2005/12/29

この瞬間の音色  ラブフルート

12月になると流れていく時間の速さをとりわけ強く感じます。
つい先日のホワイトクリスマス・コンサートがあっという間に遠くへ行ってしまいました。天候が激しく変化する冬の動きが印象的でした。ガラスのピラミッドに叩きつける雪と風が今まで見たことのない独特の模様を描いて人々を包み込んでいました。今年で3度目のコンサートでしたが、ピラミッドの空間が随分と小さく、狭く感じました。たくさんの方々が多忙なクリスマス・イブの夜に足を運んでくださっておられる姿が音色を生み出してくれたように思います。一年ごとに来場者が増えているな..と思います。毎年楽しみにやってきてくださる方もおられました。とても嬉しいことです。そして、私も継続して聞いてくださる方の事を思い起こして、新しい音の流れを聴いていただきたいと思い新曲を用意していました。

 今回は「おやすみ」と「コヨーテ・トリック」という曲を新曲として用意していたのですが..こういうお話が、さして興味がなくなっていくのだろうな..と感じます。今年が終わり、新しい年が始まる。そのことを中心に動き出していますから..そして新年もまた、同じように過ぎ去って行くことでしょう。

 瞬間瞬間の印象を残しながら、次々と新しい流れが生まれてくる..これは音楽という現象そのものといっても良いかもしれません。生まれる前から、そして生まれた時も、その後の人生も時は同じ速さで流れてきました。

 やがて、それぞれの人生は、あたかも一つの曲のように始まり、終わりを迎えることになるでしょう。自分ではのんびりしているつもりでも、時計の針は淡々と、そして忠実に動いて行きます。すーっと融けて行く雪は美しく個性的な結晶の集まりですが、はらはらと舞っている時間はわずかです。美しい音色もまた、輝きながら瞬間から瞬間へと移り変わって行きます。

 先に生まれた音色に心を奪われてしまえば、今現在の音色に心を傾けることは出来ません。同時に、これから奏でる(待ち受けている)音色を気にすれば、やはり今の音色がないがしろになります。

 こうした音色の性質を通して、音楽が持っているメッセージに気付くことが出来るかもしれません。つまり、今と言う瞬間に心を集中することで、過ぎ去った音色も、これから待ちうけている音色にも心を繋ぐことが出来るということです。

 これはラウンドレッスンの時に大切にしていることの一つです。自分の息が注ぎ込まれて音色が生まれているということ。それを全身で感じ取ることが出来れば、過去も未来も意識からはなくなるでしょう。瞬間の音色に集中している状態から学ぶことは重要ですが、これは勿論頭で分かることではありません。むしろ、吹いて行くうちに気付くことなのだと思います。

 ああやって、こうやって、これもしたし、あれもした。こういう意識があると当然今の瞬間に心を注ぐ状態が失われてしまいます。どんなに美しい音色も、楽しい音色も、重厚な音色も、過ぎ去ってから、ああだった、こうだったと持ち出してくれば、今の瞬間の大切さを見失った音色を奏でることになるでしょう。心の思いは、過ぎ去った自分へのこだわりという音色になるのです。
 
 或いは、先に待っている音符へのこだわりが大きければ、今の瞬間は先に行くための、単なる通過点になってしまうでしょう。これまた、その音色に心が伴っていない状態になるのです。

 これは、生きて営まれるあらゆる事柄に当てはめてみることが出来るでしょう。愛するということは勿論ですが、その瞬間に心を注ぐことによって生まれてくるのは、感謝と喜びと安らぎ三兄弟です。

 このことに気付きますと、瞬く間に過ぎ去る時間の中にいても、今という時ををじっくりと味わうことが出来るようになっていくように思います。

0

2005/12/22

電波生活の豊かさと歪  ラブフルート

 数日前、北海道FM AIR−G’の生放送に行ってきました。今度のモエレ沼公園のホワイトクリスマスコンサートの案内のためでした。ほんの一瞬ラブフルートの音色をお届けしたのですが、果たしてどんな処に飛んでいったのでしょうか。

