2018/1/28

オノ・ナツメ  マンガ

オノ・ナツメのマンガ『Have a Great Sunday』第1巻を読んだ。日常ほのぼの系で、オノ・ナツメにしては力が抜けすぎ!?と思いつつ、やっぱりオノ・ナツメでなければ味わえない独特のワールドを醸し出している。もしかしたら、力、抜けすぎではなく、絶品の域に達しているのかも?
絶品の域というのは、ごくごく日常的な、ほとんどどうでもいいようなことばかりを並べているのに、独特のワールドを達成してしまうというような…。
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2017/7/18

入江喜和『たそがれたかこ』  マンガ

入江喜和のマンガ『たそがれたかこ』。これまでマンガで描かれることがなかった主人公がそこにいた。

羽海野チカ『ハチミツとクローバー』は、成熟しなかった物語を完成形の物語として成立させることでこれまで描かれることがなかった「等身大」の作品世界を達成していたが、入江喜和の『たそがれたかこ』は45歳バツイチ女性を主人公にすることで究極の「等身大」の作品世界を成立させている。
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2016/11/18

こうの史代『この世界の片隅に』  マンガ

こうの史代は、『夕凪の街 桜の国』という広島の原爆を題材にしたマンガで評価が定着したマンガ家だが、作品としてはむしろ、なんとものどかな、貧乏な若い夫婦の日常生活を描いた『長い道』の方がユニークで面白かった。この、戦争や原爆を題材にしつつ、日常生活を淡々と描く、という両面を達成したのが『この世界の片隅に』だろう。
もっとも、『夕凪の街 桜の国』でもすでにそうした側面は出ていたし、それは、かつての広島の原爆の被害を描いた「夕凪の街」のパートを、現在の広島を描いた「桜の国」のパートが補完していくという時間の処理の手法にあったし、『夕凪の街 桜の国』が高く評価されたのはまさにこのような構成で、現在の日常的な視点から広島の被害を見直していくということを成功させたからだろう。そして、この手法は実は『この世界の片隅に』でも踏襲されていて、それは時間ではなく、場所を広島と呉の2つに設定したことで、広島の原爆被害を、呉の日常生活からとらえるという構成をしているのだと思う。
このように、こうの史代の本領は、戦争や原爆の被害、あるいは貧しい夫婦の生活を描きながら、描かれるのは、日常の生活細部のささやかな発見である、という点だろう。
これこそは、実は、ある種の少女マンガ、たとえば大島弓子『綿の国星』が行おうとしてきたことを引き継いだものなのであるし、正しき(という言い方は変だけど)サヨクの方法論なのだと思う。
貧しいからこそ日常生活のすみずみを見つめて世界を夢想してしまおうというのがサヨクの方法論だったのではないのかな?
こうした夢想力をなくしてしまうと、「お花畑」でなく厳しい現実を見つめるとか言って、他人を排斥したりするようになるのだろう。(今のトランプ現象の背景。)
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2010/7/25

つりたくにこ作品集!  マンガ

ゲゲゲのブームの便乗企画らしい。河合はるこのモデルではないかという・・。

http://www.seirinkogeisha.com/book/321-1.html

つりたくにこが河合はるこのモデルなのか、その真偽の程は分からないが、とにかく、つりたくにこは永遠!
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2009/8/2

