2008/5/30

アパッチの末裔  雑感

  5月の赤井川村は好天と新緑の眩しさに包まれて嬉しい空間でした。フルートいっぱい、ドラムもいっぱい積みこんでアパッチ族の末裔たちとの再会となりました。ゆったり歩きながら堪能したい景色の中を道に迷いながら車を走らせました。手前にはホピの丘があって、すでにネイティブアメリカンらしい空気を感じながらが、初めての森のテラスに向かいました。

 懐が広く、深く、待ち受けて、包み込んでくれるような森のテラス。その姿は、そこにあるだけで勇気や慰めや喜びを呼び起こしてくれそうで、樹の館といった印象でした。森がそのまま建物に姿を変えているんだなと思いました。

 アパッチインディアンの知恵を伝える講師の二子さんは、名前の通り意識性と無意識性の二つの世界を繋ぐ橋を行き来しながら、素朴で奥深い知恵を伝えてくれました。忍者とネイティブアメリカンが合体したような言葉と動きを楽しみながら過ごしました。

 素朴な行動と瞑想的な空気で森の中をゆったりと進んでいく一行は、みんなで一つの生き物のようでした。心が持つ、豊かな世界をそれぞれの個性が具現化している。そんな感じで、キツネの足になったり、獣たちの目になったり、耳になったり....。群がる虫も仲間だから、じっとしてれば刺されない?そんな気になりそうでしたが、やっぱり刺されました....。

 焚火、火起こし、シェルターつくりなど、どれも単純で、何度かインディアンの生活術などを興味深く読んで知ってはいましたが、実際に体験する機会はありませんでしたから、新鮮な感覚でした。新鮮だったのはサバイバル体験だけではなく参加した方々の個性的な動きに触れたこと、心と心のサバイバルでもありました。

 夕食後のラブフルートライブを終えて一息ついて話し込んでいたのですが、ふと振り返ると参加者の皆さんが思い思いに並べてあったラブフルートを吹き始めていました。誰もが自由に心を注ぎこみ、密かに息の源を辿り、巡り始める....ちょっとしたポイントをお伝えしようと顔を出しているうちに、いつものレッスンやワークショップ風になってしまいましたが、それもほんのひと時のことで、あとはずっと笛吹きっぱなし、聴きっぱなしで真夜中過ぎという状態でした。

 なんの言葉もなく、ラブフルートの音色とドラムの響きだけの時間が流れている......。それこそ無限の空間を漂うような不思議な感覚でした。かつて体験した12時間太鼓が鳴り続ける富士山の奉納太鼓の体験とは一味違うなんとも贅沢な夜でした。

 新緑が似合う素敵な参加者たちとの触れ合いは、笑顔と感謝の花になって森の道に咲いているようでしたから、戻ってきたばかりなのに、また森の中に戻ってみようかな〜と思っています。

 焚火の近くで視界に飛び込んできた山菜(ウド)は、サバイバルナイフで刈り取って、帰ってその日に美味しくいただきました。赤井川の森よ、ごちそうさま、そしてありがとう!!
 
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2008/5/22

栗の木の響き  ラブフルート

  クリのラブフルートが揃ったら、マロンティーを飲みながら、フルート交流を楽しもうと思いついてブログにも書いて楽しみにしていたのですが、どうやら延期になりそうです。

 というのも、先に出来上がったクリのフルートが1本はすでに旅立ち、もう一本もご予約を頂きましたので、残っているのは比較的短いタイプの2本になってしまいました。これでは皆さんに声をおかけしても肝心のクリフルートが少なくてちょっと寂し過ぎるので、もう少しクリのフルートが出来てからがいいかなと思い始めました。(材料を取り寄せることから始まるので、まだまだ先のことになりそうですが、年内には実現したい...)

