2011/8/22

二羽のワタリガラス  雑感

  ワタリガラスの神話を語るストリーテーラー、ボブ・サム。彼と初めて会ったのは十数年前。ラブフルートを背負ってアメリカに渡り、数か所で演奏をし交流をして帰国した頃のことでした。その後、もう一度彼のストーリーテーリングを聴く機会がありました。この時は、他の仲間たちもいて、熊族の踊りを見ました。

 その踊りの時に歌っていたメロディーを記憶して、思い出しながら演奏してきたのが「静かに踊ろう」という曲です。印象は静かな踊りだったのですが、皆さんが集われると、何故かにぎやかで楽しい踊りになります。日本人の陽気さを感じる素敵な時間、熊踊りの輪になります。

 今年の初めにはワタリガラスの鳴き声を直接耳にし、遠くに姿を見たことをブログに書き込みました。それはどうやら、ワタリガラスの神話を大切に語り継ぐ、ボブ・サムとの出会いに繋がっていたようです。いつか直接会う事になるだろうとは思っていましたが、それが厚真の地とは思ってもみませんでした。

 今回の集いには、様々な方々が繋がりを作り、行かざるを得ない状況が生まれました。厚真から来られたご夫妻が、揃ってラブフルートを手にされており、現地で待っておられました。つい最近ラブフルートを注文された苫小牧の方が、何故KOCOMATSUの屋根にワタリガラスの風見鶏があるのですかと訪ねて来られました。この時、手渡されたリーフの中に、今回の森のコンサートの招待状がありました。その後、主催者のOさんからお誘いの電話があり、さらに演奏で何度も接点の会ったNさんからもお誘いの電話がありました。

 ここまで誘いの手が延ばされるのはきっと何かがあるからだろうということで、予定を切り詰めて出掛けました。以前は、二風谷ダムに関連した仕事で数年間通いなれた道を、懐かしさを感じながら車を走らせました。

 誰が辿りつけるのだろうと思うような田舎道特有の迷路を進んでいくと、手書きの案内があり、矢印の通りに進んではみるけれど、本当にこの道でいいのかな?と思うような道の先に会場がありました。

 到着早々、演奏家のN氏がボブ・サムに紹介してくださったのですが、笛を吹く人ですと言われて「良くわからないけどよろしく」という感じで終わりました。

 その後、様々な演奏や踊りがあって、ブルーレイバンの出番がやってきました。小さな屋久杉、長い竹笛、細いクルミ、ダブルの長いクルミなど数本のフルートを吹き終わった時、主催者のOさんが3年目になるコンサートは今回で終わりにしますと話しておられた事を思い出し、急遽ドラムを叩いて歌おうという思いが湧いてきました。

 ボブ・サムは目の前でフルートの聞き入っていましたが、ドラムを叩き歌い始めると、間もなく立ち上がり踊り始めました。それを見ていた数名の方が、同じく立ち上がり踊り始めました。やがて、輪が広がりボブ・サムは私たちのステージに上がって踊り始めました。思いがけず、彼と並んで歌い踊る時間になりました。

 踊りだけでなく、声も上がり、輪になり、手を繋ぎ、素敵な時が流れました。ボブが、彼らの踊りの輪を祝福するような手の動きを何度も繰り返しながら踊っていたのが印象的でした。魂が歌い踊り出し大自然と一つになった瞬間はそれぞれのこれからの旅を繋いでくれるのだと思います。

 ステージを降りた時、ボブ・サムがやって来て挨拶をされ、握手をし、お互いに何度も会釈をしながら別れました。ワタリガラスの語り部とワタリガラスが掘り起こしたラブフルートを吹く「碧いワタリガラス・ブルーレイバン」が一つの場所で歌い踊り過ごした夜。

 何故、数十年前の夢に、黒い大きな鳥・ワタリガラスが現れたのか。そこに掘り出された魚がラブフルートだと知らされるまでの時間、ラブフルートを吹き、作り、手渡しながらの旅がKOCOMATSUに繋がり、その屋根には風見ワタリガラスが風の道を指し示しています。

