2015/5/31

自分という響き  ラブフルート

何故そうでなければならないのか。
何がそれを、そうでなければならないと決めるのか。
一見最もそうな主張や説明がまかり通り、一様に前提を掲げ、従属を正当化する。
真顔で体制なるものへの隷属を、これこそ唯一無二の信条であると強調する。

それは様々な領域で少なからず生まれてくる現象です。群れを作り、身の安全と主義主張を反復し、意識を刺激し、持続性を保とうとする。特定の主義主張、価値観の強調で人の群れを作る。そこには、そこの正義があり、結果的にさまざまな確執や対立が派生し、別の群れが生まれる。

混沌から秩序、秩序という正義には権威が伴い、権威は抑圧と強制を連れてくる。自由と秩序のために権力が正当化され、従属を前提とした自由を正当化する。

今回は少し視点を変えて、やや硬い印象の言葉を使ってみました。人間がいるところには、少なからず先に書いたことが、見え隠れするように思います。それは、自分自身の内面の確執に始まり、特定の人間関係にも起こります。少人数と大人数では、固有の事象が起きますが、根底には同じような現象が見えているように思います。

実際は、安定性の低い笛、ラブフルートを作る中で先に書いたような事柄を直接感じています。社会の現象は当然音楽の世界とも繋がっている。音楽の世界の価値観も社会の一部分であり、必然的に類似性、同質性が見られます。

人間のすることですから、音楽というツールにも力関係や秩序と自由の確執は起こるわけです。それは人間同士の問題でもあるのですが、ここでは音やその形態に絞ってみます。

端的に言えば、特定の基準を設けるか、基準を無くすか。この二つに大きく分かれます。基準にはいくつか種類があるのですが、国際基準音を軸にしてスケールを決め音階を作る方法です。現在の音楽の大半は、この流れに即しています。とりわけ可能な限り厳格に音程を保ち、調和を維持するスタンスを前提としているのはクラシックの世界でしょう。

それが基準だという価値観を前提にすれば、その他のものは亜流とみなされ、存在を軽視されかねません。これにたいして、民族音楽の世界では、それぞれの地域に密着した価値観、感性で音楽が生まれています。幸いにも、音楽の世界では絶対的権威が台頭して、音楽に関わるものは全員掲げられた基準に従うようにという強制はありません。

ただ、前提としてドレミ音階を基準に音楽を形成している場合は、暗黙のうちに、しかも自主的に決められた特定の周波数に合わせているわけです。後は組み合わせの選択作業をしていくわけです。勿論、このプロセスの中で十分楽しさも喜びも生まれますし、音楽の特性は変わらないでしょう。

ここではその組合せや継続作業では触れることの出来ない音の世界について少し触れようとしています。

基準を外した音楽自体がかなり希少なので、理解するのは難しいかもしれませんので、もう少し具体的に説明してみます。

笛を作るとき、基準値に合わせようとせず、形として生まれてきた状態そのものを感じ、受取る。さらに、そこに生まれてきた音ともう一つ別の音との関係を感じ、繋がりを受け取ります。この流れを、与えられ指穴全体に展開していきます。

一見単純な印象ですが、実際にはかなり複雑で根気を必要とする作業です。ひとつの音に変化が起これば全体との関係性は全く異なったものになります。ここでは、ひたすら浮かび上がり響いて来る音と自分自身との関係が問われ続けます。

それで良し、これで良しという選択の根拠は、あくまでも自分自身の内奥にあります。なんらかの物差しに合わせるのであれば、ひたすら合わせるための作業が中心になりますが、合わせるのはどこまでも自分の感性との関係になります。

となれば、自分自身はどんな音、どんな響きを良しとするのかを問われます。ある特定の音階と離れて、体験した事のない響きの世界を浮遊することになります。与えられた価値観(響き)に同調し、同意するのではなく、どこまでも只々そこに生まれてきた響きと自己の中心との関係を見出していくことになります。

かなり小刻みに揺れ動く周波数の中をさまよい、自分自身の内面に直結する響きと出会う瞬間。そこから派生する、次の響きとの関係性と内面性。そこには周波数と同時に波形の特性を生み出す樹種との関係も重要になります。ついでに言えば、その瞬間の自分自身の呼吸や身体や意識の全体性との関係も重要になります。