 最初に旅立ったクリのフルートはかなり肉厚のフルートでしたが、音色を聴いていただくために息を吹き込んだ時に、不思議に暖かく、そーっと見守ってくれている何か...に包まれている感覚がありました。このフルート、持っていたいな〜と思った瞬間、そのフルートと一緒に旅をしますという声が聞こえてきました。
 
 その方は、既に数本のフルートをお持ちでしたから、まさかと思いましたが、分割になりますがいいですか?と尋ねられ、ハイと答えていました。正直、吹いていくうちに、このフルートと一緒にいたいと思っている自分がいました。

 それは、そこに生まれてきた響きの中にある不思議な感覚。優しさの中に包み込まれる感覚があったからだと思います。最初に、クリのフルートを吹いた時は、管が薄めのもので、ふわーっと優しく繊細な感じがして驚きました。その響きを聴いていると、強引に5音階に出来なくなり、オリジナルスケールのフルートになりました。

 今回は、それとは対照的にかなり厚めに作ったものでした。それは、大きく鳴り響くものではありませんが、安心して一緒にいてくれると感じさせる響きでした。求められた方は、自由にラブフルートを吹いて過ごす時間を、心から楽しんでおられましたから、喜んでもらえるだろうな..と思いました。後日お話しする機会があったのですが、一番のお気に入りはクリラブフルートですとおっしゃっていました。

 最近工房に来てくださった方たちとの会話の中で、クリのフルートの話になった時、あんなにいっぱい棘をもってるんですから、とっても繊細なんでしょうね....」と口にした方がおられました。この個性的な感性に刺激されて、自分なりに思いめぐらしてみました。

 外側から見ると、クリのイガは厄介で危険で、痛みを与えるものです。でも、内側から見ると、とっても安心していられて、心強く、安らいだ世界を支えてくれるのかもしれません。弱さは強さ、強さは弱さという心の不思議を知っている木なのかな〜と。それと、しっかり並んでイガの中にいるクリたちをみると、誰かや何かと一緒にいる知恵や喜びを知ってるんだろうな〜と思います。

 少しだけですが、クリのことを考えてみると、あの音色から浮かんでくる優しさ、包み込むような温かさと秘かな強さや安心感は納得できそうな気がします。
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2008/5/19

フォークバンド再結成?!  雑感

 中学の頃にギターと出会ってバンドを組んでステージに立つことが問題扱いされた記憶があります。ベンチャーズは今も日本にやってきてエレキギターをテケテケテケテケとやってますが、明らかに老人バンドです。彼らがバリバリのバンドだったころの話です。

 職員会議の結果待ちの間も、メンバーの家でなりきって練習してました。どうにかこうにか許可なるものが降りてステージに立つことになりました。まともなベースギターがなかったので、普通のギターでベースを担当しました。多分、というより間違いなく、かなりヘタクソバンド演奏だったと思います。とにかく、やることに意義があるという時代でした。

 当時のメンバーは、一人は自衛官、もう一人は電気屋のオヤジ、もう一人は記憶から消えてます。そして、結果的に音楽やってるのはギターを笛に持ち替えた自分というわけです。

 フルート吹きまくり、ギター弾き続けという学生生活で、学問の記憶はほとんどゼロ....。吹奏楽、ギターアンサンブル、放送局、それにフォークバンドという生活。コンクールに出たりしながらの忙しい?生活でした。授業中は、存在感なしで、学校祭で突然現れる変な奴でした。

 この当時、ある先輩たちに声をかけられてバンドに加わってギターを弾いた記憶があります。放送局の仕事と掛け持ちで、しかも合唱の指揮をしたり、もう一つ自分のバンドもあるという状態で、こうして書いてても何しに学校に行ってたのかな〜です。

 結局少し寝込んでいるときに感じた事のひとつは、ここしばらく自分には歌声がない、ギターがないということでした。そう感じたので、すぐに動きました。ブランクがありすぎて、ほとんどゼロからのスタートですが、余命を推測して、ほどほどの安いギターを手にしてみると、これって親父バンドの仲間入りかな〜と感じて、思わず苦笑でした。当面は指慣らし、声慣らしが続きそうです。