 考えてみますと、こうした放送電波と関わったのはFMラジオ・カロスが最初でした。パーソナリティーのお二人がわざわざライブを聴きに来てくださって、お招きいただいたのがきっかけでした。その後で、HBCラジオ、FMサッポロ村工房、FMメイプル、FMノースウェーブ、NHKテレビ、今回のFM AIR−G’となりました。何事かを続けていくと、それなりの経験が残るものなのですね。

 情報伝達手段がごく限られていた時代には、それこそラジオだテレビだとなると、それなりに印象が強かったと思います。しかし、あちこちから情報が発信されて、選択するのが煩わしいほどになっていますから、メディアに関わることはさほど珍しいことではありません。

 とはいえ、ひとつの場所で起こっていることが、一気に広がってゆく仕組みは、強烈なものだと思います。マイクなりカメラなりを媒体として、それが電波に乗って、受信装置を持っている人に届くのです。

 今ではだれも、電波に乗って音声や画像が行き交う世界を敢えて不思議だとは言わないでしょうが..こうした原理に慣らされて行きますと、直接は知らない世界をあたかも知っているような気になります。

 テレビの映像は実際の場所と随分違って写ります。それは、ファインダーという枠の中で映像が切り取られているために、別世界を作り出すのです。映像や写真にはいつも、そういう空間を切り出す作業がありますから。こうした映像のトリックを知っておくことで、情報の捕らえ方は随分違ってくるように思います。
さらには、映像の目的、価値観によって、同じ空間が違った世界に見えてくることにもなります。

 もう一つは、時間に関するものです。メディアを通して情報を受け取ると、果たしていつどこで起こった事なのかが判別しにくくなります。既に、過去の時間に起こったことなのに、あたかも今起こっているような感覚になってしまうのです。録音や録画という技術が電波と手を結んで、次々と私たちの生活に飛び込んでくるからです。

 こうした生活に慣れてしまうと、たったひとつの肉体を与えられ、限られた空間と時間の中で生きている自分自身に知らず知らず歪が出来てくるように思います。本当に感じて、知って、反応する生活が、どれほど豊かなものかを見失いがちになるような気がします。

 お互いの人生の出来事を、あたかもドラマを観るように、妙に客観的だったり、簡単にストーリーを作り上げて纏めてしまう癖が出てしまうようにも思います。強烈な出来事が、単なる情報になって過ぎ去ることにもなりかねません。

 現実の人生は、長い沈黙や苦悩や戸惑いがあったり、思うように進まず悶々とすることもしばしばです。お互いが直面している現実に、心や思いを伴わせるためには、忍耐も謙虚さも勇気も必要になります。

 電波生活の恩恵に十分感謝するのは勿論ですが、それと同時に、電波生活で心に密かな障害が発生していないか、お互いに顔と顔を合わせて、生音、生人間同士の会話を楽しみたいですね。



 
 
0

2005/12/16

冬のイルミネーション  ラブフルート

 この時期になると、どこかでイルミネーションを、見ることがあると思います。あれこれと工夫しながら飾られている光のオブジェは、それなりに美しいのですが、何か違うな〜という感覚が生まれてきます。

 とりわけ、葉をすっかり落とした樹木に掛けられているイルミネーションを見ると、違うな〜という気持ちが強くなります。枯れ木には枯れ木の美しさがあるのにな〜と思うからでしょう。

 虚飾、虚栄が取り払われた時に見えてくるもの。過去の経験も栄光も、功績なるものも色あせて、自分がただそこにいるというだけの人間になったとき見えてくるものの大切さを思うからかもしれません。

 まばゆいイルミネーションの頭上には、月の光があり、星達の歌が響いています。自分が枯れ木になったとき、果たしてその頭上には光り輝くものがあるのだろうか..