益田ミリ『結婚しなくていいですか。』  マンガ

傑作。
淡々としていながら(淡々としているように表面的には見えながら)、これ程、巧みに伏線や、登場人物達の偶然の出会いなどを張り巡らせた物語作品はちょっと珍しいのではないか? このマンガ作品で描かれる「偶然の出会い」は、トレンディドラマとかで「偶然の出会い」によって展開していくような「偶然の出会い」とは違う「偶然の出会い」であるのではないかと思われるが、淡々としていると書いたが、淡々とした日常描写に徹した作品のように一見、見えるからこそ、それが巧みな伏線であったことにその瞬間には気がつかなくて、読み進む内に、あっとたびたび思わされることになるわけだけど。この絶妙さ。マンガだからこそ達成できたものなのかもしれないが(たとえばモノローグの手法などはマンガでないとちょっと出来ない)、そうしたマンガの表現手法としてのユニークさ(絵は決して上手くはないが、逆にそれがヘタウマ的な味わいになっている)、物語の語り口の巧みさという点で斬新な作品だと思うのだけど、このマンガでさらに長所であると思われることは、そうした手法や語り口ばかりが突出しているわけでもなく、そうした斬新な語り口が確実にある種のテーマ的な達成に至っていると思えることだろう。
たとえば、伏線の張り巡らせ方とかの語り口の巧みさということならば、映画で言えばリチャード・リンクレイターのような巧みさをちょっと思わせるものなのかもしれないが、この『結婚しなくていいですか。』は、リンクレイターの『恋人たちの距離』のような「恋愛もの」ではなく、むしろ、「恋愛もの」の対極にあるような、「反(アンチ)恋愛もの」と言える。いや、「反(アンチ)」というのとも違うのかもしれない。「反(アンチ)」というより「非」であり、「非恋愛もの」とでも言うべき作品なのかもしれない。
その意味では、リンクレイターよりもエリック・ロメールにまだ近いのかもしれないが、しかし、ロメールとも異なるものである。
何より、そうした「非恋愛」の日常の時間の素晴らしさ、豊かさを描き出したという点で優れている作品とも思える。つまり、この『結婚しなくていいですか。』というマンガ作品は、「恋愛」を抜きにしても女性の人生には豊かなディテール(瞬間)があるのだということを描き切った、真の意味で現代的な女性賛歌であるとも言えるのではないだろうか。
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2008/5/10

松田奈緒子『100年たったらみんな死ぬ』  マンガ

このマンガの中で2人の女子高生が「夢も希望もない」自分達の将来について会話をしている・・。

ホストとして働き始める父。不倫をしている長女。引きこもりの長男。さらに政治おたくの女子高生やら、腐女子やら・・。ホスト、不倫、引きこもり、腐女子といったいかにも流行の(?)アイテムを揃えたかのような、一見、キワモノとも言えるようなマンガ作品なのだけれども、実はこれはひどくまっとうな「社会派」の作品なのである。その「まっとうさ」は、そうしたキワキワのアイテムを揃えて、現代社会の腐敗や家族崩壊を描いていく・・のではなくて、逆に「夢も希望もない」この時代に前向きに生きるアイテムとして転化している、そのイナバウアー的なしなやかさにあるのではないかと思う。中年の父がホストクラブで働き出すなんてめちゃくちゃな話だけれども、それが「崩壊」ではなく、生きる力を取り戻す「癒し」のものとして描かれているところが出色なのであり、引きこもりの男の子も腐女子らしい少女に恋をすることで(この男の子自身は相手が腐女子であることに気がついていないようだけれども)ささやかながら歩み出すという、まあ、現実的に考えると都合が良すぎる展開かもしれないけれども、マンガなんだからいいじゃんというのか、マンガだからこそ許されるイナバウアー的な展開に、「夢も希望もない」この時代にそれでもイナバウアー的な出来事が起こり得ないか?を模索している人々の生をつかまえ出そうとしている「まっとうさ」を感じ取るべきなのではないだろうか。

下巻に合わせて収録されている短編『ビニール』も、もうどうすることも出来なくなっている状況の恋愛にそれでもちょっとしたイナバウアー的なチャレンジをしようと試みた青年の姿を描いた、しゃれた小品である。

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2008/4/2

樹村みのり『見送りの後で』  マンガ

樹村みのりの新刊である。旧作を集めたものではない。本当に「新刊」なのだ。といってかつての名作『星に住む人びと』も収録されているのだけれども、なんと、これが「リメーク」なのである。ネーム(文字)は旧作のものを使っていて、絵を中心に全面的に描き変えているのだ。マンガ作品でこういう試みは珍しいのではないかと思う。どうしてこんなことをしたのか、樹村みのり自身が次のように語っている。「今でも好きな作品の一つなのですが、当時は思いどおりの絵が描ききれず、ずっと心に引っ掛かっていた」からと。その「作品」への熱き思いに胸をつかれる。
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2007/4/17

