2006/7/29

いちかんけい  ラブフルート

 じぶんの心を見つめる。この表現が的確なのか..ふと考えてます。寝起きに自分の手を見たら、焦点が近すぎてぼやけてました。当たり前のことですが、そうか近すぎると見えない、身体がそういう構造になっているんだな..と。

 それでは、どのくらい離せば見えるのかなと思って、手を動かしていくと15〜18センチくらいでした。老眼のせいかもしれませんが..。手前味噌になりますが、そうだラブフルートのバードの距離じゃないか!最初はこじつけになりそうだなと思いましたが、そうでもなさそうかなと思って書き始めたというわけです。

 バードとの距離もそうなのですが、もっともっと短いラブフルートの長さにも近いなと気づき始めました。短いもので15〜18センチ。少し長くて20〜25センチ。もう少し長いのが30〜35センチです。このラブフルートは少しずつ旅立ちをしています。中には、こういうフルートが欲しいというご指名もあります。
 
 当初は手軽で身近でかわいくてという路線だったのですが。完璧にクローズすると全長70センチのフルートと同じ音域になるのです。勿論、ペンタにするために下端部のホールを調整すれば一人前になるのですが...

 このフルートを吹かれる方々の印象、感覚は、やわらかい音色が全身を包み込むようだと..。ラブフルートは歌口からバードまでの空間が極めて特徴的なのですが、さらにこれがバードの下の管が完全にふさがれていることで、不思議な音の流れが生まれてきます。

 目を閉じてゆったり息を注いでいると、ある種の体内回帰的?になるのかもしれません。楽器と身体の位置関係。音が生まれてくる状態。程よい位置関係があって、少し自分の心を感じられるのかもしれません。

 多分、人と人の関係もそうなのでしょうね。これは微妙ですし、相手も生きて、動いてますから...
そこが面白いのですが..。

 雑感、そして雑感を書き終えてから、どうも自分の書いたことを自分でも改めて確かめたくなり、きつい製作作業を終えてからあちこちの公園に自転車をこいで出向いては、もくもくと吹いてます。吹けば吹くほど、こうじゃないな〜ということが浮かび上がってきます。それと同時に、こうかな〜ということもゆっくり浮かび上がってきます。難しいという表現をすれば、確かにそうです。こういうプロセスが楽しく贅沢なものだといえば、これまた確かにそうだなと感じます。

 与えられた人生の持ち時間の中で、じっくりと受け取って行ければいいなと思っています。ラブフルートリングがいろんな形で繋がって、いつか老人施設に入ることでもあるとしたら、そこでラブフルートを杖にした方たちとお会いするかもしれません。その時は、施設の職員の方々や来訪者の方々のためのミニライブが始まるかもしれません...余談でした。


 
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2006/7/28

雑感、そして雑感  雑感

 吹奏感覚がない。これはラブフルートの特徴の一つかもしれません。初めて手にされる方は、どちらかというと強く吹き込もうとします。吹くとか鳴らすという時は、なんらかの力が必要だと考えるのが普通です。それが一般的だとすると、ラブフルートはかなり吹こうとする力の少ない楽器ということになるでしょう。勿論、作り方一つで、強く吹かなければならないようにすることもできるのですが..。

 初めての方には大抵、もう少し呼吸を抑えて吹いてみてくださいということが多くなります。すると今度は極端に弱くなったりします。強く吹くことも、弱く吹くこともそれなりにエネルギーを使います。
 
 そのどちらでもない、無理のない、程よい状態で..とはお伝えするのですが、これは何度も吹きながら身体で感じ取っていただくしかありません。勿論、それは自分自身が常に学び続けてることでもあります。

 ここで興味深いのは、自分と関わっているものとの関係です。強く押せば鳴る。こういうやり方で生きてると、押し付けていることが普通状態ですから、それが相手にプレッシャーを与えすぎているという自覚は少ないでしょう。がんばっていっしょうけんめい生きてきたのでしょう。それは自分が生きるという点では、構わないのですが、どちらかというと相手への思いやりが乏しくなる傾向があります。相手への思いやりも、いっしょうけんめいするでしょうから、これまた押しの世界のひとつになるかもしれません。ですから、時々フルートのことをよ〜く思いやって、一緒に歌えるようになるといいですね..と口にすることがあります。