 与えられた命は、自分を輝かせるために使うことよりも、天上の光の美しさを分かち合うためにあるんだな〜ということ。それを枯れ木から学ぶことが出来るように思います。

 すっかりと、みごとに葉を落として立つ樹木は、あのキラキラ輝きながら風にゆれる美しい木の葉を身にまとった事もありました。それぞれの花を咲かせ、豊かな実も実らせてきました。果たして、それはどこからやってきたのか..それは大地と空に育まれて来たのではなかっただろうか..。

 電飾何万個を誇るよりも、一日一本小さなキャンドルの光を灯して、美しい冬の輝きを感じながら、残された命の光を大切にするために思いを向ける。そういう貴重な時間のプレゼントの箱を開ける冬の夜もいいかなと思います。

 こういう時は美しい姿のキャンドルも素敵です。輝く前の美しさを堪能して、いつかそのキャンドルに火を灯す..このキャンドルの名前は、なんと「フルート」なんですよ..

クリックすると元のサイズで表示します
1

2005/12/15

過去の意味  ラブフルート

クリックすると元のサイズで表示します

 過去とは何なのか..それはあまりにも漠然とした問いかけかもしれません。
ですが、何故か今回はそれを巡って感じたことを書き留めてみたいと思っているのです。過去とは何かという問いに対して、それを「過ぎ去った事実」と言い換えてみようと思います。そこには二つの事が浮かんできます。

 「過ぎ去った」という事と、「事実」と言うことです。

 過ぎ去ったと言うとき、それが明確に処理され、復元されたり、引き戻されることのないものと、現在にも何らかの形で関わり続けているものに分けてみると、整理がつくかもしれません。

 ところが、整理出来そうなのに、うまくいかないことに気付きはじめます。それは事実の意味と関係があります。

 自分が、自分なりに過去の出来事を意味付け、処理すること。それは事実の一面だけを捕らえているように感じます。悪く表現すれば、自分に都合の良い解釈をしてしまうと言うことです。或いは逆に、殊更に自分を卑下して、負いきれない罪悪感を抱き続けるかもしれません。

 人は生きている限り、自分以外の存在と何らかの関わりを持って生きていると思うのです。自分は思わなくても、相手は何かを感じている。或いは、自分は感じていても、相手は気付いていないということもあります。

 少し面倒な表現ですが、それぞれの内面の単純な違いが、事実の意味を複雑にしていくのです。気の強い人は、引き起こされた状況を自分なりに解釈して、事実の意味を処理してしまいます。気の弱い人は、そういう人に押し切られてしまうでしょう。気の強い人同士だと、お互いに抵抗し反発しあうでしょう。巧みな言い逃れや理屈、或いは事を単純化して処理しようとする..

 こうした積み重ねによって人生は移り変わっていくのですが、経験した様々な出来事の意味をどう受け止めていくかによって、現在から未来への繋がりが違って行くのは確かです。

 意味の受け止め方、自己流の対処の仕方が過去を作っているという表現は、ある程度理解できるかと思います。そうなると、過去の事実と言う言葉には、体験してきた人生の意味を、自分はどのように解釈してきたかという自問が必要になるでしょう。自分の心の姿勢はどうだったかをじっくりと省みることで過去は変化しますし、現在の意味も違ってくるでしょう。

 自分は正しいことをしているし、してきたと考えていけば、その心の姿勢が過去を意味付けるでしょう。自分は間違っていると感じていれば、根深い罪悪感をひきずる事になるでしょう。大抵は、その両面を持っているのですが、殆どの場合、自分なりに都合の良い解釈をすることで生き延びようとしてしまうように思います。

 なんらかの意味で、自分を肯定する部分がないと人生に行き詰まってしまうのですから...さらに言えば、自分は自分なりに極力善良で、正しいことをしようと努力し、実践してきたと思っているものです。

 そういう感覚で生きている自分が、他の存在と関わると、面倒なことが起こります。自分の感覚、自分の感情と、他者の感覚や認識が違うと、たちまち自分の言い分が顔をもたげるのです。この悲しくも、執拗な心の叫びは、どちらか、あるいはお互いが傷つくまで続くのです。仮に、そこに静けさが戻ってきたとしても、それぞれの心には明らかな事実、傷が残り続けるのです。沈黙や静けさの背後にはいつか顔を出すだろう自我の叫びが潜んでいるのです。

