着眼点は面白いのだ。日本の古層にある精霊。それを掘り起こそうとする試み。日本の古層にあり、時に権力と、時に芸能と、さまざまな形で関係を持ちながら生き延びてきた信仰。
だが、と思う。何かあらためて、評論という文芸形式の限界を感じてしまったような気がした。例えば蹴鞠と植物、そして精霊との繋がりを説いた冒頭のあたりなどは抜群に面白い。これからどんな種明かしが始まるのだろう、とわくわくさせる。だが、評論の空間はいつも抽象的だ。抽象的なものが抽象的なものに挑むとき、どこかしら言葉が堂々巡りを始める印象が否めない。特に本書のように精霊といったような繊細なものに対する場合はそうだ。抽象性を語る抽象性はどうしても弱い。抽象性を語る具体性こそに力が宿るのではあるまいか。
実際、この本自身がそのようなテーゼについて再三語っているのだ。抽象性を語る具体性の、ひとつのとても有効な手段としての日本の芸能。蹴鞠、能、和歌。ケルト的なもの、縄文的なもの、あるいはアフリカ的なものとも繋がっていく、その日本の古層。 著者自身も言うように、確かに日本人はその思想を「フィロソフィー」によってではなく、「芸能」の中にそれを表現してきた。いやそれどころではない、「抽象的な観念の運動は、いつしか停滞に陥っていく」。それを励起するのが、「芸能の思考」であり、その図式こそがこの本が述べようとしていることの核心でもある。
あるいは、こんな言葉もある。「この《俗》は超越的なものが現実のうちに受肉をおこす、その媒体をあらわしている」。そう、「芸能」とは具体的であると同時に、多くの場合「俗」でもある。「俗」は抽象性の受肉となるひとつの媒体である。それは確かに、日本に多く伝わる芸能の中にしばしば顕現することでもある。
しかし、そう考えれば考えるほど、そのようなことを語る言葉自身がどこか自己矛盾に陥っていくような気がする。抽象性を語る具象性(つまり芸能)を語る抽象性(つまり評論の言葉)という自己撞着。日本人は「思考」を「芸能」で語ってきたのだとする、「芸能」ではない「評論」の言葉。そこには、やはり圧倒的な弱さがあると言うべきではないのか。「フィロソフィー」に対する「芸能」の強さを説く「フィロソフィー」に近しい言葉。作者自身は、そのことをどう考えていたのだろう?