2005/10/26

窓辺の木の葉  雑感

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 短い秋に感じたことをもう少し書き留めてみようと思います。前回書いたイチョウの輝きはさーっと通り過ぎる贅沢な空間ですが、書き終えた翌日部屋の窓辺から見えたハナミズキの紅葉から別の思いが浮かんできました。

 ゆっくりと一枚の木の葉を見詰めるという時間は、今までにも殆ど無かったように思います。写真を撮る時は、それなりに凝視することも多いのですが。何の目的も無く、ふと目の前にある一枚の木の葉を見詰めると言うのは、とても新鮮な感じがするものです。

 かなり黄色くなった葉が目の前にあります。いつもはバードテーブルに来る小鳥を眺めるための窓から、思いがけず一枚の木の葉を見詰めることになりました。とりわけ感じたのは、風に揺れている木の葉の動きでした。付け根はしっかりと繋がってるのでしょうが、実に見事に風の動きを受けて揺れ続けているのです。時の流れ、人生の流れに、淡々と身を任せる巧みさを見ていると、自らの歩みの稚拙さを嫌と言うほど感じました。

 考えてみたら、春に目を出した若葉は、様々な季節の変化の中で立派に生きてきたのです。よくぞあの激しい風や雨を受けながら生き抜いてきたものだと思います。生い茂るたくさんの葉を見れば、その中の一枚が落ちたとしても、さして気にはとめないでしょう。ましてや木々の生い茂る山を見れば、一枚の木の葉にどれほどに意味があるのでしょう。

 でも、その中の一枚がちゃんと人の心の中にやってきて、心を映し出し、生かされている世界を照らし出してくれました。

 ああでなければ、こうしなければ。あの人はどうで、この人はああだと口にする人の姿。それは吹いている風に気付かず、自分のちっぽけな経験と価値観を振り回して動こうとし、得意げになる未熟な動きをしているのかもしれません。

 他を押しのけて、日当たりの良い場所を独占しようとしたり、害虫を自分の場所から追い出して、他の葉を殺しても平気だったり。そんな樹がどこにあるでしょう。置かれた場所にとどまり、与えられた日差しを受け、寒さに耐えて美しく色付く一枚の葉。なんの主張もせず、与えられた命を全うして樹の根元の養分となるために落ちていく時を待っているようです。

 一年を巡る樹の歩みが、毎年繰り返されていながら、自分がすることに気持ちが捕らわれて、大切な人生そのものを見失いがちな生活。窓辺の向こうにはちっぽけな工房があるのですが、今朝は足早に工房に向かわず、まず生かされている足元をしっかり見詰めようということになりました。

 人生の最後がどうなるか分かりませんが、一枚の木の葉がそばにあってくれればいいなと、思っています。

 今回は、昨年の秋に近くの公園で写した落葉を掲載しました。紅葉もさることながら、いつもはちょっとした高さを踏み越えるのがやっとの短い足が、影に助けられて随分と長く見えるのが嬉しい?秋の明るい日差しの記憶が蘇ります。
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2005/10/24

輝くイチョウの葉  雑感

 紅葉の季節が巡るたびに、それを見る自分の心に微妙な変化が起こっていることに気付きます。朝早くに、思いがけない人からの電話を受け取ったことも影響していたのかもしれません。数十年ぶりで声を聴きました。お互いの人生には様々な変化があり、ほんのわずかな記憶の糸がお互いをつないでいるなと感じました。言葉にならない感慨が起こっていることを感じてはいたのですが、それを確かめる間もなく、仕事のために車を走らせました。
 
 風は冷たいけれど、車の中は太陽の輝きを受けて心地よい空間でした。しばらく走ると、イチョウの黄色い輝きが、通りを照らし出していました。揺れながら輝く木々にすっかり目を奪われました。美しさと、愛しさが心を満たしているのが良く分かりました。

 まもなく厳しい冬が訪れることを知りながら、彼らは惜しげもなく色付き、輝きながら風に揺れているものだ..。人は間もなく終わりが来ると思うと、否応無しに疎外感や孤独感、喪失感が心をよぎるというのに..。

 目の前のイチョウは悲哀や疎外感など感じさせず、むしろ誇らしげに輝いて見えました。若木の時代から、様々な経験を重ねてきたイチョウは、豊かな夏を過ごし、葉をすべて落として冬を迎えようとしています。冬を前にしたその輝きはなんなのでしょう。

 人には個人差があるとはいえ、確実に老いがやってきます。誰しもが、いずれ衰えていく肉体の現象を着実に感じるようになります。死というものを、明らかに意識し始める時がやってきます。

 人は何故、老い、死を迎えるのか。それを必要以上に考えたところで、明確な答えは見つからないように思います。いままでも、そしてこれからも人はこの事実に直面し、あれこれ言葉や教えを駆使して死を語っていくのでしょう。
確かに、それなりの考えや価値観はあるのでしょうが、知識や教えは果たして、心を十分に支えうるのでしょうか?

