが難しい。とりわけ、携帯やメールで離れていてもすぐに連絡がとれてしまうこの時代、ロードムービーとか遠距離恋愛とかいっても・・と思ってしまうのだが、この作品は、ロードムービーとは言っても、あくまで「ロードムービーの一種」、すなわち「ロードムービーの・ようなもの」であり、鉄道マニアのサラリーマンものにすることで、日本社会のせせこましさそのものを題材にしており、せせこましさの中で鉄道を見ることにほっとする喜びを感じるという鉄道マニア達の話だからこそ、彼らの鉄道を見る旅は、やはり旅ではなく「旅の・ようなもの」なのである。
松山ケンイチ演じる主人公の登場人物の台詞にあるように、通勤でもなく、旅でもない、「旅の・ようなもの」。
たとえば普通だったら東京から福岡は飛行機で行くのに、この主人公は鉄道マニアだからこそ新幹線で行くという風に、便利になって移動時間が短縮されている時代に、わざわざ時間がかかるほうが選択されるのだ。(これが夜行バスで行くとかなら、少しでも費用を安くするためにという理由もあり得るわけだが、新幹線で行くのは費用的にもメリットはない。ただし、年輩の方の場合はジパンクが使えて安いとかいうことがあるようだが、若い松ケンには無関係だろう。)
福岡に転勤になった松山ケンイチと東京にいる貫地谷しほりの関係も、遠距離恋愛ということになるわけだが、しかし、ここで問題になっていることは「遠距離」であることではないようにも思える。事実、まるで冗談みたいな設定で(瑛太が仕掛けたことなのだけど)九州の無人駅で松山ケンイチと貫地谷しほりはふたりっきりで再会するのだが、これがこの映画のクライマックス、いや、「クライマックスの・ようなもの」なのだけど、ここにおいて「遠距離」は克服されているのだけれども、しかし、ふたりの間にあった恋愛のカセは実は「遠距離」ということではなかったことが明らかにもなる。「遠距離」ということではなく、主人公が鉄道マニアであることこそがカセであるのだ。だから、これもまた、遠距離恋愛の話のように見えて、そうではなく、「遠距離恋愛の・ようなもの」なのである。

さて、それでは、この松山ケンイチと貫地谷しほりの「遠距離恋愛の・ようなもの」の関係性は、「遠距離」という言葉さえ、取ってしまって、「恋愛の・ようなもの」でもある、すなわち逆に言うと、本当の恋愛とは言えないものだったとまで、言ってしまっていいのだろうか。この点が実はよく分からない。
森田芳光は、たしかに、恋愛というより、「恋愛の・ようなもの」を描くことが巧みな映画作家だと言えると思う。この映画でも、キャバレーとかが出てくるが、こういう風俗の世界での「恋愛の・ようなもの」の関係性や(『の・ようなもの』はこれを描いた佳作)、社長室で村川絵梨が松山ケンイチのことを「少し好き」という、恋愛とまでは言えない、「少し好き」な、「恋愛の・ようなもの」の関係性・・こうしたものこそ、実に生き生きとこの映画では描かれているわけだし、松山ケンイチと貫地谷しほりの関係性もやはり「恋愛の・ようなもの」と言ってしまっていいのかもしれないとも思える。
なんだけれども、そう言いながら、もうひとつ、断言することには躊躇してしまうのは、そもそも「恋愛」と「恋愛の・ようなもの」の違いがどこで分かれるものなのか、どこまでが「恋愛」には至っていない「恋愛の・ようなもの」で、どこからが「恋愛」だと言えるのか、そもそもそんな風に明快に区別することが出来るものなのか、当事者の本人だって実はよく分かっていないものなのではないか・・そんな気もするからである。
そもそも「恋愛」とは?
『(ハル)』は、「恋愛の・ようなもの」が「恋愛」として成立していくまでを描いた傑作だと思うけれども、それではどの時点で『(ハル)』の内野聖陽と深津絵里のふたりの間に「恋愛」が成立していたのか? それを見極めることは出来るのだろうか?
なので、森田芳光は「恋愛」というより「恋愛の・ようなもの」を描くことが巧みな映画作家であるということを確認しながらも、この映画の松山ケンイチと貫地谷しほりのふたりの関係性が「恋愛」なのか、「恋愛の・ようなもの」なのかについては判断保留にしておきたいと思うのだ。