武富健治『鈴木先生』 ーマンガはマンガである  マンガ

[マンガはマンガである]
武富健治の『鈴木先生』は、「マンガはマンガである」とでも呟くしかないような傑作である。

しかし、「マンガはマンガである」と言う時、あるいは「映画は映画である」とか「音楽は音楽である」と言う時、いったい何を言っているというのか?
「映画は映画である」の場合は純粋に映像と音によって、「マンガはマンガである」の場合は絵とネーム(台詞、言葉)によって、他の表現ジャンルではなし得ないことをしているということなのだろうか・・?
たぶんそのようなことだろう。そして、同時にリアリティの問題なのではないかと思う。

武富健治の『鈴木先生』は、異様に現実的なリアリティを感じるマンガである。中学校の教室の場で起こっている、ごくごく日常のなんということもないようなエピソードを拾い集め、教師と生徒との葛藤を具体的にリアリティをもって描き出している。
ある生徒が給食時間にちょっとした問題発言をした・・そんな、はっきり言って、わざわざマンガにするようなことなのか?と思えるような、日常のどこにでもありそうな他愛がない話をマンガにしている。
その意味では、等身大の中学教師像を描き出したといっていいのかもしれない。
だが、この『鈴木先生』を「等身大もの」だと言うと、ちょっと違和感を感じてしまうのは、このマンガのディテールの描写のひとつひとつは現実にはあり得ないものだと思うからである。
だって、現実に、ある生徒が給食時間に問題発言をした・・というようなことで、教師が何日もとことん悩み抜き、論理的思考の果てにある「真実」に到達する・・なんてことがあるんだろうか? そんな教師、いるんだろうか?
だから『鈴木先生』で描かれるディテールのひとつひとつはあり得ないものなのではないか?とも思える。しかし、この作品が到達しているのは、たしかに現実的なリアリティを醸し出すことであり、鈴木先生は理想的な熱血教師・・とばかりは言えない「普通」の教師だからこそ、共感を呼ぶ作品になり得ているのではないだろうか?とも思える。
(「鈴木」先生という名前が「普通さ」を象徴している・・。)

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[マンガにおけるリアリティとは?]
この作品にリアリティを感じる、と言う時に、2種類のリアリティのあり方があるのかもしれないと思う。
ひとつには、ディテールが徹底的にリアルというのか、「こういうこと、あるある」「このネーム(台詞)、あるある」みたいに読者が感じて、リアリティがある作品だと感じるというもの。
もうひとつは、ディテールのひとつひとつはあり得ないことばかりなのにもかかわらず、全体になぜか、リアリティを感じる場合である。
具体例をあげると、安野モヨコや黒田硫黄のマンガは前者であり、岡崎京子や武富健治のマンガは後者であると言っていいかもしれない。
たとえば岡崎京子のマンガについて、ある知人が「あり得ないファンタジーである」と言っていた。でも、だからこそ、かっこいい、と・・。
この知人の言うことに僕はなるほどと思い、参考になる意見だと思った。
同時に、むむむ、でも岡崎京子ってホントに「あり得ないファンタジー」だからいいのかなあ・・?と違和感も感じた。
たしかに岡崎京子のマンガは現実にはあり得ないようなディテールで出来ていると思えるところはある。しかし、岡崎京子のマンガが衝撃的だったのは、ファンタジーだったからではなく、そこで描かれた「リアル」が衝撃的だったからではないのだろうか?
つまり、ディテールはあり得ないようなことばかりでもリアルに到達する・・という場合もあるのではないか?

もちろん、マンガにおけるリアルの問題と、映画におけるリアルの問題はちょっと違うところがあるので、それぞれ別個に考えないといけないように思うのだけれども・・

岡崎京子や武富健治が、ディテールはあり得ないことばかりなのにリアルに到達しているのは、まさにそれがマンガだからこそ成し遂げられたものなのではないだろうか?
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2007/2/11