 輝いたイチョウの葉は、大地に落ち、雪に埋もれ、貴重な養分となって育んでくれた木を生かすための死を迎える...役目を終えて、落下することもまた、大切な役割なのだというメッセージ。

 肉体は衰えても、心は光を受けて輝く姿。暗く、重い冬を迎える世界に、まばゆい光を反射し、それを見る者に希望と勇気を与えてくれる存在。

 書物も無く、思想も宗教もない世界にいたとしても、取り囲む自然は深く豊かな知恵を惜しむことなく与え続けているのではないか..そんな思いを抱きながら帰宅しました。

 その夜遅く、町内会の区長さんが来られました。数軒隣のご婦人が急性脳出血で亡くなられたので、お手伝いにきて欲しいということでした。既に亡くなった母が親しくしていたご婦人の突然の死の知らせに接して、尚更イチョウの輝きのことを思い返すこととなりました...

 めっきり白髪が増え、頭部の輝きが増えてきたとなれば、外見だけがイチョウに似てしまうではないか..。出来るならば、天来の光に照らされて心が輝き、美しい死を通して、後に生きるものの貴重な養分になりたいものだ..そんな思いの中で一日が終わりそうです。明日は平地にも雪が降るかもしれないという予報が聞こえてきました..。そう言えば、夕方たくさんの雪虫を見ました..。
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2005/10/22

愛の笛  ラブフルート

「愛の笛」ポール・ゴーブル/文・絵  北山耕平・訳 河出書房新社
 
 絵本に関する記述が続いたので、その流れのまま「愛の笛」という絵本について書いてみようと思います。ラブフルートと出会って間もなく、この絵本のことを知りました。小さな絵本屋「ひだまり」さんに問い合わせたところ絶版で入手できませんとの返答でした。どこかで在庫が無いかと書店巡りをしていたところようやく見つかりました!しかも、追加オーダー可能でした。

 どういう状況なのか分からないまま、これまでに50冊ほど注文してラブフルートを求められた方々を中心にお渡ししてきました。
 このままフルートが旅立つぶんだけは絵本もなくならないのではないか..そんな気がしてきます。1993年のクリスマスに初版が出ていますから12年が過ぎていることになります。 
 
この絵本の序文には次のように記されています。
 
 アメリカ・インディアンの人たちの用いるフルートは「愛の笛」とも「求婚の縦笛」とも呼ばれます。その昔、ひとびとがまだ伝統的な暮らしをしていたころには、縦笛を吹くのは男性ときめられていました。求婚以外の目的で縦笛が奏でられることはまずなく、したがってこれを演奏するのは多くの場合青年たちとかぎられていたわけですが、なかには自分の妻のためにセレナーデを奏でる人たちもいたようです。男たちは死ぬと自分の縦笛と一緒に葬られると、記録にはあります。
「愛の笛」●はじめに●より抜粋

 ●はじめに●の後半にも興味深い一文がありますので、この機会に掲載したいと思います。

 このラブフルートが、どのようにしてひとびとのもとにもたらされたのかについては、時も場所も異なるいくつかの神話が、聖なる物語として、残されています。いつの時代においても、恋人同士がひかれあい、ひとつに結ばれるためには、なにか超自然的な力の助けが必要なのですね!この本のもとになっているのもそうした物語のひとつです。(中略)愛の縦笛ラブ・フルートは、へらじか一族よりもたらされました。へらじかの雄は威風堂々としていて礼儀をわきまえており、雌たちから慕われていることを、ひとびとは知っていたのです。どうせならへらじかのように立派な人間になって、愛する女性の心を射止めてみたいものだと、男性なら誰しもが考えます。愛の縦笛を手にしながら、彼は自分を突き動かす不思議なものと、美しい愛と、相手を激しく求める性的な力とを感じ、それを音で表現しました。縦笛はへらじか一族よりもたらされたものであるにもかかわらず、そこから流れ出す調べには、すべての生きているものたちの力が込められています。だからこそ、誰かが自分の愛するものを呼び寄せて新たなる生命を作り出そうと縦笛を奏でることは、すべてを創りたもうものの一部として、それをしていることになるのです。
「愛の笛」●はじめに●より抜粋

 少し長い引用ですが、中心的なメッセージと考えて掲載してみました。現状では男性が女性に向けて吹くと言うより、女性たちが自分自身の思いを見詰めるために吹いていることが多いかと思います。
 