 その傷が本当の意味で癒され、叫びが退散しない限り、皮肉にも新たな傷を加え、さらなる叫びが起こり続けるのです。このとき自分自身が受けた傷のことがまず気になるとすれば、その段階で事実は曲げられていくでしょう。自己愛が心を支配している限り、事実の意味は偏り続けるのですから...。

 人生の根底にある問題の一つは、こうした自分自身の心の姿とどう向き合い、どう変わっていくかにあると言ってもいいでしょう。さもなければ、過去の意味がゆがんだまま、自己愛と自己憐憫を両脇に抱えて終わってしまうかもしれません。それは随分勿体無い旅になるでしょう。

 ラブフルートとの出会いが意味するものの一つは、自分自身の心の姿に気付くことです。それは手にしようとしているところから始まっています。厳密にはそれ以前の人生の状況から始まっていたと言ったほうがいいかもしれません。

 それが単なる楽器、音楽のための道具、自己表現の手段と感じているとしたら、ラブフルートを吹いてもさしたる変化は起こらないでしょう。一時的な好奇心で終わるでしょう。それはラブフルートに特別な秘密が隠されているという意味ではありません。そういうことになれば、ラブフルートがらみの宗教が生まれかねません。

 人生の背後に潜んでいる意味を知りたいと願うそれぞれの心の旅路があって、ラブフルートとの出会いの中で、その意味に気付き始めるということです。ですから、ラブフルートでなければならないのではなく、ラブフルートを通して自分の心に気付き始めるという出会いが待っていたということなのです。ですからラブフルートが、いわゆる音楽をやるためには制約が多いことは、見事な知恵だと思うのです。

 目に見えないけれど存在する私たちの心に、目に見えないけれど存在する力が働きかけて、それぞれの旅を支えてくれる。そういう道があることに気付き始めるためのプレゼントの一つがラブフルートということになるでしょう。

 そして見えないけれど、確かに与えられている道があることを知り始めたときに、自己愛というちいさな世界で生き延びようとしなくても大丈夫なんだと気付きはじめるでしょう。そして過去の意味も今与えられている様々な関わりの意味も自然に変化していくことと思います。変わるために、何かをするのではなく、変わることが喜びと感謝になる生き方に気付き始めるのだと思います。
0

2005/12/14

持ち寄りラブフルート  ラブフルート

 今年もモエレ沼公園のガラスのピラミッドでホワイトクリスマスの演奏をすることになっています。初めてのライブ企画のときからの出演で、今年で3度目になります。

 雪の夜に、貸切で暖かい飲み物手に、少し背を丸めてしばらくそーっと過ごしたいなと思うような空間です。

 不思議なのは地上に建てられたわずかなガラスの建造物にすぎないのに、随分と広がりを感じることです。
 
 大空に向かって、この空間は私のものだ〜と叫んでも、誰も文句は言わないでしょう。多少変な奴だなとは思われるかもしれませんが..その大空から見ればポツンとガラス張りの建物があって、うっすらと明かりが燈っているだけの空間です。

 ちゃんとガラスで囲われて守られながら、頭上には冬に輝く星たちが見え、舞い降りる雪をゆっくりと眺めることが出来るのですから、とっても贅沢な空間です。

 不思議なのは空間だけではなく、音の広がり方です。音が生き物のように、ガラスの空間を飛び回るのです。誰一人、自分と同じような響きを知ることは出来ないでしょう。一つの響きが、どこを辿って、その人の耳に届くのか予測できない。それほどに複雑に音が動き回るのですから..
 
 クリスマスにこういう空間に足を運んでこられるのは、どんな方たちなのだろう?その出会いもまた、音の広がりのように神秘的に繋がっていくのでしょう。

 ここでの演奏はどうしたらいいのだろう..それをずっと考えてきました。自分たちの曲を演奏するというだけでいいのだろうか。そこには、その場に相応しい音の世界があるのではないか..

 それは人々が出会い、互いの思いを感じ、分かち合い、それぞれが与えられた道を確かめ、それぞれの道を歩むために与えられた時間であり、空間なのではないかと思うのです。

 自分たちが何かを表現すると言うよりは、その場に与えられている生きた力と喜び、祈りと感謝に囲まれて過ごすときなのではないかと思うのです。

 クリスマスに欠かしてはならないもの、それは自らが人生に与えられている恩恵に心底感謝し、限りある人生で本当に心がしたいと思うことを知り、そこに生きることではないだろうか?