オノ・ナツメ『not simple』  マンガ

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古くは、つげ忠男の『無頼の街』とか、比較的、新しいところでは、ひぐちアサの『ヤサシイワタシ』とか、ひたすらどこまでも暗くて読んだ人の気持ちを落ち込ませるようなストーリーのマンガになぜひかれるのかは自分でもよく分からないのだけれども、オノ・ナツメの『not simple』もまた、その救いがないストーリーにひかれずにはいられなくなる、独特の磁場を形成しているようなマンガ作品であると言えるだろう。
しかし、その飄々とした絵柄のタッチのためなのか(はるちょんさんによるとオノ・ナツメは「2パターンの絵柄を描き分けてる」とのことで、実際、『リステランテ・パラディーゾ』の絵柄に比べて『not simple』の絵柄は余計なものを剥ぎ取ったかのように線がシンプルなタッチになっていて、同時に岡田史子のマンガのようにどこか神経質なものも感じさせる絵柄のタッチなのであるけれども)、あまりにも淡々とした展開や、残酷なことをごく自然に飄々とした会話にしているネームのやり取りのためなのか、どこまでも救いがないような暗い話を飄々と、まるでごく身近な日常のひとコマであるかのように読ませるものだから、その暗さにひそむ悲しみを感じなくてもついすいすいと読めてしまうのだけれども、それだけにじわじわとボディブローのように後から効いてくる、静謐な余韻があることは認めるしかない。してみると、ストーリーと絵柄との落差がこのような余韻をもたらしているのだろうか?(しかし、決してストーリーと絵柄が合っていないというわけではなくて、むしろ、絶妙に合致していると思うのだけれども。)
まあ、新しい作家が出てくるたびに「新しい才能」という言葉を使うことにどれほどの意味があるのかはよく分からないし、「新しい才能」といって褒め称えてももしかしたら何も意味していないのかもしれないけれども、それでもとりあえずオノ・ナツメには「新しい才能」という言葉を使ってみたいと思うし、同時に、どこか、「いま」の、「いま」という時代をとらえた切実な何かがやっぱりあるような気もしてきてしまうので、「いま、新しい才能」のマンガ家であるとふと言ってみたくなったりもするのだけれども・・。

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2006/10/3

『ヤサシイワタシ』  マンガ

ひぐちアサ『ヤサシイワタシ』全2巻(アフタヌーンコミックス)

作者は後半部の話をつくって編集部に持っていたら前半部の話を描いてと言われたそうなんですが、納得。
前半部があるから後半部を読み終えた時の感慨があるのだと思います。見事なプロットです。
わずか全2巻で、等身大の人生をこれだけ描き切った本作には感服。

自分を傷付け、諸刃のように同時に他人をも傷付ける言葉を発してしまう、周囲の人間をいつもイライラさせるヒロイン像の造形が秀逸ですが、対する男のほうも、まあ、学生なんだから仕方がないんですが、真っ向から言葉をぶつけてさらに溝を深めていってしまう感じです。もうちょっとうまく(要領よく)綱渡りをすればなんとか、なりそうな2人なんですが。
と読む側が本当にイライラさせられてくるぐらい、それぐらいリアルに等身大の学生生活を、人と人とのぶつかり合い(傷付け合い)を、描き出しています。
リアルで痛い、ヒリヒリするような傑作です。

『ヤサシイワタシ』(1)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4063142671/ref=ase_blogzine-22/249-2677778-7959500

『ヤサシイワタシ』(2)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4063142868/ref=pd_ecc_rvi_2/249-2677778-7959500
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2006/8/5

『摂理』広告塔疑惑についての一条ゆかり氏のコメント  マンガ

宗教団体『摂理』の広告塔をしていたのではないかという疑惑が週刊誌などでも報じられた少女マンガ家の一条ゆかり氏のこの件に関するコメントが雑誌『コーラス』のサイトに出ました。

http://chorus.shueisha.co.jp/special/index.html

僕もこのマンガ家の作品のいくつかを読み、面白いと思っていただけに今回の件を気にかけていたのですが、とりあえず当人よりこのようなコメントが出されたことを紹介したいと思います。
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2006/1/25