 伝統が変わりつつあるというよりも、新しい時代にふさわしい愛の笛の伝説が生まれ始めているように思います。価値観の変化と共に、男性であること、女性であることの意味も変化しているのでしょう。大切なのは愛によって繋がることであって、どちらが愛の笛を吹くかは二次的な要素かなとも思います。

 愛の笛が一時的な流行になって、あちこちで若者がラブ・フルートを吹きまくるなどということにもなりかねない時代ですから、むしろ心を大切にしたいと思う女性たちが笛を奏で、それを耳にした男性が自己に目覚めるというのが良いのかもしれません。
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2005/10/21

絵本屋「ぽこぺん」さん  ラブフルート

 情景を観るだけで夢が膨らむ..そんな絵本屋さんが近くの町にあります。田園風景が見渡す限り広がっている町。その町の一本道をまっすぐ辿ると木の小さな建物が見えてきます。近づいて、扉を開けると、絵本がたくさん詰まった部屋が待っています。
 
 この町には、訪れた時から、絵本の中に入り込むような感覚があります。そして、ぽこぺんさんのお家は、絵本の中にある建物なのだと言われると、そうなんだ..と納得しそうな、そんな世界が待っています。絵本の中の絵本屋さんに入って、絵本大好きおばさんと挨拶を交わすといった感じです。

 様々なジャンルの絵本が分かりやすくまとまっていますから、直ぐに自分の好きなコーナーに立つことが出来ます。とても贅沢な空間で、おもちゃ箱を覗き込むような楽しみが湧いてきます。
 
 窓には木々のシルエットや草花や田園風景が見事にはめ込まれていますから、いつ訪ねても、その時々の楽しみが待っています。

 こうしたシンプルな空間と絵本には共通点があるような気がします。わずかな絵の空間と少ない文字で構成されることが絵本の特徴の一つかと思います。一生涯を10枚の絵とわずかな文字で表現してくださいと言われるような感覚。素朴な中に深い語りかけのある不思議な空間。分厚い理論書の隣に置かれた一冊の絵本。結局、同じ真理が並んでいたというところでしょうか。
 
 今回は絵本に関する記述が続きましたが、それはある意味で必然的な流れだったのかもしれません。というのは、ラブフルートの世界と絵本の世界がよくよく似ているように感じるからなのです。

 自然の中で育まれた木の笛。それは音の幅が狭く、他の有能な楽器のように巧みに、幅広く歌うことは出来ません。あの曲も出来ない、この曲も音が足りないという制約の多い笛なのです。指の穴は5つ、多くても6つしかありません。音量も小さくて、他の楽器にいつも圧倒されてしまいます。

 しかし、あなたには、それで十分ですよと語りかけてくる笛なのです。こんな単純な笛で何が出来るのか..。そんな思いになりそうなときもあるのですが、その笛で自分の心の歌を歌ってご覧と言われると、もうこの笛だけで十分ですという思いになってきます。
 
 こうして考えてみると、ラブフルートと出会ったところから、それぞれの愛の笛物語の絵本が始まるのかもしれません。

 たくさんの経歴があるのだから、10枚の絵で人生なんか現し切れないと感じる方には「この人にはたくさんの経歴がありましたとさ..」と一言書き添えるだけで、絵は無くてもいいでしょうと伝えることになるでしょう。

 壮大で長大な交響曲は、素朴な子守唄ほどに人の心を慰めてくれるものなのだろうか。人生の深遠を語る詩人は、舞い落ちる一片の枯葉の静かな語りかけに勝るのだろうか。

 それぞれの意義を大切にしながらも、時に人生全体の意味をじっくりと考えてみる秋。いつになく物思いにふけるとき、まばゆい月の光が自分を包み込んでいるような一夜。それもまたいいものかなと思います。
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2005/10/21

絵本5冊ずつ..  雑感

 ちいさな絵本屋「ひだまり」さんの紹介をしたいと思い、「HPはないけれど素敵な仲間たち」コーナーをホームページの中に開いて来ました。これまでに10冊ほど紹介文を付けて掲載してきたのですが、もう時期次の5冊を紹介する予定です。
 
 「ひだまり」さんのお店に行きますと、それこそ普通のお家の居間に光が差し込んで、少しゴロゴロしながら絵本を読むゆったり、のんびり時間を待っている気がします。
 絵本が揃っていることは大切なことですし、当然のことなのですが、それと同時に絵本を読みたくなるような空気、空間がポイントになるのだと思います。
 