 ギターを手にして間もなく、ふと当時のことを思い出して、先輩の名前の記憶を辿ってみました。確か、どこかでウッドベースを弾いてると聞いていたのが20年ほど前の事です。一度だけ、ジャズ喫茶で見かけたような記憶はありましたが、あまり時間がすぎてて、人違いかもしれないと感じ声をかけるのをやめた記憶が残っています。

 ムクムクとこういう流れが起こるのは、そろそろ人生終盤になってきたかな〜という感覚もありますが、とりあえず流れに任せているうちに、なんと学生時代に混ぜてもらった先輩と電話の声で再会ということになりました。学生の時以来ですから、随分と年月が流れているのですが、電話で話し始めるとタイムスリップ感覚でした。多分、近いうちに直接顔を合わせることがありそうなのですが、容姿がすっかり変わっているので、お互いにあんた誰?感覚になるかもしれません。先輩ウッドベース奏者Tさんのお話では、近隣の音楽関係の方たちとは様々な接点があったとのこと。同じ町にいた自分とは、何故かずっと接点がなかったのも不思議で面白い感じでした...。
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2008/5/15

細く静かな道  雑感

 六ヶ所村のドキュメント映画が全国を巡って、その後どんな流れになっているのかを伝える映画会に参加させていただきました。核燃料の再処理施設が、私たちにとって何を意味するのかをじっくり見つめる場になりました。

 チェルノブイリの原発事故、ホピの預言、六ヶ所村ラプソディー、そして今回の映画へと繋がる一連の流れと関わりながら自分に出来ることをさせていただいて来ました。

 どの視点でどんな発言をするか。発言と実質的な生活との繋がりはどこにあるのか。それは軽々しく扱うことのできないことなのだと思います。どんな問題であっても直接的な影響を受けない限り、話題にしたり真剣に考える機会はほとんどないような気がしますから、今回のような集まりは大切だと感じました。

 関わっている内容が複雑だったり難しいと感じると、ちょっと関わってみたくらいでは歯が立たないと感じ、そのまま流され忘れ去られることが多いテーマのひとつだったように思います。

 逆に見れば、少しヒントもありそうです。その問題が直接自分にかかわっていることに気がつくことと、問題を理解できるところからじっくりと紐解いていくことの大切さが分かってきます。それと同時に、言葉だけが先走りせずに具体的な変化を伴うことの大切さがあるのだと思います。

 どんなに大きくて複雑に思える問題であっても、根元にあることはとても素朴なことではないかと思います。そして根元にある問題は、単純素朴だからこそ厄介で複雑な状態を生み出すとも言えそうです。

 人の心は、自分自身の根底にある問題になかなか気付かないものです。それは気付かない、自覚出来ていないけれど、抱えているものですから、厄介です。問題や課題を乗り越えた、克服したと思いこんでいる根っこの方にいる自分。それは方法論や努力や瞑想といった手段によってたどりつくようなものではないように思います。

 それは、ああすれば、こうすればといった言葉によって引き起こされる一時的で感覚的な、変化を引き起こしているらしいものを探る様々な作業であり手段ではあると思います。ただ、こうしたプロセスは結果的に道に迷っている自分に直面し、振り出しに戻るような気がします。

 問題は内面にあると指摘されて、そうかとうなずいて見つかったり気づいたと思えるほど安易なものであれば、世界は予想を超えて根源的な変化をし始めるかもしれません。しかし、実際には宗教もイデオロギーも、何々運動もいつしか巧妙に変化し、本来的であるはずの役割とは違った道を辿っているような感じがします。

 ウランを使う。この道を選択した人たちは、あらゆる出来事を自分たちの言動を正当化するために駆使します。それは権力と結びついて、大前提を作り上げようとします。ただ、それは、ウランを選択した人たちだけの問題ではなさそうです。