少女マンガ縦断(その1) もりたじゅんと耕野裕子 前編・もりたじゅん  マンガ

 予告していた連載「少女マンガ縦断」、第1回は「もりたじゅんと耕野裕子」です。もりたじゅん(森田じゅん)と耕野裕子、年齢も描いている雑誌も全然、違って接点がないようですが(笑)。とにかく少女マンガに関しては僕は1970年代のものから2000年代のものまで読みあさっているという珍しい男子(←いつまでも男「子」だと思っているモラトリアム人間・笑)ですので、どこから話をしようかと迷いまして。
 で、もりたじゅん(森田じゅん)と耕野裕子の接点を見つけました。もりたじゅんは本宮ひろ志、耕野裕子は榎本俊二という、それぞれ漫画家と結婚したということです。そのような共通点で結び付けてもりたじゅんと耕野裕子について並んで書くことにしました。(かなり強引だな・・)

 で、もりたじゅん(森田じゅん)ですが、この人は経歴が長いですね。1970年代に『りぼんコミック』で描いていた人ですから。本宮ひろ志と結婚してからはすっかり本宮ひろ志の奥さんというイメージが定着してしまい(ちなみに本宮ひろ志のマンガに出てくる女性はもりたじゅんが描いているという話もある。絵がみんな、もりたじゅんのマンガに出てくる顔なのだ・笑)、最近はレディースコミックなどを描いているようですが、『りぼんコミック』の時代にはかなり個性的、実験的な作品を描いていました。
 解説がいるかもしれませんが、『りぼんコミック』は低学年向きの『りぼん』とは別に短編読み切りで冒険的な題材の作品を当時の新人作家が発表する場としてつくられたもので、一条ゆかり、もりたじゅん、樹村みのり、弓月光、土田よしこ、山岸凉子、ささやななえ、のがみけい、汐見朝子、田渕由美子らが描いていました。もっともすぐに廃刊になりこれらの描き手は本誌『りぼん』に吸収されることになりましたが、多くの新人作家を育てた実験的な雑誌として歴史的な意義をもつものだと言えるでしょう。
 少女マンガというと、萩尾望都、竹宮恵子、大島弓子、山岸凉子らのいわゆる「24年組」が意欲的な題材のものを発表した改革者として知られていますが、「24年組」が出てくる以前にあった「りぼんコミックグループ」のような動きも無視できないものとしてあるのではないでしょうか。ほかにも、矢代まさ子の「ようこシリーズ」や、西谷祥子の学園ものなど、「24年組」以前にすでにいろいろと実験的な表現のものが出てきていたことは改めて見直されていいことではないかと思います。
 と、どうしても前置きの解説が長くなっているが・・。俺は評論家か(笑)。
 で、もりたじゅんですが、今、手元に『うみどり ーもりたじゅん珠玉作品集1』(集英社漫画文庫、昭和51年12月31日初版)というのがあります。収録作品は『うみどり』『しあわせという名の女』『おっちょこちょいの季節』の3編。これらがもりたじゅんが当時、描いていた作品です。特に『うみどり』は兄と妹の近親相姦のテーマを扱ったもので、かなり衝撃的な作品だったと言われています。読み返してみましたが、このテーマをリアリティがある話にするためにちょっとしたトリック的なアイデアを持ち込んでいて、肉体的なもの、精神的なものの両面をとらえて描いているように思いました。(トリック的なアイデアというのは本当の兄妹なのかどうか分からないスレスレ感を話に盛り込むものですが、これはくらもちふさこの『東京のカサノバ』や、岩館真理子のマンガでもそういう本当の兄妹なのかどうかが分からない兄妹ものがあったと思うし、近親相姦ものをリアリティを持たせて見せるための手法なのかもしれない。)
 また『しあわせという名の女』は少女マンガにおける大きなテーマのひとつと言える、「しあわせ」をテーマにしているものですが、これも手が込んだ設定で、女性歌手とそのマネージャーという、「商品なので手を出してはいけない」という枷(かせ)がある関係の男女の話で二転三転するストーリー展開をつむぎだしています。
 改めて、もりたじゅんの実験精神が当時の少女マンガが取り上げる題材の裾野を広げていたことを思わせます。
 こちこちのメロドラマの韓国ドラマがブームになっているような今の時代にこそ、『うみどり』や『しあわせという名の女』のような作品を見直してみてもいいのではないでしょうか。
 話が長くなったので、今回はここまで。耕野裕子については次回に書く予定です。
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2005/10/21