 その思いが一本の木の笛に注がれる時、聖なる調べが天空を満たすことになるでしょう。それに気付き、それを分かち合うために作られ、手渡されて来たラブフルートです。

 人生のラウンドレッスンに集われる方たちがおられるなら、是非ご一緒にホワイトクリスマスのオープニング演奏をしたいと思っています。

 当日3時から3時半頃までに来られそうな方は、是非ラブフルートをお持ちより下さい。吹くことが負担に思われる方は、手にして一緒に過ごすだけでもいいと思います。勿論、来られない方も、それぞれの場でちょっぴり吹いてみてください。心の気付きというプレゼントが待っているかもしれませんから..

 当日12月24日(土)の演奏時間は午後4時から4時45分までです。入場無料です。

1

2005/12/12

絵のような絵の世界..  ラブフルート

クリックすると元のサイズで表示します

 以前小さな案内を見ながら、いつか機会があれば訪ねてみようかと思っていたギャラリーに足を運ぶ機会が出来ました。不思議な輪の広がりがあって、ラブフルート・ラウンドレッスンの会場になったのです。

 初めてのところに向かうのは好奇心がうずいて楽しいものです。元気いっぱいの方々が色んなところから集まってこられましたから、それだけでも新鮮な気分でした。

 そこは札幌という都会のイメージがどこにもない自然そのものの世界に佇むお洒落なギャラリーでした。細やかでシャレた小物が出迎えてくれました。ドアを開けると、素敵な絵画の世界が四方を取り囲んで歓迎してくれました。

 静けさと暖かさが心地よく配置されたギャラリーは、椅子に腰掛けてそーっと眺めていたくなります。それぞれの絵の中には物語があり、秘密の扉が隠されていました。眺めていると空想力が湧き、詩や歌がどこからともなく流れてくるようでした。

 明るく広いテラスの向こうには楽しいバードテーブルとリスたちの食事場所が用意されていました。次々と訪れる小鳥たちの愛らしい動きをみていると、なんとも幸せな気分になります。

 昨年の台風で木々が倒される前はモモンガたちが可愛らしい姿を見せてくれたと聞きました。木々や野鳥や小動物たちの事を、我がことのように話されるUさんの姿は、生き生きとして輝いていました。

 初めて集われた方たちは、誰しもこんなに豊かで満たされた空間で過ごされているUさんとの出会いを感謝していました。個性的な音色が様々な流れを作って巡ってゆくラウンドレッスン。それは光溢れる空間いっぱいに広がり、新しい感覚を教えてくれたように思います。

 ウドゥとラブフルートのペア演奏も生き生きとして楽しそうでした。お互いの音色から、それぞれの新たな側面を知る機会にもなりました。持ち寄りの食事会としばしの語らいの時を過ごし、楽しさの余韻を残して解散となりました。

 それから数日後、私は工房の窓から、丸々と身体を膨らませて寒さに耐えている一羽の雀が、警戒しながらバードテーブルに飛び移るのを見ています。
 
 この子が生き延びて、来年の春に元気な姿を見せてくれるだろうかと少し気になっています。自然世界の生き物たちは、私たちが暖かい部屋で過ごしているとき、一体どこで寒さに耐え抜いて、再び餌台にやってくるのでしょう..

 よくみるとその子には、まだかなり産毛が残っていました。幼さのためか、極度の空腹のためなのか、人を恐れることを知らないままバードテーブルでしきりに餌を食べています。初めての冬に直面しているのです。あまりの寒さのためか、体調を崩しているのか、しきりに排泄しようとしているのですが、上手くいきません。気になって工房の作業が進まないほど、何度も様子を伺いつつ過ごしました..