 正しいという思いと強さが手を結ぶと、やっかいなことがいろいろと起こり始めます。これは人と人は勿論のこと、人が生きている世界のどこにでも起こっていることですから、ずっと課題であり続けるのでしょう。

 では、何もかも捨てて無の境地に立てばよいのでしょうか?ですが、ここにも矛盾があります。無の境地を中心にしようとする価値観ですから、ここにも何らかの力、方向性が生まれてきます。力や流れが生まれれば、必ずといってよいほど抵抗や対立や、より真実なものという動きが出てきます。

 じゃあどうすればよいのか...と困惑し続けるのでしょうか。それとも、まあ、人間なんて、その繰り返しさ...と開き直ることにもなるのでしょうか。

 ひとつのヒントは、死に近い世界との接触にあるかもしれません。政治、紛争、環境、教育、思想、
個人..そのどれもが限られた視点であり、狭い捉え方ではないだろうか。結局人生が何なのかというとても個人的な問いへの答えが残る..。そんな感覚になるかもしれません。

 つまり、その人がどんなことをやってきたかという行為ではなく、その人はどんな人なのかという素朴な世界があるような気がします。そのとても個人的で奥深い世界が、かなり貧困になってるのかもしれません。それをなんとかする必要があると感じて、短絡的なセミナーや物珍しく興味深い価値観や人生体験に集まって、なんらかの結論めいたものを表明する。それは情報の多い世界ですから、自然の反応かもしれません。

 ただ、ほんとに一人になって、自分はどうすればよいのかな...と見つめる。自分お心がほんとに必要としていることを知る。単に、少し見つめるのではなく、見つめ続ける..そういう具体的な時間の継続が必要かなと思います。その時間の中で自分の息の吹き込み方を感じ、笛(木)と心がつながる状態をじっくり感じとり、自然に内面が変化していく...そういう生活時間の継続。

 演じて、表現して..そのための楽器はいろいろとあるのですが、自分の心の奥を見つめられる楽器は少ないかもしれません。というより、どんな楽器も自分と向き合う繊細な動きと繋がっているのでしょうが、どうも作るときの方向性が違ってきてるのかもしれません。

 作り方や音の性質が、見せる聴かせるために有用であることが求められているのかもしれません。
楽器は人の状態を作り出すものでもありますから..みんなして主張し、自己満足する流れから、静かに深く自分の足元を見つけられるようになるといいかなと思っています。

 ラブフルートの構造は、それを比較的やさしく助けてくれるかもしれません。時代の潮流にはそぐわないけれど、人が本来もっている内面の豊かさや知恵深さに気づく。それは、そういうものを求めている人たちのところに届けられいくのでしょうね。
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2006/7/25

透明な朝  ラブフルート

 近くの小さな公園にラブフルートを担いで、自転車に乗って、朝のひと吹きに出かけてきました。あいにく道路工事をしていて少し残念でしたが、人の耳は必要なものだけ聞き取ることができますから、そそくさと公園に入りました。

 足元の雑草が目に入って、ゆっくり眺めながら吹いているとき「ああ、風は透明なんだ..」と思いました。そーっと短い草を揺らしている風。そういえば、このフルートは自然の中で学ぶものなんだ..と思い返してみました。

 笛を吹くために、フルートやリコーダーやその他の吹奏楽器の教本をあれこれ読み漁っていたころを思い出します。どの演奏家がどうで、あの吹き方はこうで..。人は、あれこれこういうことを考え出したり、理論をくみ上げたりする習性がありますから、次から次へとその類のものが現れます。そして知らないうちに誰かのどこかの流れに属していることになってる...誰それに師事したという類が一つのステイタスにもなる。それはひとつの価値観ですし、大切な要素が含まれているのだと思います。では、自分はどんな吹き方をするのか..。

 今回、公園で過ごして感じたのは、透明な風が草花の上を流れるように息を注いでみようかなと思いながら吹いてみると、まるで自分自身が透明になって一緒に流れているような不思議で心地よい感覚になっていました。木の響きが、周りとひとつになって溶け合ってる。

 木々の様々な音色があるのですが、その音色が光を通す透明な響きになって流れる。そんな風に吹けるといいな..と思いながら、短い時を過ごして来ました。そうそう、道路工事の騒音はまったく感じず、小鳥たちの声が音色と交じり合った楽しさだけが残りました。
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2006/7/23

聴く..感じる..  ラブフルート

 音楽は聴くものではなく、感じるもの..。

 それは自分で演奏している時や、レッスンの時、そしてネイティブアメリカンのあるCDから感じたことでした。音楽として聴こうとすると、どこかに解釈や価値判断が生まれてくるように思います。音程、リズム、メロディー、曲としての構成、アレンジなどなど..

