『共和国連絡部』に関して昔の資料や社会党の公式・非公式(党内刊行物)を片っ端から調べて行く中で、非常に奇怪な軌跡を辿って行った人物の存在がもう一人明らかになりました。
その人物は日本社会党参院議員、民主党衆院議員を経験し、現在は民主党福井県連合の顧問となっている「K・T」氏という男性です。(名・姓の順)
無論、彼が北朝鮮による拉致に関与していることを断言出来るまでの確証はありませんし、『共和国連絡部』なる組織に名を連ねていたことを証明する手立ても持ち合わせてはいません。
但し、このT元議員の過去の行動は、意図的なのか?或いは無意識なのか?「北朝鮮工作員の非合法活動を手助けするに等しい」行動を取ってしまった人物と言っても差し支えないかと思います。
K・T元民主党福井県連合第3区総支部代表について
●大正13年12月10日、福井県小浜市出身。
●昭和22年千葉農専(現千葉大)卒。
●昭和46年参院選福井地方区に日本社会党公認で初当選。
●昭和47年(1972年)7月、朝鮮総連の要請を受け、参院法務委員会において、
「未承認国船舶乗員取扱要領通達」資料提出を要求。
これは部外秘の通達資料であったにも関わらず、7月11日にT氏は入手。
●同年9月28日の臨時国会法務委員会において、T氏は
「『マンギョンボン号』などの朝鮮船舶及び乗員に対する不当差別撤廃条項」
を当時の法務省入管局に申し入れ、成立させてしまいます。
(内容)
・朝鮮船舶の入港から出港までの船員や訪船者の動きを監視しない。
・初入港の時の船員手帳提出及び写真撮影の廃止。
・入港から出港まで入国審査官又は入国警備官による舷門立哨が行われていたが、これを廃止する。
・入港から出港までの間に政治的言動があれば、これまでは入国管理局に電信で報告していたが、今後は行わない。
この直前の昭和47年(1972年)9月1日、T氏は北朝鮮を訪れ、金日成首相(当時)と直接対談しています。
前述のO元党員の訪朝の2ヶ月前に当たります。
在日朝鮮総連を通じて、やはり日本人の拉致を直接指導、実行していた「朝鮮対外文化連絡協会、北朝鮮外務省14局、朝鮮労働党統一戦線部・連絡部」からの招待を受けて2週間に渡り滞在しています。
他に同期の社会党参院議員初当選組13名が参加したと記録にあります。
昭和47年(1972年)9月10日、建国記念日の翌日、首相官邸を訪ねたT氏ら社会党訪朝団代表団は、出迎えた金日成首相(後主席)と会談場のエレベーター出口で一行のひとりひとりと固い握手を交わしました。
昼食を挟んで4時間に及ぶ会談の中でT氏らが北朝鮮政府と話したのは以下の事柄です。
●南北朝鮮の統一問題
「…南北朝鮮統一は朝鮮民族の悲願であり、誰もが押し留めることの出来ない歴史の流れである。
日本社会党の同志は少なくともこの南北統一を妨げることのないように、統一にプラスになるよう努力して欲しい。」(金日成・談)
●日朝の人的、経済的交流
この14日間の訪朝団の滞在中に、対外文化連絡協会の康良煌委員長に対し、T氏は
【福井県民を日朝友好運動の促進目的で、朝鮮に送る】
旨を明言し、合意している事実が判明しています。
このことは、当時T氏の事務所が発行していた『社会新報』号外の訪朝記や、『福井県民ニュース』、更に昭和54年(1979年)にT氏の後援会事務所から刊行されたT氏の『国会六年』というタイトルの著書にも記されています。
帰国後、T氏は朝鮮総連にこの決定事項を報告しています。
因みに翌昭和48年(1979年)春に当時の中川福井県知事を団長とした訪朝団があったことまでは確認出来ましたが、その後の人的交流に関しては不明です。
昭和53年(1978年)7月7日、T氏の地元、福井県小浜市の青井海岸から、地村保志さん・浜本冨貴恵さん(共に当時23歳)が北朝鮮工作員によって拉致されています。
この事件以外にも、1970年代半ばから1980年代初頭までにかけて、福井県内では未解決行方不明事件が相次いでいるといいます。
T氏は、日本社会党→社会民主党→民主党と党派を変わり、落選後は地元民主党県連の顧問として健在ということです。
社民党、民主党…私自身この2つの政党と関わりがあった以上、T氏本人もしくは周囲の人物には是非どんな小さな情報でも良いので名乗り出て頂くことを強く望んでいます。
北朝鮮による拉致事件は国内の何らかの組織的協力者がいたことは間違いありません。社会党、社民党にはこれまで何度も北朝鮮による拉致事件を隠蔽もしくは否定し続けていたという過去があり、それ故『共和国連絡部』の存在の信憑性は高いのです。