 そこに再び現れたのはワタリガラスの語り部ボブ・サム。その二人が同じ場所で繋がったのでした。奇しくも、ラブフルートを携えてアメリカに渡った時、私を迎えてくれたのはボブ・ハート氏。二人のボブが、両脇から支えてくれたのでした。果たして、この旅はどこに繋がっていくのでしょう。
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2011/8/10

言葉の海にアートの小舟  雑感

一瞬の響きが心の内奥を引き出し、浮かび上がらせる。どれほど言葉を尽くし、時間を費やし、知恵を尽くしても引き出されないものが、一気に溢れだす。そんな時間と空間を過ごしたこの夏のひととき。

 いつからか、音の響きと人間の心が、何らかの媒体(ラジオ・テレビ・音響媒体)などを使って触れ合う事が、普通の事になった...。歌いたいから歌い、奏でたいから奏でる。そんな心と音の世界が、いつしか金銭と強く繋がったのは、いつのころなのだろう。風や光や小鳥たちの囀りのように、自然に流れて心を満たすものではなく、お金で切り売りされるものになっている。この現象は、後の時代にどう受け取られるのだろう。

 アートが展示会場に並べられ、入場料を払って見る仕組みが生まれたのは何故だろう。日常の中に、ハッとするものや、何度も何度も見つめたり触れたりできるもの、お金はいらない。そういうものが生活の中に必要なのではないだろうか。

 シンボリックな一本の木も、道路管理などの都合でたちまち切り倒される社会は、いつしか人間そのものも、打ち立てられた価値観の中で抑圧し、切り離していくでしょう。管理され、金銭との関係が優先される社会は、自分たち自身を蝕んでいくように思います。金銭に代わる命ある媒体を生み出す人が現れたら、僕たちの世界は一変するのかもしれません。

 この夏は、KOCOMATSU一周年感謝会にウッドベース奏者の田中久雄さんをお招きし、Solo演奏を中心に集いました。予算の都合さえつけばあれこれと演奏者を招くことも可能だったかもしれません。ですがKOCOMATSUが大切にしている事は、一つの事を大切に見つめ、感じ、受け取り、生かしていく事なのです。

 それは個々人の内面に関しても、実際的なことにも、必要なスタンスかと思います。言葉や価値観が未成熟で曖昧なままでは、表面的な関係しか生まれてこないでしょう。地道な作業であり、面倒だと感じるかもしれませんが、しっかりとした土台なしでは、費やされた時間や経験も根元から崩れ去るように思います。

 借りてきた知識や認識と自分自身の実質の間には明らかな隔たりがあり得るのですが、それは十分わかっているという自負がなおさら隔たり(自己矛盾)を見失わせるように思います。

 明確に自分自身の全体で、そこにあるものそのものと触れ合うこと。こういう知り方、感じ方が乏しいまま自分の認識の領域だけが先走りしていくと、いつか大いなる勘違いに直面するでしょう。

 今回のウッドベースのソロ演奏の中で、あきらかに自分の内面が引き出される強い体験がありました。その瞬間には、新鮮な驚きをがありました。自分で気づく事、感じる事のなかった、あるものが、一つの旋律、音の響きと共に浮かび上がってきたのです。これはラブフルートのレッスンの時に体験的にお伝えしてきたことではありますが、ウッドベースを通して再確認させていただきました。

 勿論、それは到底言葉になどできない、しかしとっても大切な何かが自らの内側にある事を知らされたのです。これは、木々を笛にして響かせるプロセス、特定の誰かから生まれてくる息使いの中でも起こります。ですが、ウッドベースの響きには、その世界からしか生まれ得ないものがあるのです。

 深く低い重厚な響きと向き合う時、初めて触れることのできる自分自身の心の状態がある。様々な体験を積み重ねて、認識してきた心の思いを越えた何かが顔を見せる瞬間。この感覚は、言葉がどれほど巧みだとしても、決して表現しきれない世界を見せてくれるのです。