 指揮棒を持って曲を纏め上げるという関わりを10年以上やっていたことがあるのですが、そうした関係にいつしか限界を感じてきました。それはそれなりの結果が出ますし、成果も評価も生まれてきますし、それなりの意義も価値も持っていると思います。

 ただ、そうした活動の中で、徐々に自分として生きることの大切さという視点から音楽とかかわるとしたら、一体どんな生き方になるのだろう。それを感じ、考え始めていたように思います。

 小さな体験と認識でひたむきに自分の思いを表現していた時期。思いのままに詩を書き、曲を書きとめ、歌い続ける..。そこから学んだこともたくさんありました。

 やがて自分の未成熟さに直面し、主張し表現することの空虚さを感じるようになりました。向かっていき、表現するという流れから、自己の内面の実質性こそが問われているのではないかと...。

 それは言葉を伴う歌よりも、素朴な楽器だけの表現を試みるときに鮮明に浮かび上がってきたのです。言葉の素晴らしさはもちろんあるのですが、もしその言葉を持たずに音で現すとしたらどうなるか...逆に言えば、言葉によってある種の欺瞞性が生まれていたのではないか..言葉をなくしてしまえば、そこには荒削りで稚拙な自己表現しかなかったのではないか。この頃から、音楽の持つあまりに直接的な表現手段に耐えられなくなり、15〜16年音楽と関わらずに過ごしてきました。

 何よりも、自分の実質と向き合う必要を感じながら、ガラス、陶器、写真など、言い逃れのできない、歴然とそこにあるもの、紛れもなく自分自身が生み出した現実と向き合う期間を過ごしました。そこでは、それまでに見過ごしてきたものがたくさんありました。

 そんな自分が、再び音の世界に触れることになったのは、最低限の内的要素、自分自身の実質性を受け止め、それを欺かずに、今生きている自分を自分として生きるという道がゆっくり形成されてきたころでした。それがラブフルートとの出会いという形になったようです。

 その音の響きと心の流れが時を経て繋がったのだと思います。思想、宗教、哲学、心理学、芸術論、神秘学などなど、それなりに時間をかけて手探りしてきたのですが...。
 
 「そんなもん持ち出されてもわけわかんない」そういって背を向ける人たちが、ふと振り返って心を傾ける音色との出会いでした。「立派な音楽や腕のいい音楽家は、俺たちとは関係ないし、よくわかんない。」そういう人が、ひょっとしたら自分も音を楽しみながら、心との繋がりに気づき始めるかもしれないと思えるような音色でした。その音色は素朴にやさしく表現できる笛から生まれてきますから、構造そのものもやさしさと個性を併せ持つものでした。しかも自然の木を、できるだけそのまま生かしながら生まれてくる笛でした。

 この素朴な笛の音と関わっていく中で、ほんとにすこ〜しずつですが、自分たちが生かされている世界を静かに、しかし力強く流れているものに気づきはじめているような気がします。それは、この世界はこうだ、ああだと説明したり主張する、やかましく性急な流れではなく、ゆっくり深く吸い込んでは吐き出す呼吸の中で感じていくものかなと思います。それを感じている生命、状態そのものが大切なのでしょうね...
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2006/7/21

オオムラサキ  雑感

 プライベートで車を走らせたのは今年になって初めてかもしれません。振り返ると、今年の前半は思ったより忙しく過ごしてきたようです。調度オオムラサキのことが記事になっていましたので、思い切って国蝶オオムラサキを見てきました。栗山町にある「ファーブルの森」にたくさんいました。閉館4時とは知らずに4時5分前に到着。一目だけでもと思って飛び込みましたが、来訪者がたくさんだったので多少食い込んでも大丈夫とのことで、ほっとしました。