生まれてきた響きに対して安易に迎合せず、しっかり符合するまで求め続ける忍耐と謙虚さと事象全体への信頼が必要になります。違うものには違うという明確な姿勢、符合した時には確かにそうだという認識と直感と決断のバランスが必要になります。

自分だけの響きを持つマイフルートは、他の音楽からは違和感を感じ、軽視、もしくは無視、さらには非難や否定さえ招くかもしれません。

ただ、確かにこれが私自身の響きであると知るならば、それを揺るがすものは何もないことに気付くでしょう。

それは主張でも、価値観の提示でもなく、自分自身であることそのものの響きなのです。変化し続けながらも、より豊かに自分自身である中心軸が明瞭になるプロセス。そういう旅の友にラブフルートを求める方。その出会い。

それは言葉の羅列や説明ではなく、抽象的概念でもなく、木々の響きそのものとして鮮明に浮かび上がり、感じ取り受け取ることができる。そういう実質を求め、受取る旅人との出会い旅。もう少し楽しめるかな…



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2015/5/13

夕張合宿の宿・ひまわりでお伝えしたこと その2  ラブフルート

夕張 合宿の宿 ひまわり 千歳北陽高校の一年生と過ごした時間の後半の流れを書き留めてみます。全体性を土台にし、多面的視点を持つ生き方。象徴的に球体として生きると表現し、その断片的な要素を磁極の特性としてお伝えし、いつかこうした認識の大切さに気付く機会があればと思いつつの時間でした。

 今回のお話しで大切にしたのは、あれこれと具体的手段を提示したり誘導しないということでした。言われたことを実行する忠実さは、ある意味扱いやすい人間を量産し、行動にまとまりを持たせることになるでしょう。それは、ある領域では必要ですが、同時に危険性も孕むでしょう。

 社会的秩序(全体性)と個(個性)の尊重。これを言葉にしたり、何らかの説明的概念を示すことはできるでしょうが、実際的で具体的な事柄となると、必ずしもバランスがとれる訳ではありません。最終的には、全体の秩序を理由に個が抑圧され、退けられる事が少なくありません。

 この辺りの現実的で矛盾を孕む要素を徹底して吟味する作業が軽視され、取り敢えず結論を出す。その繰り返しが固定化され枯渇した暗黙の意識を形成しやすいように思います。

 僕自身が、真摯に大切だと感じることをお伝えする姿勢を持つこと。それは殊更強調するようなものではありませんが、やはりどこかではっきりと確認しながら生きていく必要がありそうです。

 東北支援というひとつの出来事に限定せず、ひとりひとりが自分の中心軸から発想すること。頭で考えたり認識することで終わらず、具体的に実際に行動しながら進むことの大切さをお伝えしました。

 被災地の厳しい現状を凝視することで、なにか具体的な動きが生まれるだろうか。その事例や可能性を示すことはやめ、自分なりに考え、選択し、一歩を踏み出す。ひとりでも、足をむずむずさせ、動き出してみる姿が生まれればと、じっと待つ。これが今回の土台でした。

 学生たちが、保育園の子供たち一人一人のために手紙を書き、交流をする。室内保育の助けになる事を考え出すなどなど。これは、現地のニーズと付き合わせ、相互の交流が形式的な段階から、より率直に思いを表現できる関係を築きながら根気よく歩む必要があります。

 現在、5度目の東北訪問の準備を始めていますが、状況は絶えず変化し続けていますからギリギリまで試行錯誤を繰り返すことになるでしょう。誰かが答えを持っているわけではありませんから、具体的直接的に行動するひとりの存在が鍵になります。

 後半は、ひとりの人間が思いを抱き、行動することが、どれほど大切で大きな変化をもたらすかをお伝えしました。集団の中では、自分が小さな存在にすぎず、なにもできないなという感覚が出やすいものです。