『エデンの花』盗用騒ぎ(2)  マンガ

『エデンの花』盗用騒ぎについてだらだらと思ったことを書くとー

誰だってバスケのシーンを描くのにある程度、写真などを参考にすると思うんですが、参考のレベルをこえてコマ割りまでそっくりそのままトレースした(のではないかと推測されている)というのが行き過ぎだったのかな。
実際に問題になっているマンガを手にとってみたんですが、あくまで一部だけの問題ですので、この作家の単行本全部が絶版というのはどうなのかなあとは思ったんですが。
でも、検証サイトやってるやつも、別にこんなことをしても金がもうかるわけでもないのに、暇人というのか、よくやるよ。(笑)
個人的にはこういう金もうけと関係ないことに情熱を傾けているのを見るのはけっこう悪い気はしないんですけど。屈折した暗い情熱だとは思うけど。(笑)
戸田奈津子氏の騒ぎの時も思ったけど、インターネットって、ホリエモンみたいな金もうけをしようとしている人達がいる一方で、まったく金もうけとは無縁の個人の情熱で成り立っている部分があって、それが面白いんじゃないだろうか? ブログの興隆にしても、金もうけとは関係ないコミュニケーションが跋扈しているっていうのは決して悪い面ばかりではないと思う。

ところで、今回の件、本当に編集部は知らなかったんだろうか? 作家が勝手にやったというより編集部に言われてやった可能性もあるんじゃないかと思うんですけど。時間がなくてバスケのシーンはこれを真似して、なんてやり取りがあったのではないかと。勝手な憶測ですけど。出版社が作家に責任を押し付けている気はしないではないですね。

でも、映画でも引用なんて当たり前のことだからなあ〜。
むしろ、変に隠すから、それを見つけたやつが鬼の首をとったようになるわけで、自分からこれは何々の引用ですと言っちゃえばいいんじゃないかと。ゴダールみたいに。(笑)
マンガでも佐々木倫子とかは細かく出典をあげているようです。何々を参考にしましたって。版権をとっているのかどうかは分からないけど。とにかく出典元を明記しておけばお金を払って版権、とらなくてもいいだろうという考え方もあるのかも。(笑)

*検証サイト
「漫画家・末次由紀氏 盗用(盗作)検証」
http://tretre.fc2web.com/

*以下は竹熊健太郎氏のブログ
(コメント欄のやり取りがヒートアップしているようです。)

2005/10/20
マンガ家の描写盗用問題についての私見
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_9358.html

2005/10/21
許される模倣・許されない模倣
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_94e4.html
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2005/10/19

『夕凪の街 桜の国』韓国語版に「前書き」  マンガ

もうひとつ、マンガの話題で、shimizu4310さんのブログにある以下の記事。

http://d.hatena.ne.jp/shimizu4310/20051018

こうの史代『夕凪の街 桜の国』が韓国で出版されるにあたり、「原爆投下は戦争を終わらせるためのやむを得ない決定だったが、これはあのとき、犠牲になった人々の苦痛と悲しみについての物語である」という「前書き」がつくようになったそうなのだが(2005年10月14日朝日新聞夕刊より)、これに対して勝谷誠彦氏が2005年10月16日 の日記で

「勝谷誠彦の××な日々。」
http://www.diary.ne.jp/user/31174

>その半島の南半分である韓国で『夕凪の街 桜の国』が翻訳出版するにあたり見出しのような加筆が行われたというのだ。<原爆投下は戦争を終わらせるためのやむを得ない決定だったが、これはあのとき、犠牲になった人々の苦痛と悲しみについての物語である>。朝日新聞の抜き書きなのでもっと酷いことが書かれているかも知れないがもしそうなら朝鮮語を読める人が教えてくだされば幸いである。朝日は作者のこうのさんの言葉として<「正直、加害者と言われてもピンと来ないところもある」「ここから変わっていければいいと思う」>と最後に紹介してアリバイ作りをしているがそれだけの問題だろうか。原爆投下を人類に対する罪とするかどうかということは私たち日本人の根本的なスタンスにかかわる問題である。それをかくも勝手にご都合主義のどこぞの連中に売り渡す神経が私には理解できない。