 ですから、「ひだまり」さんがどんどん儲けて、立派なお店を持つようになったらどうしよう..と密かに思っているのです。普通のお家で、普通の居間と畳の部屋があって、そこで座り込んで好きな絵本を取り出して読めるのがいいんです。なんか買っていこうかな〜という気分になるのです。きっと絵本と同時に、その雰囲気を持ち帰りたい気持ちなのです。
 
 実現は無理と思うのですが、整然と並んでる絵本じゃなくて、少し雑然とした中からお気に入りを発見する楽しみもあれば嬉しいです。手取り足取り世話を焼いて、これがいい、あれがいいと言われずに読める絵本がいいですね。なんとなく好きだとか、嫌いだとかいいながら読みたいと思うのです。字が読めなくたって、絵が楽しいだけでも良いと思うのです。
 
 絵の魔法、言葉の魔法、読んでくれる人の魔法、聞いて感じる魔法、自分で読んでみる魔法、お友達と読んだり見たりする魔法。それぞれに感じて生きてるんだろうなというのが楽しいし、面白いですね。

 北米のインディアンの笛を吹いているのですが、アンデスの山が目の前に浮かんできましたと言われることも少なくありません。そういう時は、必ずといってよいほど、自分の表情に戸惑いが浮かんでるな..と思います。
 
 演奏が終わると、荒野の情景が浮かびましたとか草原が浮かびました、山の中、森の中、川の流れなどなど、それぞれに思い浮かぶ情景は異なります。みんな自分の世界に漂い、佇むのです。それぞれが魔法にかかっている事が良く分かります。
 
 絵本を読んでるお母さんの顔が好きとか、声が好きだとか、読んでもらってる雰囲気が好きだとか、絵本の回りには色んな世界があるのだろうと思います。

 短い日差しの中で、いつになくゆっくり、じっくりとお気に入りの絵本を読んでみる2005年の秋というのも良さそうです。
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2005/10/20

カトリーナチャリティーコンサート  ラブフルート

 強烈な印象を残したハリケーン・カトリーナは跡形も無く消え去り、残された大地には生活を根こそぎ破壊された悲惨な人々の姿がありました。それは映像や文字による情報として届くだけですから、似たような体験をされた方以外にはなかなか実感が湧かない状況なのだと思います。
 カトリーナ被害の後にも次々と悲惨な状況が伝えられていますが、それもまた目の前の必要のために忘れ去られてしまいかねません。一瞬の災害が生涯の痛みを伴うこともあると思うのです。継続した援助の必要を支えていくのは、私たち一人一人の意識と行動だと思います。
 まずは可能な限り、その災害を思うことは出来るだろうし、自分自身が出来ることはないだろうかと自問することもできると思うのです。その一つが今回のコンサートなのだろうと思います。
 チャリティーのチケット売上が見舞金になるという仕組みは、それなりに意義があると思いますし、様々な形で継続されて良いと思います。
 しかし、大切なのは一度限りのチャリティーではなく、与えられた人生の中で隣人の苦悩や困難とどのように関わって生きていくのかという個々への問いかけに応えることではないかと思うのです。
 そのためには、おそらく自分自身の心の深い部分での応答が必要なのではないかという気がします。
 
 ラブフルートを吹き始めて足掛け9年になりますが、ラブフルートの音色には、この深い問いかけが潜んでいるのではないかと感じています。インディアンたちが歴史の中で経験してきたことは、カトリーナの被害の中でも消え去ってはいませんでした。先住民の彼らが受けた今回の被害も困難も公に報道されることはありませんでした。それと似たようなことは世界の先住民族全体に起こっていることなのかもしれません。

 今回のチャリティーコンサートがラブフルートの音色の中で開かれることには、隠された計画があるのかもしれません。音色と共にお互いが心を傾けなければならないことがあるのではないだろうか?そんな言葉も携えてコンサートに備えたいと思っています。
 このコンサートは小さな群れの中から始まる静かだけれど確かな変化の一つになるのかもしれません。ラブフルートの音色が伝えてくれるメッセージが集められた方々の心に届けられることを願いつつ...
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2005/10/20

ラブフルートブログスタート  ラブフルート

もし、愛の笛の音色を知れば、自分も吹いてみたいと思われる方は多いのだと思います。楽器としてのラブフルートは大切なのですが、それ以上に自分が笛を吹くということに隠された深い知恵に関心を向けて欲しいと願っています。
 10月の29日に野幌公民館でカトリーナ被災者たちへの救援のためのチャリティーコンサートを予定しているのですが、何が大切なのか、いま自分が何が出来るのかゆっくりと考えながら過ごせると良いなと思います。
 果たしてどんなブログになるのか未知数ですが、時折立ち寄っていただければ嬉しいです。
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