そして、森田芳光の映画が、「映画」なのか、「映画の・ようなもの」なのかについても・・。
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2012/5/7

「偽装停電の夏」をくいとめよう(田中優)  原爆・原発問題

*偽装停電って・・。ネタみたいな話ではあるが、もはや、ネタとは言えないかもしれない・・。それぐらい、近ごろはリアルな現実とネタとの境い目が見分けがつかなくなっているような気がする・・。
 まあ、<緊急拡散希望!>とあったので、勝手に転載してしまいます。

(以下転載)

<緊急拡散希望!>
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 ◇■ 田中優より ■◇
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■「偽装停電の夏」をくいとめよう

 5月5日の今日、北海道電力の泊原発が停止し、42年ぶりに原発の稼働していない日を迎えた。

 うれしい日に申し訳ないのだが、この先の不安を伝えたい。

 ぼくとしては珍しく、拡散してほしい話だ。

 何かというと「偽装停電」の不安だ。市民が「原発なしでも電気は足りる」と言っている最中、停電させるのは「やっぱり原発が必要なんだ」というPRに使える。
 電力会社と政府は、去年も「計画停電」を偽装した。

 その前に「需給調整契約*」を使って大口契約者の電気を止めれば足りたのに、それをしなかった。しかもピークの出ない土日や平日の夜間、街路灯まで消した。

 これは偽装だろう。そこまでする人たちが、この「原発は不可欠」と訴えたいこのタイミングを逃すだろうか?

 もともと家庭の電気消費は少ない。2010年で年間わずか22%にすぎない。
 しかも足りなくなるのはピーク消費のある、ごく一時的だけだ。
 ピーク時の「夏場・平日・日中」は、家庭の三分の二は不在で、ピークの電気消費に対する家庭消費の割合は1割にすぎないのだ。
 だからそもそも家庭の問題ではない。節電すべきなのは事業者なのだ。

 しかし大阪市の橋下市長はすでに、「産業には影響を与えず、家庭に冷房の温度設定など負担をお願いすることになる。安全はそこそこでも快適な生活を望むのか、不便な生活を受け入れるか、二つに一つだ」と話し、大飯原発3、4号機を再稼働の問題を、人々のライフスタイルの問題にすり替えている。それは橋下が2月に経産省や民主党幹部と隠密裏に意見交換した後のことだ。
 とっくに橋下は心変わりをしている。

 偽装停電させれば、人々の「原発必要神話」は復活する。なんとステキなプランだろうか。電気消費の半分を占める上位200社は守られて、中小零細では停電して、コンピュータの重要なデータを失う。しかし原発で豊かになるのは200社の側なのだから、これは魅力的な作戦ではないか。

 ぼく自身、その問題があるので、無制限に「原発なしでも電気は足りる」とは言って来なかった。「こうすれば足りる」と、具体的な節電策やら料金設定やらを提案してきたのはそれが理由だ。日本の電力業界は信用に値しない。日本でなら偽装は可能だと思う。他の先進国よりはるかに情報が公開されておらず、昨年の「計画停電偽装」の実績もあるのだ。日本で隠しおおせる可能性は高い。

 ピーク時に電気が足りてしまう危険性は大きく四つある。

1.揚水発電の緊急電力
2.他の電力会社からの融通
3.電力需給調整契約
4.自家発電などの余剰電力 だ。

ぼくが電力会社だったらこうする。

 まず、揚水発電所が使えないようにするために発電所の稼働数を減らす。揚水発電は単なるバッテリーだから、前日までの電気があれば貯めておけば足りてしまう。ここに水を貯めておく余裕はなかった、夜間の深夜電気に余裕がなかったと言っておけばいい。すでに関電は使うことのできる緊急用の老朽化した火力発電所は一基だけだと発表済みだから、この点はカバーできている。

 次に、他の電力の融通を受けない仕組みにすることが大事だ。関西電力は、実は中電・北陸電力・中国電力と送電線がつながっていて、余剰電力を受け取りやすい位置にある。実際には、この融通電力は非常に高くつくことが問題だ。「受け取るより原発を動かしたい」のが再稼働を求める本音だ。だから他の電力会社もひっ迫していることにする。それはすでに各社発表済だ。