 これがアートと呼ばれる世界が内包している強烈なエネルギーのひとつでしょう。勿論、アートと称されるものがすべて、こうしたエネルギーを内包しているわけではないでしょう。ただ、言葉や文字や声を中心にした世界が陥る誤謬に対して、アートの直接的で言葉を越えたエネルギーが必要なのだと思います。

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2011/8/4

愛の笛を受け取る人々  ラブフルート

深夜の工房作業を終えて居間にあるイタヤカエデの大きなテーブルで梅ジュースを飲んで一服。そこに、名前も知らないちっちゃな虫が一匹。ほんの少し飛び散った梅のエキスを見つけて吸い始めました。

 二人だけの深夜の交流。彼にしてみれば、初めての体験でしょうし、多分とっても美味しかったのだと思います。ややしばらく吸い続けていましたから。飛び散った梅エキスの飛沫が、一匹の虫にとっては甘露の泉の発見になったことでしょう。

 生き物がいるということは、とっても大きなこと、凄い事。静かな一人の夜が、彼の登場によって、こちらの心も思考も動き出すのです。自分の爪の隙間を寝床に出来そうなくらいちっちゃいけれど、生きているという次元では繋がっている。

 彼が変身して、目の前に現れるとか、巨大化して私のグラスから梅ジュースを飲むなんてことを空想してみるのも楽しい。いずれにしても、夜明けまで語り明かして、ふと目覚めたら、何事もなかったように朝日が眩しかったという具合になるかもしれません。

 お盆あたりに、なにやら不思議な体験話が増えるのは面白いものです。絶対にありえないような、でも本当なんだという体験を持っている方に、何度かお会いして来ましたが、なかなか面白いものです。ほんとうにあ
り得ないだろう?というような体験話は、未だに自分の中で生き続けています。こうした体験を心理学者や心
霊学者?などが、あれこれもっともらしい分析や説明をし始めると、つまらなくなってきます。


 事実の瞬間とは無関係の場所で、あれこれうんちくを述べること自体が既に的外れでしょう。その瞬間の、
その人だけの体験こそ、大切なのだと思います。

 自分の狭くてちっぽけな前提や視点で、不可解な現象を認識したり判別しようとするあたりで、失敗するでしょう。未知のもの、不可解な事を持っている事の大切さは、今回の一連の災害や原発とも関係があるでしょ
う。
 あり得ない、信じられない、1000年に一度の出来事といった捕らえ方は、近視眼的で人間中心の発想があるからでしょう。何かを知れば知るほど、見えなくなる事も増えて行く。この単純な現象を洞察する事は、
常に必要な知恵でしょう。

愛の笛がもたらされた経緯を記した「愛の笛」という絵本に記されている事。これもまた現代人にとっては、あり得ない、信じられない物語、作り話に思えるのでしょう。ですが、この未曽有の大震災の只中にある人々が、素朴な木の笛の響きを求めて、小さな工房にやって来ることだって、ある意味不可解な現象かもしれません。

 ラブフルート盗難の事があって、やがて3.11が起こった。自分が作る笛など誰が必要とするだろう...。求めようと思えば、それなりに手に入れられるサイトやショップもある。どうやらの晩年の転職を考えなくてはと思い始めた頃、ポツリポツリと求める人たちとの新たな出会いが始まりました。

 趣味や習い事、楽曲の演奏のためでもなく、単なる楽器でもなく、大地が育んだから木々から生まれた笛。その笛が自分の心を浮かび上がらせ、風になって天空を舞い、その思いを存在する全てのものに響かせる。そんな笛があるのか?この笛の物語は真実なのか?

 いつか、この笛がなぜラブフルートと呼ばれ、自分の手元にやってきた事に気づく人々が現れるでしょう。それはまだ見ぬ世代に受け継がれるのかもしれませんが....。今この時の中にも、確かに、愛の笛を受け取りたいと願う方々がおられます。密かな道を辿ってやって来る方々がおられる。この事実は、いつか不思議な物語になっていくのかもしれません。

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