 自分を保持し、正当な選択をしていると自負する。こうした心の構造が引き起こしている問題のような気がします。それは個人と個人の関係に始まって、人がいるところに必ず現れる状態のようです。この部分に、しっかりと焦点をあて、自分の基盤を探さずに、批判的な言動や自負心を表明してみても、内面的には問題のある相手と似たようなものになってしまいそうです。

 だったらどうすればいいのか.....そういう思いが心底生まれてくる道にそのヒントがあるのかもしれません。人が一様に抱えている心の奥の問題を、魔法のように解決する方法を見つけようとするよりは、与えられた一生全体の中で大切なものに触れて生きる.....そんな地味〜な細くて静かで見逃しそうな道に何かがありそうです。
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2008/5/5

火起こし  雑感

 結局今回は翌々日まで丸々寝込んで、ようやく動き出しました。本調子ではありませんが、無理しない程度に動き始めました。遅れを取り戻そうとして、あわてると作業で怪我や失敗につながるので、まずはじっくり身体慣らしのスタートになりました。

 秋から冬にかけて折れたり木々の枝や枯草を集め、薪と炭火を用意してダッチオーブンを取り出しました。その中に芽が出かけたジャガイモと玉ねぎ、そして冷蔵庫で眠っていたシメジを入れて火をおこし、のんびりと枝を投げいれ、出来上がるまでぼーっと過ごしました。

 丸太の椅子に腰かけてのんびり周囲を見渡していると、いろんなものが見えたり、気づいたりで、心の中に様々な思いが浮かび上がってきました。燃えていく枝を眺め、炎を見つめていると、ずっとその空間に居られそうな気がしてきます。時間はどこかに消え去ったような感覚でした。

 この5月24〜25日にネイティブアメリカンのサバイバル技術体験が、赤井川で開かれて、その夜にラブフルートの時間があります。天気が良ければ、満点の星空を眺めてゆったりと過ごせるかなと楽しみにしています。まだ、空きが少しありそうです。(興味のある方はHPの演奏案内をご覧ください。)
 
 途中で、このサバイバルのことを書いたのは、火起こしの難しさに直面したからです。集めた薪に火を点けようとしたのですが、風が強くて点きませんでした。ココぺりが描かれ、ターコイズがはめこまれたお気に入りのライターで何度も試しましたが、役に立ちませんでした。

 これがアウトドアなら、もう少し知恵を出して工夫もするのでしょうが、自宅の小さな空間で病み上がりだからを言い訳に、結局強力バーナーでの点火になりました。

 さて、自然の中の火起こしになって、何日も風がやまなければどうかな...と思います。なかなか思うように火がつかないこと。点いた火を保つのも大変。うっかりすれば火が燃え移って山全体が燃え上がることもある。(調度、昨日恵庭のダム周辺に野火があって消火活動が思うように進まないという報道もありました。)こうした火のあれこれを考えていくと、昔の人が火を扱う人に力を感じ、尊敬を集めたのも自然の成り行きだったのでしょう。

 必要かつ、危険を伴う火。火が起こるまでの忍耐。今の私たちの生活では、火が起こることへの困難はほとんどなくなっています。それと同時に、命の維持に必要な根源的な要素から意識が離れてしまっているとも言えそうです。それは、火に限らず、水にも食べ物にも言えることなのでしょう。 

 結果的に見れば、命の尊厳を意識や言葉のレベルで扱う事はは出来ていても、深いところで知る機会がほとんどなくなっているのかも知れません。

 自分の身を燃やすことで私たちの体を温め、食べ物を作り出す木の姿。建物のために身を差し出す木。そんな仲間の生きざまを知っている木の笛。そこから生まれてくる音の響き。

 焚火を見ながら、静かに心を巡らす時間になりました。新しい動きの準備は静かな時間と素朴で美味しい食べ物と美味しい水で始まりました。
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