 今日は一段と寒さが厳しくなっています。何とか明日の朝、姿を見せてくれるだろうか..と思いつつ、殻のない食べやすくて栄養価の高い餌を買い求めて置いて見ました。元気で生き抜いて欲しいな..という思いが何度もやってきます。

 この冬、必死で生きて、必要な食べ物を求めているのは小鳥だけではないでしょう。或いは、食べ物は満ち足りていても、心が冷え切っている人もいることでしょう。厳しいのは冬という季節ばかりではなく、それぞれの人生にも冬がやってきますし、困難はあります。

 生命の炎を携えてくるのは誰か?深い海の底にある太陽の炎を、その小枝に灯して分かち与えようとするのは誰か?レイバン=ワタリガラスの神話が心の中を駆け巡ります。

 レイバンが咥えたラブフルート。そのラブフルートのバードは、命がけで手にした生命の炎です。その炎は大きく広がり、ラブフルートを吹いて旅するココペリとなって人々の間を巡る..
 
 あれこれ思い巡らしているうちに、シンボルマークをデザインしたときの記憶が蘇りました。ラウンドレッスンで感じた優しく、穏やかで、力強いメロディーが、出会う人々の心に新たないのちを灯すことが出来たなら..と思います。お会いした素敵なミニココペリたちが、それぞれの与えられた場所で暖かい炎を灯すことになることと思います..

 それぞれの目の前に、凍えながら生き延びようとする小雀がいるかもしれません。その姿に気付く心が欲しい..そして、自分に出来ることをそっとしてみる小さな勇気が欲しいですね。

1

2005/12/8

交通事故死  ラブフルート

 人が必要のために移動する。この単純な行動が死を招く。その生々しい状況に直面しました。決して珍しいことではないのかも知れません。でも、それが自分の限られた生活の中に飛び込んでくるとき、自分でも予想のつかない微妙な心の動きに戸惑いを感じます。

 このラブフルート日記に、何故交通事故死なのか..その唐突さが不可解だと感じるように、突然の死が目の前に起こったのです。多分、事故直後数分のところを通り掛かったのですが、白いジャンパーで血を流して倒れている女性と跳ね飛ばされた自転車。深刻な表情で携帯電話を掛けている青年。こなごなのフロントガラスなどが残像として焼きついています。

 その光景が妙に気になりながら過ごした、その深夜、テレビニュースで事故の事が報じられ、女性が亡くなられたと知りました。

 何気ない日常に突然やってくる死。或いは、人を殺してしまうという状況。それは一般に教訓として語られる言葉とは明らかに違っていました。あまりにも当たり前の空間に、それは突如として起こるのだという現実。それを肌身で感じたのだと思います。それが自分自身に起こるのだと痛感したとき、あれこれと並べられる知識も思考も経験も消え去り、重たい空白だけが目の前にあるのです。

 悲しさでもなく、空しさでもなく、憤りや抵抗でもない。妙に冷静な感覚でもなければ、客観的な認識の表明でもないのです。死が云々、死後が云々、前世がどうで来世がどうかでもない..

 予め予測のつく死ではないからこそ、その事実が示すことは鮮烈なのだろうと思います。生きていて、呼吸が出来ればラブフルートは吹けますと何度かレッスンでお話してきたのですが..

 何故、今このときに、こうした死に直面したのだろうか..自分へのメッセージはどこにあるのだろうと思いめぐらし続けています。一つだけ、強く感じているのは、生きている、生かされている現実が、どれほど豊かさに溢れているかと言うことでした。生きていると言う事実の凄さでした。

 あまりにも多くの恩恵を与えられている自分がいることを鮮明に照らし出してくれたのです。動ける、感じる、表現できる..見える、聞こえる、触れられる、作れる、話せる、食べられる..この当然と思い込んでいる人生の恩恵をひとつひとつかみ締め、喜び、感謝して生きる。そういうものとして命が与えられている。

 そこには存在しているという事実そのものに、十分喜びや幸せが満ちているのだという確かめが起こるように思います。

 何の曲を吹くのでもないけれど、ラブフルートを吹いているということ、息を注ぎ込んでいる瞬間を感じるだけで十分満足していますという言葉が、時折レッスンの中でささやかれます。