 このとき、同行してくださった皆さんの紹介をし、具体的実際的な事例を目の前で知っていただきました。太陽光と繋がりながらいきる事がもたらす意識の変化、生活の変化を伝えるためにひとりで全国を回る早川さん。彼が、呼び掛けに答えて被災地からの避難者家族の遊び場・ソドデアソビダイベシタにソーラーエネルギーで真っ暗闇の山の中に明かりを灯したこと。そして、いま皆さんの前に来て、太陽光のエネルギーで音響装置に必要な電力を供給しておられることをお伝えしました。

 また、合宿直前に出会ったYさんが、千歳北陽高校の卒業生であり、皆さんと出会うために集われ、オーストラリア先住民の楽器ディジュを一緒に演奏してくださること。そのひとりの行動が、こうして多くの皆さんとの出会いをもたらすこと。

 さらには、東北支援活動をコツコツ続けていくなかで、新聞に掲載された活動を知って電話を下さったSさんを紹介しました。彼女は千歳北陽高校の卒業生ではありませんが、僕の高校時代に隣のクラスにいてバレーボール部で活躍していた女子高生でした。

 こうして、たったひとりの人間が、心に決めたことを具体的に行動するときに何が起こるかを実際に知っていただければと当人たちを目の前にしてお伝えしました。

 ひとりの大切さと同時に、ひとりを大切にして理解し、手を繋いでくれる存在の大きさをお伝えしました。最初の一歩のひとりにもなれるし、ひとりを大切にする友になることもできる人生の豊かさをお伝えしました。

 最後は、今回のお話しとラブフルートとドラムの演奏を皆さんに伝えたいと願ったひとりの人、塩野さん。ひとりではなかなか先に進めなかった時、それは良いかもしれないと同調してくれる先生がおられたこと。そばにいて寄り添う存在が、この場を産み出したことをお伝えし、ダブルフルートの演奏をして終わりました。

 終わってから、数名の学生さんが会いに来て下さり、丁寧にお礼をされたり、感謝や感動の思いを伝えてくださいました。

 お話し中で、皆さんの中に、ひとりでも耳を傾け、心を寄せ、何かを感じてくださるかたがおられたら十分満足ですとお伝えしました。

嬉しいことに、ダブルフルートの響きに深く感動し、うっすらと涙を浮かべながら握手を求めて来られた男子学生のキラキラした顔がしっかり心の中に飛び込んできました。

学級委員長になって、いろんな事で悩んだり迷っていたけれど、お話しを聞いてとても勇気が出ましたと伝えてくれた女子学生とそのお友だち。

いまにも泣き出しそうな表情で、僕はとても大変な思いの中にいて、とても苦しく辛い状態でした。今日のお話しは、僕にとってとても大切で必要なことがたくさんありましたといいながら、何度も握手を求められた男子学生。

 千歳北陽高校の皆さんとのひとときは、次の物語へと続いていくことと思います。ひとまず、ここでひと休みさせていただきます。

 後日、公的礼状を郵送ではなく、直接お渡ししたいと塩野さんが自宅まで足を運んでこられました。こういう姿勢で生きておられる教師がおられること、その出会いは小さいけれど、しっかり心にとどまり、力になります。

SNSで済ませず、郵送で済ませず、時間をさき、直接顔を会わせて思いを伝える。これは東北の活動の姿勢に通じるものです。

 合宿後のある日、塩野さんが小さく足踏みをしていると、数名の学生が足踏みでセッションしてくれた...と嬉しそうに話してくださいました。あの合宿のときのみんなの足踏みドラムが密かに続いているのだとしたら、ちょっとニンマリです。クリックすると元のサイズで表示します
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2015/5/9

合宿の宿 ひまわりでお伝えしたこと・その1  雑感

夕張 合宿の宿でお伝えした事を数回に分けて投稿してみます。

一人の人間が多数の皆さんにお話をすること。それはとても複雑な状況を生み出します。 それは一対一、もしくは複数の人との対話の複雑さとはかなりニュアンスが異なります。そのあたりの課題を、何度もシュミレーションしながら当日を迎えました。

実際、被災地の実状の一端をお伝えしている時に、涙が止まらない女子高生の姿が目に留まりました。その方の事は何も知らないまま話を進める事になりました。逆に、全く関心を示さず私語の世界を楽しんでいる姿も見えました。

