2007/9/21 1:27
削りながら... ラブフルート
自分の手が我慢できる間は旋盤加工をしないラブフルートを作り続けよう。そう思って続けてきたのですがさすがに丸三日かけても仕上がらないと苦痛も限界になります。現在、イチイ(アララギ・オンコ)トラディショナルスタイルフルートをナチュラル仕上げにする作業に取り組んでいるのですが、それなりの決意がなければ先には進めません。
アメリカのラブフルートサイトを眺めながら、旋盤を使えば安くて早く出来上がることを確認しながらも結局黙々と手やすりで作業を続けています。加工性の良いレッドシダーやアスナロやボダイジュなどは丸一日かければ何とか形だけは見えてきますが、硬い木はあきれるほど時間がかかり、ひたすら忍耐の連続です。
今夜は作業を続けながら、何故こんなことを続けているのか考えていました。つまらぬこだわりや、頑固さにすぎないと一蹴されてしまうだろうな..と。辛くなってくると旋盤で粗取りだけでもしようかと思い始めます。どうしてこんなに労力のかかることをするのか自問してみました。
出来上がったフルートからはほとんど見えてこないけれど、実際に費やした時間の積み重ねの大切さがその一つです。マイフルートも自分自身も、そうした人には見えない時間の中で生きているのだと思うのです。
旋盤で一気に削って、ペーパーをかけてしまえばものの10分で終わります。かなり込み入ったデザインでも30分くらいで形が出来上がります。ゆがみもなくきれいな円柱が現れます。単に時間をかければ良いと言うことではありませんが、あまりに簡単に出来上がると木と気持ちの繋がりが希薄になります。駄目になってもまた、さーっとやればいいという状況があると、ものの質は明らかに低下して行きます。
人間は機械による合理的な生産方法を見つけて、良いものがたくさん出来るようになったと賞賛してきましたが、それによって失ったものの大きさになかなか気付けないばかりか、コンピュータの利便性が加速され、一人の人間存在の尊さを実感しにくくなっています。それは結果的に自己喪失や対人関係の問題などの根深い要因になっているような気がします。
もう一つは、決めた目的に向かって満足することで見失うものがあるということです。つまり、決めたサイズに木を削り上げて良しとしてしまうと、大切なものを失うのです。確かに決めたとおり、設計図の通りに作ればよいのかもしれません。そうすれば、完成するのですから。ただ、そうなればその選ばれた木が持っている美しい響きがどこにあるかに気付くことはなくなるでしょう。
何かを自己の価値観で結論付けることではなく、それが何なのかを知ることの大切さ。それは木に対しても、人に対しても失くしてはならないように思います。出来るだけ太くて角ばった塊のときに息を吹き込み、その木が持っている響きに触れる時間。そこからスタートします。樹種は勿論のこと、切り出された場所によって木の細胞は微妙な違いを持っていますから、それぞれの個性を生かすことを考えます。
よく鳴り響くのが向いてる子もいれば、おとなしめにしてると輝く子もいます。長さや管の厚みで別世界が現れます。それぞれの木は、笛になる前から大地と空と生き物たちの歌を歌って生きて来たのです。
その木が、自分を愛し、大切にしてくれる人と出会って、新しい歌を歌うのです。
愛の笛を求めて工房に来られる方々、メールで何度となくやり取りしてラブフルートを手にされる方々もまた、さまざまな人生の歌を歌って来られたのだと思います。そう思うと、手で削らなくてはという原点に引き戻されます...
アメリカのラブフルートサイトを眺めながら、旋盤を使えば安くて早く出来上がることを確認しながらも結局黙々と手やすりで作業を続けています。加工性の良いレッドシダーやアスナロやボダイジュなどは丸一日かければ何とか形だけは見えてきますが、硬い木はあきれるほど時間がかかり、ひたすら忍耐の連続です。
今夜は作業を続けながら、何故こんなことを続けているのか考えていました。つまらぬこだわりや、頑固さにすぎないと一蹴されてしまうだろうな..と。辛くなってくると旋盤で粗取りだけでもしようかと思い始めます。どうしてこんなに労力のかかることをするのか自問してみました。
出来上がったフルートからはほとんど見えてこないけれど、実際に費やした時間の積み重ねの大切さがその一つです。マイフルートも自分自身も、そうした人には見えない時間の中で生きているのだと思うのです。
旋盤で一気に削って、ペーパーをかけてしまえばものの10分で終わります。かなり込み入ったデザインでも30分くらいで形が出来上がります。ゆがみもなくきれいな円柱が現れます。単に時間をかければ良いと言うことではありませんが、あまりに簡単に出来上がると木と気持ちの繋がりが希薄になります。駄目になってもまた、さーっとやればいいという状況があると、ものの質は明らかに低下して行きます。
人間は機械による合理的な生産方法を見つけて、良いものがたくさん出来るようになったと賞賛してきましたが、それによって失ったものの大きさになかなか気付けないばかりか、コンピュータの利便性が加速され、一人の人間存在の尊さを実感しにくくなっています。それは結果的に自己喪失や対人関係の問題などの根深い要因になっているような気がします。
もう一つは、決めた目的に向かって満足することで見失うものがあるということです。つまり、決めたサイズに木を削り上げて良しとしてしまうと、大切なものを失うのです。確かに決めたとおり、設計図の通りに作ればよいのかもしれません。そうすれば、完成するのですから。ただ、そうなればその選ばれた木が持っている美しい響きがどこにあるかに気付くことはなくなるでしょう。
何かを自己の価値観で結論付けることではなく、それが何なのかを知ることの大切さ。それは木に対しても、人に対しても失くしてはならないように思います。出来るだけ太くて角ばった塊のときに息を吹き込み、その木が持っている響きに触れる時間。そこからスタートします。樹種は勿論のこと、切り出された場所によって木の細胞は微妙な違いを持っていますから、それぞれの個性を生かすことを考えます。
よく鳴り響くのが向いてる子もいれば、おとなしめにしてると輝く子もいます。長さや管の厚みで別世界が現れます。それぞれの木は、笛になる前から大地と空と生き物たちの歌を歌って生きて来たのです。
その木が、自分を愛し、大切にしてくれる人と出会って、新しい歌を歌うのです。
愛の笛を求めて工房に来られる方々、メールで何度となくやり取りしてラブフルートを手にされる方々もまた、さまざまな人生の歌を歌って来られたのだと思います。そう思うと、手で削らなくてはという原点に引き戻されます...