 三つ目に大口の大手会社に協力してもらい、停電しない根拠とされてしまう「電力需給調整契約」を結んでおく。東京電力はこれで計画停電を避けられたはずのに、それをせずに計画停電を実行した。ばれないならそのままでもいいかもしれない。でも万が一のことを考えて契約数を増やして、「大口の大会社も努力してくれているんです」と主張できるようにしておく。

 四つ目に大企業が持っている自家発電を頼れないものにする。これは電力会社以外の電気を買い取る実績になるからもともとしたくない。東京電力もしなかった。とすれば「系統が不安定になる(電圧が不安定になる)」とでも言っておけばいいかもしれない。もしくは邪魔になる自家発電を停止させるのがいいかもしれない。「自家発電電気のひっ迫」や「緊急時の発電機は不安定」と言っておけばいいかもしれない。

 そして偽装停電させる。中小零細企業は特にバックアップ電源を持っていないから、当然騒ぐだろう。
「どうしてくれるんだ、市民がバカみたいに原発なしでも電気は足りると騒いだ結果、我々の業務には大きな被害が出た(実際に大きな被害が発生するだろう)。やっぱり原発なしでは雇用も守れない、原発再稼働は生命線だ」と怒りだす。
しめしめ、これで原発は当分不滅のものになる。

 これが偽装停電のシナリオだ。橋下市長は上に見たようにすでに主張を変え、現実には関係のない「市民のライフスタイル論」に責任をなすりつけている。すでに大阪市を手伝っている市民活動家は梯子を外されている。彼らの面子に配慮したりはしないだろう。

 このことを多くの人たちに知らせてほしいのだ。もちろんテレビも新聞もあてにはできない。後になってから「検証」なんて言うだけだ。
 しかし今の私たち市民には、インターネットとSNSがある。彼らが偽装停電ができなくなるくらいに多くの人に知らせよう。ここは市民の伝達力と、原子力マフィアの伝達力の勝負になる。もちろん彼らの方が物量ともに圧倒的だ。しかし市民の小さな伝達が何度も繰り返し行われることで、彼らの偽装停電を止められることになるかもしれない。

 可能ならチュニジアのジャスミン革命のような伝達力を持って、彼らのもくろみを失敗させよう!


* 「需給調整契約」とは、大口企業の電気代を割安にする代わりに、電力需給がひっ迫した際に、電気利用の削減義務を負う契約。具体的には数時間前に連絡を受けて、工場を止めたり、冷房を切ったりする義務を負う代わり、電気料金を安くしてもらう契約。
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2012/5/2

『裏切りのサーカス』  映画

『ぼくのエリ』とストーリーは全く関連ない異なるものなのに、映像や演出のタッチは、やはり『ぼくのエリ』と同じ監督だなぁと思わせられるのが不思議だ。トーマス・アルフレッドソンは文体(「画体」と言うべきか?)を持った職人監督なのだろうか。
車の中で蜂が飛ぶとか、教室に鳥とか・・こういう奇妙な演出はなんなのかと思う。もともと映画は小説に比べると、人物の内面描写をする点で難があるジャンルだが、映像で見せるしかないという映画の表現の基本を熟知しながら、内面の表現というのとはちょっと異なる、奇妙な、映像の演出による、人物像の表現をしていると言えるのかもしれない。
全体のストーリーの中で、それがどれだけの意味合いを持つことなのかはよく分からないけれども、元スパイの小学校教師と生徒の少年との交流のエピソードを入れていることが、この映画に、豊かな感触をもたらしていることもたしかなようだ。ある特定の人達の世界を描いたミニアムなものになり過ぎることをさけるためにこうしたのかもしれない。『ぼくのエリ』も、完成度は高いが、ちょっと内向的な世界すぎる気はしたのだけれども、燃える炎の演出とか、内向的な世界をふっと突き抜けるような瞬間があった。

映画は内面描写を細かく出来ない。たとえば、『ニーチェの馬』のタルベーラは、このことを逆手にとったように、徹底的な、見せる描写だけで映画を成立させようとしていて、そのポップさが格好いいし、ゾクゾクするほど、『ニーチェの馬』は面白い映画だったけれども、それでも、ここまでポップで、内面描写に挑むことを最初から放棄してしまうのもどうなのかという気持ちも見ていて沸いてくるところもあった。
アルフレッドソンは、映画は見せる描写で成立させるものという映画表現の基本に乗っ取りながらも、独自の手法で、人物像(内面世界も含んだその人物の性格)を表現しようとしているようであり、興味をひく。
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