そんな中で、最初にお伝えしたのは、目の前の事柄だけに気を奪われず、全体性を持って生きる事の大切さでした。自分を中心に物事を見て慌てて判断をしない事。前も後ろも、右も左も、上も下もよく見渡し、人間だけを中心に捉えない事。その大切さをお伝えしました。さもないと、僕たちは簡単に人の言葉や情報に振り回されてしまいます。単純な思い込みで物事を判断してしまいます。そんな事をお話をしました。それは、震災をどう捉えるか、或いは原発の状況をどう捉えるのかといった現状の具体例を提示するスタンスでは無く、それらも含めた全体的な事柄としてお伝えしました。

これは球体のように全体性を持って生きるということなのですが、この時は磁石のプラスとマイナスの関係を中心にお伝えしました。相対的認識の限界性、盲点に留意するということなのですが、生徒の皆さんには、物事を単純に肯定したり否定せず、全体を見渡しながら、自分の心の内側にあるものに忠実に生きること。自分の心が決めたことを、恐れず勇気を持って踏み出すこと。過ちに気付いたら、しっかり受け止めて道を正す勇気を持つ事。中心軸から全方向に放射すること。周囲の全方向から自己の中心軸に向かうこと。それを、磁極を例にし、簡略化してお伝えしました。

人生は一歩、一歩進んでいくものだから、頭の中で考えたり情報をたくさん手に入れたとしても、実際にどういう行動をするかが大切じゃないだろうか。その時の自分に出来る範囲で広く捉えて、そうだと思う一歩を具体的に踏み出す事。その一つの具体例が僕のような活動になっていることをお伝えしました。

続いて、被災地で何をしているのかをお伝えしました。いのちの原点である鼓動をドラムを共に叩く事で実感すること。もう一つは、いのちの呼吸を感じること。あらゆる違いを超えて繋がっているいのちの原点に立って、自分はどう生きるかを確かめ、感じる時間を過ごすこと。そこでは、何か具体的な方向性を提示するのでは無く、ひとりひとりが自分の道を歩き出すきっかけを静かに伝えていること。

こんなお話をし、全員で立ち上がって鼓動を感じ、大地を自分の足で踏みしめる時間を持ちました。

自分が与えられている全てを惜しみなく受け取って、全身で心から生きること。その勇気をいのちの鼓動が教えてくれること。それが、前半の中心的なテーマでした。

それは、単なるお話では無く、具体的に鼓動を感じ、確かめ、足踏みと共にドラムの響きを感じる時間でした。

次回は、この後の流れをお伝えしてみたいと思います。

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2015/5/8

合宿の宿ひまわり・千歳北陽高校の皆さんとの時間  ラブフルート

月夜の宴のストーリーは続いていました。2013・6・22スーパームーンの夜から翌朝まで叩き続けたドラムは、2015・4・27の夕張 合宿の宿の高校一年生たちの鼓動と繋がりました。

宴に参加しておられた千歳北陽高校の塩野さん(先生と呼ばれるのが嫌いとのことでしたので…あえて塩野さんとさせていただきます)が、この時の体験をなんらかの形で生徒の皆さんに感じてもらいたいと願っておられました。

ラブフルートの音色とドラムの響を、公立高校で実現することは必ずしも容易ではありません。僕自身、公立高校に勤務していた経緯もありましたから、道が開かれる可能性の低さを感じていました。

ただ、この世界には、たった一人のために扉が開かれる知恵深い道があることを知らされて来ましたので、ゆるやかにその機会を待っていました。

重い扉は塩野さんの純粋な思いの鍵とサポートする仲間によって開かれました。久しく遠ざかっていた高校生たちの姿を見るために、入学前のオリエンテーションに参加させていただき、その後は時間を見つけては、何をどのように届けようか試行錯誤を繰り返しました。

ことが実現する喜びと同時に、果たして上手く行くのだろうかという不安を抱え、塩野さんは再三コンタクトの為に出掛けてこられたり、メッセージのやり取りをされました。この姿勢の全てが当日の時間の土台となりました。

東北地方訪問に伴う活動の内容と状況をお伝えし、ここからどんな風に歩んで行こうか…というお話とラブフルートの響、そしていのちの鼓動を象徴するドラムを叩き歌う時間をいただきました。