 日本国民である以上、一度は見ておかないと...?!オオムラサキはエノキ=榎の葉を食べて成長し、羽化する蝶でした。幼虫は榎の葉っぱから生まれてきたような美しく明るい緑でした。紫が美しいのはオスでした。メスは茶色でやや大きめでした。ガラスで囲われた空間にはバナナやビールや甘い飲料水を含ませたスポンジがたくさん吊り下げてありました。蝶が吸うためです。半額品のバナナとかを買ってくるのですか?と尋ねた私は自分の日常を暴露してしまいました。「いえいえ、高級なバナナを購入しています」とのことでした。説明してくださった男性は、さらに「発泡酒じゃ駄目なんです..僕も飲めないようなビールを飲むんです..」と羨ましそうに話してました。さすが国蝶??これからはバナナを食べる度に、オオムラサキを思い出しそうです。

 栗山町はオオムラサキ生息の北限とのことでした。エゾエノキを食べて羽化し、飛び回るオオムラサキは日があたると飛び回り、日がかげると動かなくなります。わずか2週間のいのちだということでした。

 その場所にあったパネルに見たことのある虫が写っていました。昨年見かけたものと同じ姿でした。しかも出かける直前に眺めていましたので、思わず目にとまったのです。今年もフェンネルに10匹ほど群がって葉を食べていましたから調度よい機会でした。とても美しい幼虫。その立派な幼虫はキアゲハの幼虫でした。

 数日でグングン大きくなります。ときおり仕事の手を休めて眺めるのが楽しみです。今更ながらに、不思議なのは、どうしてこれが美しい蝶になるのだろうということです。そればかりか、モタモタ、モゾモゾ動いていたのに、やがて空を飛ぶようになるのですから...。それを知ってか知らずか、彼らはひたすらモグモグ食べ続けています。

 自分は食べ続けていると、ブクブク肥満体になるのに、彼らは蝶になるのですから、随分違うものです。もうひとつ違うのは、彼らはサナギという道を辿る事です。じっとして天の摂理を待つことを学ぶとき、蝶になることを知る...。そういうメッセージを送るためにやってきたのかもしれない..。

 フェンネルのやわらかく細かな緑にやってきた彼らは、あの男が深い知恵を学ぶにはまだしばらくかかるだろうな..そんな噂をしているのかもしれません。果たして自分は、今の人生が、幼虫なのかサナギなのか,はたまた蝶なのか知ってるだろうか?
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2006/7/16

せんこうはなび  雑感

 ピンクの美しい花を咲かせたブラックベリー。その下のほうに小さな鐘。その下にトランク池と10匹の金魚。キャンドルを灯して、時折流れる風の中でコオロギの鳴き声を聞く。なかなか正確なリズムを刻んでいる..あの響きが羽をこすり合わせたものだと知れば知るほど、音の不思議さを感じます。これまで生きてきて、一番じっくりと虫の音色に浸る時間でした。知ってるつもりでも、ちゃんと向き合って時間をともにすることは少ないものだな..と思いました。

 作業で右手を傷めて思うように作業が進められなくなり、しばし休息が必要になったこともあり、ゆっくり日記を書いたり、風知草を眺めたり、アリの動きを観察したりしてみました。こういう時はカリンバなどをのんびり弾いたり、お茶をゆったりと飲むのがいいです。

 こんな時間は実に久しぶりです..。昔は時間があると、カメラを用意して、すぐに野山に出かけ、キャンプをしたり釣りをしたり、料理を楽しんだり、スケッチしたり活発に動いていましたから..。
 
 今は、笛も、吹くより手にとってじっくり眺めたり、あれこれ木のことを思い巡らすのがいい..。ひょっとしたら老化?いや、ほんの生き抜きです。

 夜になって一昨年前から残してあった線香花火を持ち出して池の前で楽しむことにしました。火をつけた途端、鼻をつく花火の臭いがしてきました。その瞬間、幼い頃の夏のひと時が一気によみがえって来ました。

 お気に入りの浴衣を着て、花火を楽しんだわずかな体験が一瞬の立ち上る火薬の臭いでよみがえりました。ちょっとしたタイムスリップが起こったようです。
 
 もう少し見ていたいと思っているうちに、落ちてしまう線香花火。期待と楽しみと儚さがわずかな時間中に流れていく..。もう一本、もう一本..。人の心に最後に残るのはなんだろう..。

 同じようにやってくる夏ですが、年毎にそれを受け止める自分に変化が起こっているようです。気がつけば、自分の人生も巡りくる季節のように変化していくものなのだと....。

 翌朝、花火を片付けていると、さらにたくさんブラックベリーの花が開いていました。金魚たちもひとまわり大きくなり、色も鮮やかになっていることに気づきました。
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2006/7/13