 それは私が分かち合いたい、大切にしたいと思っていることの一つです。あれができる、これができるといった、できることが途絶えたとき気付くことがあるのだと思います。

 ある意味で、愛の中に生かされていることに気付いて、死を迎えるために備えられた秘密の笛、神秘の旅を支える杖として、ラブフルートが用意されていたのかもしれないと感じるときがあります。

 ネイティブ・アメリカンの棺の中から取り出された笛は、その人の人生が愛の旅路をたどったのだという印だったのかもしれないな...そんなことを思いながら冬の夜にキャンドルを灯してみました..。

クリックすると元のサイズで表示します
1

2005/12/1

原材料を訪ねて..  ラブフルート

 ラブフルートになるための樹木を求めて知人の木工家と一緒に車を走らせました。数年前にイチイ(オンコ)を分けていただいた古い工場には82歳の元祖トラック野郎が待っておられました。(戦時中は魚雷の修理をしていたけれど、このままでは駄目だと、一念奮起して車の免許を取得し、トラックで稼ぎまくっていたとの事でした)
 
 北海道の山奥から切り出されたイチイの中でもとびっきり素性の良い材料を真っ先に買い付けて蓄えてきたのだといいます。成長の遅いイチイ。その中でも節がなく目の詰まった美しい板でした。幅49センチ長さ2メートル10センチ、厚さ43ミリ。これを一枚だけ特別価格、12万円で分けてあげようということになりました。

 つい最近、20年ほどしっかり使い込んだ冷蔵庫を惜しみつつ引退してもらい、かなり思い切って新しい冷蔵庫を買わざるを得なくなったのですが、その価格が11万2千円。

 ただの板切れ一枚と最新式の冷蔵庫を比較してもさしたる意味はないのかもしれませんが、ここ最近の大金にまつわる出来事なので、おのずと比較してしまうのです。

 ここ4〜5年の生活では工房にしている中古のハウス以来の最高額の買い物なので、少々興奮気味ということもあるのですが..帰り道は頭の中が12万円のことでいっぱいでした。なんの予約も注文も入っていないのに..どうしようか..と。

 「テーブルにしたらとってもいい木目だな〜」と言う同行した木工家のひとことで、フルートにするために立派なイチイを刻んでしまうのは勿体無いから、ひとつ立派な椅子かテーブルを作ろうかなどど邪念が湧いてしまうほどでした。

 こういう事態が起こるときには、自分では知ることの出来ない出来事が待っていて、ちゃんとイチイの行き先があるんだろうな..とは感じているのですが、とにかく当面の状況を切り抜けるための知恵がないと困るのは目に見えているのです。

 自分の人生に、一枚の板切れをこんなにお金を使って買い求め、それに手を加えて、求める人たちにお分けするという状況が待っているとは、思ってもみませんでした。

 勿論、イチイにしても、自分がこれからラブフルートなるものに変化して、見知らぬ人間の手に渡り、その人の息を吹き込まれ、開けられた小さな穴を指で開け閉めされるとは思ってもいないでしょう。ましてや、美しい音色を響かせるようになるなんて...

 果たして、このイチイの巨木が北海道の原野のどこで生まれ、育まれ、目にとめられ、切り出され、ひき割られ、板になったのか..それを想像しただけでも楽しく、豊かな世界が広がります。

 さらにイチイがラブフルートになって出会うだろう人々との関わりを思うと、さらに世界は広がります。人生に未知の部分があるのは幸せなことです。知っていることは、賢くて優れたことではあるのでしょうが、知らないことによって生まれる可能性と自由な想像力もまた魅力的かなと思います。

 冷蔵庫は限りある肉体の楽しみと必要を蓄えて生かしてくれる知恵の結集ですから大切に使いたいなと思います。同時に、見えない世界の秘密と知恵を知らせてくれる一枚のイチイの板切れからも、たっぷりと充足した人生のプレゼントを受け取りたいものだと思っています。

 白紙の原稿用紙のような一枚のイチイの板。ここに、これからどんな文字が書き込まれていくのでしょう。板切れが、どんな風に変身し、どんな出会いと繋がっているのか、楽しみと喜びの予感のひとことをまず、へりの部分に書き込んでみました。
1



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