管理人くまがわ直貴が尊敬する政治家の方々(故人に限ると)の名前をちょっと唐突に挙げてみたいと思い、徒然なるままに…
●西尾末廣さん。香川県高松市女木島(通称;鬼が島)出身。旋盤工の見習いから労働運動の世界に飛び込み、戦前の無産政党では社民党系に所属し、総同盟のリーダーとして頭角を現した人物です。戦後、日本社会党(現社民党)の結成に参加し、片山哲中央執行委員長のもとで社会党書記長に就任。片山内閣では官房長官、芦田内閣で副総理という重要ポストを歴任するも、昭和電工事件に関与したとして逮捕・起訴(後に無罪判決)。
社会党内右派の重鎮として、「社会党の世界観の対立の深さをそのままにしておいて政権を獲得するというのは極めて無責任であり、根本からその矛盾を考え直すべきである。」との的を得た主張を述べるも、左派からの執拗な攻撃により1959年には社会党右派河上派の一部と共に離党し、民主社会党(後の民社党、現民社協会)を結党。
「政権を執らない政党は、ネズミを捕らない猫に等しい。」という格言を残しました。
…管理人は、20歳位の頃に香川県を一人旅している時に偶然西尾さんの生まれ故郷女木島を訪れました。島の船着場には何故か巨大なモアイ像(笑)。そしてこの島は別名が「鬼が島」というだけあってあの「桃太郎」伝説の発祥の地とされています。
島の唯一の観光施設である「鬼の博物館」には鬼のロボットと洞窟、そしてパンフレットには島出身の偉人・西尾末廣さんの業績を讃えるパンフレットが置いてありました。島の電化に尽力した西尾さんのこと、民社党委員長勇退の日の朝のこと…
1981年秋死去。管理人が生後6ヶ月の頃でした。
●江田三郎さん。岡山県出身、西尾さんが去った後の日本社会党の右派理論的指導者として全国民的人気を誇った人物です。
1960年10月の衆院選直前、日比谷公会堂では自民・社会・民社3党首立会い演説会が行われていました。
民社党の西尾末廣委員長が演説を終えると、社会党の浅沼稲次郎委員長が登壇。次第に会場内の右翼団体のヤジやビラ撒きが激しさを増して行きます。
司会のNHKアナウンサーが
「この際は静粛にして、そして改めて委員長のお話を伺いたいと思います。浅沼さんどうぞ。」
と促すと、浅沼委員長は演説を続けます。
「選挙において多数を占めると…」
そこまで言いかけた浅沼氏の右脇腹目掛けて刃物を持った17歳の右翼Y少年が突進して来ます。あっという間の惨劇でした。
…突然の衆人環視の中での党首暗殺という事態を受けて、書記長だった江田三郎氏は急遽野党第一党・日本社会党の委員長代行として総選挙の指揮を執ります。
白髪で上品な身のこなし、ソフトな語り口で一躍人気者となりました。
理路整然かつ熱意溢れる社会党のニュー・リーダーは、社会党を真の意味で政権が担える政党にするべきと考え、イタリア共産党の構造改革路線を参考に、
「アメリカの高い生活水準」「イギリスの徹底した議会政治」「ソ連の優れた社会保障政策」に「日本の平和主義」を組み合わせた『江田ビジョン』(実は、このブログのタイトルの元ネタ!)を『エコノミスト』誌上に発表。
これにやはり左派の協会派が大反発。
遂に1977年無念の中、社会党を離党します。
が、江田三郎という人の本領はここから発揮されるのです。
市民運動のネットワークを辿り、若き日の菅直人氏らと共に中道勢力との連携も視野に入れた社民政党『社会市民連合』構想を掲げ、積極的な対話集会に駆け回ります。
しかし、そんな中複数の関係者達が江田氏の異変に気付いていました。やたらと体中をかきむしっているのです。しかも、階段を昇るのもやっとという格好です。
離党以前から彼の体には癌細胞が巣食っていたのでした。
死の直前まで未来像を描き続けた江田さんは、息子の五月氏の誕生日に息を引き取ります。後継者として立った江田五月氏はその後初当選。
『社民連(社会市民連合)』と改称した同党は後の民主党の源流となります。
…最近読み終えた豪華本の『日本社会党歴代委員長の思い出』(日本社会党前代議士会)や、『江田三郎・そのロマンと追想』の中には、保守一党優位性と対決する古き良き時代の革新勢力の姿が見て取れます。単なるノスタルジアかも知れませんが、当時の社会党は少なくとも輝いていました。
片山哲氏(民社党に移籍)や江田三郎氏の様に思想対立から社会党と袂を分かち合ったかつての指導者達も追悼集(これは社会党の正式な刊行物です)の中で丁寧に触れ、その人柄と業績を讃えているのは評価に値します。
そうさせるだけの何かをこのお二人は持っていたのかも知れません。
かつて社会党の書記局員解雇問題時に、徹夜で解雇撤回闘争を訴える党員と机の上にデーンと腰掛けて耳を傾けている江田さんの写真があります。これは、社民党本部職員の方から頂いた著書の中にあったエピソードですが、江田さんは一睡もせずに、夜明けに最後の党員が退室するまで決して中座しなかったということです。
現社民党執行部も職員のリストラ策の前にこのことを考えてもらいたいものです。
私も所属する民社協会もそうですし、現在の社民党にも言えることなのですが21世紀の現在社民勢力は極めて数的には微弱ですが、その果たし得る役割は大きいと思います。
民社系では、『社会主義青年フォーラム』が現在も存在していますし、社民党も青少年局の青年党員達が地方議会に進出しています。
民社・社会(社民)両党は、過去にそれぞれ外国の独裁政権を支持していたという誤ちも犯しました。(民社党はチリのピノチェトを「天の声」と褒め、社会党は朝鮮労働党と友党関係)今からでも遅くはありません。自己批判すべきです。
戦後の長き期間に渡り、革新勢力が一定の支持を集めていたということは幻でもうたかたの夢でもありません。
今は亡き人々の残してくれた大いなる遺産から学ぶべき時が来ているのだと私は思います。