リサイクル池  雑感

 旅行に使っていたトランクをそのまま捨て去るのは勿体無いので、何か利用できないかな..と思っていました。その結果道路脇の小さな庭の池にすることにしました。ブラックベリーの根元あたりに置いて石と古い丸太で囲って、メダカより安い金魚たち10匹の住処にしました。

 トランクを分解しながら、子供のころ目覚まし時計を面白くて分解しているうちに元に戻らなくなって無理やりゼンマイを押し込んで蓋をしておいてたっぷり叱られた記憶があります。まずは中身がどうなっているか分解する..素朴な好奇心だったと思います。もう少し成長したときに、時計屋さんになりたいなと思ったことがあります。同級生のお父さんが時計屋さんだったので、よくのぞきにいって、時計屋になりたいと話したことがありました。すると、体壊すからやめたほうがいいぞといわれて、少しためらいました....。

 まあ、分解したトランクから色んな思い出が引き出されてきて楽しい時間になりました。トランクの池を眺めているだけで、このトランクを持って出かけた色んな旅のことも思い出せますから、それもまたいいものです。石を入れ、水草を入れて、蒸発した水分を時々足してあげるだけで、後はそのまんまで十分金魚たちは成長しています。毎朝、10匹全部いるかな〜といいながらご飯?を上げています。

 彼らの動きを眺めていると、狭い中で実に生き生きと泳ぎ、好奇心をもって探検し、仲間と戯れたり列を作って泳いだりしています。ちょっとした足音や影や風や小枝の揺らぎに敏感に反応して身を隠す敏捷さと、のんびり水面に上がってきてただよったりしています。

 もっともっと別なところで..ではなく、いま自分たちが置かれているところで生き生きと生きている姿を見ていると、仙人や賢者が金魚に化身して、何事かを語ってるのではないという気分になってきます。そう思うと、なかなか楽しいもので、今日はどんな事を伝えてくれるのかな..という生活が生まれてきます。

 そういえば、亡くなった母が漬物好きで、物置にたくさんの漬物桶がありましたので、その中の大き目のものを利用して玄関先の小さなスペースにもうひとつ別の池を作ってメダカ10匹と過ごしています。これがまた元気いっぱいで、店頭にいたころとは違って色も動きもたくましくなっています。こういう姿から自然と喜びや励ましを受け取っている自分を感じます。

 青空模様の服を着た記念?新しい夏を楽しく過ごしたいと思ってブログを少し変えてみました。同じことが書いてあるのに、ずいぶんと印象が違ってくるものです。
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2006/7/10

衣装と踊り  雑感

 衣装と踊りと絵画と音楽。先日、茶廊 法邑ギャラリーで過ごした空間は、いろんな世界が詰まっていました。この空間でラブフルートを吹く時間がありました。マイフルートを手にされた方たち6名の音色を受けての演奏でした。
 
 この空間で感じたことはたくさんありましたが、今回は踊りと衣装について感じたことを書いてみることにします。どちらかというと、どちらも苦手な世界なので、これまでは、どことなく一歩引き下がって眺めて来たように思います。

 ところが今回は、少し接近したような気がしました。ひとつは、渡辺輝子さんのファッションショーの雰囲気のせいかもしれません。いわゆるスーパーモデルが登場するかと思いきや、全員彼女の作品を着ているお客様でしたから、とっても身近な感覚でした。彼女の服を着ることを楽しみ喜んでいる姿が心地よかったのです。終始笑い声の絶えないショーになりました。そんな中で、私も用意された服を着ることになっていましたので、ドキドキものでした。こういうことでもないと、自分では決して着ないような服を着ることになりました。これは面白い体験でした。子供のときに、大好きなキャラクターの付いた浴衣を着たときの感覚が一瞬よみがえって来たのは意外でした。

 好きなものを着る喜びと楽しさ。これは長らく忘れていた感覚でした。着るものにはほとんどお金をかけたことがなく、古着を頂いて着るという生活がかなりありましたので新鮮でした。演奏のときもほとんど黒子風の服を着て済ませてきましたから、今回いただいた(またいただきものになってしまいました..)青空いっぱいの服は不思議な気分になりました。身体の中を風が流れて、明るい光がいっぱいになるような感覚でした。勿論、恥ずかしさはあるのですが、用意してくださった心が嬉しく感謝していましたから、なんとかモデルの一人として参加できました。