と怒っているんだけど、ちょっと待って下さい。shimizu4310さんも指摘されているように、これ、あくまで韓国の人による「前書き」の文章がつくということなのでは? 別に本編のマンガに加筆がされるというわけではないと思うのだが。
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2005/10/19

『エデンの花』盗用騒ぎ  マンガ

*2ちゃんねるで指摘されたことから話題になり、講談社と作者の末次由紀氏も盗用を認めたため、単行本が絶版、回収される騒ぎにまでなってしまっているようだけど、ちょっと珍しいケースかなと思うのは、「ストーリーの盗用」ではなく「絵の構図の盗用」であること。
はっきり言って、マンガ家が他のマンガや写真、あるいは映画などの構図を参考にするのは珍しいことではないと思うので、末次由紀氏のマンガのみがやり玉にあがるのはどうかと思わないでもないんだけど。
映画なんかでも何かの映画の構図を参考にするということはよくあることなので、かなり微妙な気がする。
でも分かりやすいケースだったんだろうなあ。これだけ騒ぎになってしまったのは。

(関連ニュース)
漫画「エデンの花」に「スラムダンク」からの盗用発覚
 講談社は18日、同社が刊行した末次由紀さんの漫画「エデンの花」に、井上雄彦さんの人気漫画「スラムダンク」などの描写から多数の盗用があったとして、流通している末次さんの単行本25点を回収、絶版にする措置を取った。

 広報室によると、インターネットの掲示板で先週、「絵の構図が似ている」などの指摘があり調査。本人も盗用を認め、「モラルの低さと認識の甘さにより、多大なるご迷惑をおかけしてしまった」と同社ホームページで謝罪している。

 「スラムダンク」は集英社刊。バスケットを通じて成長する高校生を描いた。初版の発行部数が250万部に達した巻もあり、世界中で翻訳されている。

 末次さんは1975年生まれ。「エデンの花」は血のつながらない兄妹の恋愛物語で、全12巻で約120万部を発行している。
(読売新聞) - 10月19日1時9分更新

講談社が少女漫画を回収 「スラムダンク」から盗用
 講談社が刊行した末次由紀さんの少女漫画「エデンの花」の中に、井上雄彦さんの人気バスケットボール漫画「スラムダンク」(集英社)から試合などの場面の構図を盗用した部分があることが分かり、講談社は18日、「エデンの花」全12巻と末次さんの全作品を絶版とすることを決め、回収を始めた。現在、同社の「別冊フレンド」に連載している漫画「Silver」を中止する。
 読者からの指摘で講談社が調査、末次さんから事情を聴いたところ、盗用を認めたという。
 同社はホームページに末次さんのコメントとして「本当に申し訳ありません。自分のモラルの低さと認識の甘さにより、多大なるご迷惑をおかけしてしまった」とする文章を掲載。同社広報室も「詳細は調査中だが、多くは事実が確認された。編集部として気付かなかったことを深く反省する」とおわびしている。
(共同通信) - 10月19日0時59分更新

<盗用>「エデンの花」など絶版 講談社
 講談社は18日、同社が出版した末次由紀さんの漫画「エデンの花」(全12巻)に、井上雄彦さんの人気漫画「スラムダンク」からの盗用があったとして、「エデンの花」を含む末次さんの単行本全作品25点を絶版・回収処分とし、月刊「別冊フレンド」での連載「Silver」も中止することを決めた。
 盗用があったのはバスケットの場面で、「スラムダンク」の構図と酷似している。末次さんも、盗用を認めている。末次さんは講談社のホームページ上で「モラルの低さ、認識の甘さにより、多大なるご迷惑をおかけしてしまった」とのコメントを発表した。
(毎日新聞) - 10月19日0時8分更新


*以下が「漫画家・末次由紀氏 盗用(盗作)検証」をしている実例のようです。なんつーか、2ちゃんねる的なるものの恐さを感じてしまう。
http://tretre.fc2web.com/

*以下は竹熊健太郎氏の見解
2005/10/20
マンガ家の描写盗用問題についての私見
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_9358.html

2005/10/21
許される模倣・許されない模倣
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_94e4.html
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