 ボロボロにならないと次に着るものを買わない..いやボロボロになっても、まだ大丈夫とかいって着てますから、今回の出来事は画期的でした。そして、衣服を着る楽しみを持っている方たちの感覚にほんの少し触れたように思います。そういえば、インディアンたちも随分とおしゃれしてる人がいたな...楽しんでいたのでしょうね。衣服の色彩やデザインには、たくさんの音の流れや響きに似た感覚がありました。それぞれの色彩を身にまとって歩いたり、動いたりするとき、その全体が音楽と同じだな..と思うと楽しくなりました。

 多分、自分は残りの人生も、地味な服で過ごすのでしょうが、笛を手にして息を吹き込み身の回りを音の色で包んで生きるのだろうと思います。

 もうひとつは踊り。学生時代のフォークダンスが最初で最後です。サインダンスを皆さんで踊ったりヨサコイの若者たちの踊りが目の前でしたから、人間ってこんなふうに体を動かして生きるものなんだな...と感じました。踊れば楽しいのだろうけど、多分絶対さまにならないことは自覚していますから、眺めて楽しむのが自分向きだと思いました。もう少し積極的な表現をすると、自分は笛を吹きながら踊っている..その音の流れ自体が踊りなのだ..と気づいたのです。笛吹き流の踊り手だったのです。

 時々、フルートのレッスンの中で、音の絵筆で空間に自由に絵を描くという表現をしたり、新しい自分の声を持つとお話してきましたが、今回の展示会の最後に皆さんが参加して、叩いたり声を出したドラムやフルートとの時間は、まさに絵画、踊り、衣装の全体を包み込む時間だったように思います。
楽しくさわやかに過ごしました。ありがとうございました。
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2006/7/10

演奏会・南米の音色  ラブフルート

 自分自身が演奏活動をしていると、聴きたいと思う演奏があっても、打ち合わせや演奏の日程が重なることが多いため、なかなか足を運ぶことができません。ところが、今年は珍しく、地元の石造りの会場で南米の音楽を聴く機会ができました。聴衆として座っているときは、当然のことながら血圧はそんなに上がりませんし、脈も速くはなりません。
 
 ギターを弾いたり、歌っていた頃には南米風の音楽も好きでしたが、何故か今は北米の音楽とかかわっています。フルート5重奏やリコーダーアンサンブルでバロックにかかわっていた事もありますが、何故かサンポーニャの素朴で奥深い音色には心惹かれるものがありました。シンセサイザーを弾きながらサンポーニャの音色を楽しんでいましたから、生音でじっくり聴けたのは嬉しい事でした。また、会場に向かうときの知人との会話の時間、演奏後の会話もあれこれと楽しい時間になりました。

 調度一年ほど前に、笛尽くしのコンサートをやりませんかと声を掛けたのですが、個々にはいいですね〜といいながら、うまく全体の流れがつかめず、殆ど立ち消え状態になっていました。ところが、今回のサンポーニャ奏者とお話が出来たことで再び可能性が出てきました。

 それぞれホームページを持っておられるので関心のある方は検索してみてください。ケーナやスチールフルートの河辺晃吉さん(リンク先として掲載しています)。ウッドゥンフルートやペニーホイッスルその他マルチプレイヤーの扇柳トールさん。サンポーニャをメインに同じくマルチプレイヤーの岡田浩安さん。この3名に自分が加わって笛三昧のコンサートをしてみたいな..ということに..。具体的に実現するためには、少し準備が必要です。会場やスケジュールなどを検討しながら実現できればいいな..と思っています。音域は狭い、音量も乏しい、ペンタトニック5音階のラブフルートは、巧みな笛奏者たちの優れた笛や演奏に圧倒されそうですが、なんとか仲間に加えていただいて精一杯歌えればいいなと思っています。

 ただ、そのためには何よりも自分がかかわっているラブフルートそのものとの繋がりを深めていく時が必要だと感じています。さまざまな笛がある中で、自分が出会った笛が何なのか、新たな視点から感じ、学び、受け取りたいと思っています。

 これまでレッスンの時にお伝えしてきたことを自分自身の中でじっくりと消化する時間をしっかり生活の中に組み込みながら、笛三昧のコンサートの準備をするつもりです...。
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