なぜ、被災地でラブフルートを響かせドラムを叩き、みなさんと一緒に過ごすのか。その片鱗を感じていただく時間を取らせていただきました。

体育座りの皆さんに、自由にフルートやドラムに触れてみてくださいと呼びかけた途端、広い体育館の空気が一変しました。若いエネルギーがドラムや笛や声と共に弾けました。

整然とした秩序とは真逆の時間の大切さを感じる時間でした。周囲を忘れて、夢中で弾けるエネルギーの中から大切なものが生まれていくのです。一見混沌としているようですが、それは固定化され、制御しようとする社会に新たな方向性を見い出す大切なプロセスだと思います。

夢中でドラムを打ち鳴らし、仲間の歌声に歓喜し、時に涙を流す皆さんの姿に真近で触れる時間をいただきました。

この時お伝えした内容は、少し分割してブログに掲載したいと思っています。この時間の為に、オフグリット太陽光発電を伝え、東北支援にも協力くださった早川さん(演奏のための電源をソーラーパネルから供給してくださいました)を始め、奇しくも北陽高校の卒業生だった山本さんにはディジュリドゥの演奏の協力をいただきました。この他に高橋さん、菅原さんのサポートもいただきました。5人で出向いて、何とかギリギリで実現した時間でした。

北陽高校の教職者の皆さんも積極的に手助けしてくださいました。この協調性を土台とした全体のバランスが戸惑いがちな新入生たちをしっかり支え、お互いの存在を大切にする流れになる事を楽しみに夕張を去りました。クリックすると元のサイズで表示します
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2015/5/8

クローズドタイプのラブフルート  ラブフルート

ここ数年、ラブフルートのオーダーは変化しています。年に数本しかなかった、オリジナルスケールのフルートを望む人が着実に増えています。

 さらにクローズドタイプのラブフルートの希望者も確実に増えています。これは古い時代のラブフルートのスタイルへの回
帰とも言えるでしょう。

 音量が乏しく、揺らぎの大きいラブフルートは、パフォーマンスの要素が前提の音楽の演奏には不向きであり、時流の変化とともに激減していましたが、白人たちがラブフルートの魅力に注目し始め、新たなスタンスで拡がり始めました。

 このとき、求められたのは、可能な限り音量が豊かであり、パフォーマンス性が高いことでした。音楽が人前で聞いてもらうものという前提で、ラブフルートが製作されてきました。

 こうした傾向はいまも継承されています。それはアメリカで製作されているラブフルートの構造の特徴を見ると良く分かります。強いブレスで吹く傾向が見られます。もちろん、製作者の個性がありますから、弱く柔らかな響きのラブフルートを好む方もおられます。

 とはいえ、クローズドスタイルのラブフルートとなると、かなり限られたものになります。吹いても全然目立たないし、ましてやステージには向かないですから、作っても売れない。必要だと感じる人は少ないので、採算性が期待できないでしょう。

 楽器の演奏が、ある種のストレス発散やパフォーマンスと結び付き、聞かせることが目的になり始めると当然音量が乏しくあまり響かない笛は居場所を無くし始めて当然でしょう。

 自己形成を基点に生きるという土台が稀薄なまま、自分を表現し、関係性を維持しようとする傾向が強い時代では、音楽の意味も時代性と結び付くわけです。

 別の表現をすれば、誰もが自分の価値観や認識を明確にし、提示することが求められますし、それが生きるスタンスになっているとも言えるでしょう。

 これはある意味、自己抑圧的な時代性の中で生きてきた人々にとっては、望ましい変化と思われてきたかもしれません。しかし、自己の基盤が脆弱なまま自己表現を試みると、人生が空洞化しやすいように感じます。

 自分の内実に伴う響きをじっくりと育む。小さな種火を大切に育み、必要な灯りと暖かさを保つ。やがて、その存在に気づいた人々が、いつとはなしに集い始め、心を寄せ始める。

 クローズドスタイルのラブフルートは、密やかな響きの中で深くて暖かな灯火のように、求める人々の足元を照らしてくれる。そんな響きを持っています。

 ともすれば、たくさんの知識や情報に埋もれがちな時代の中に、なぜ、敢えて微かな呼吸で響く木の笛が存在するのか...

 その深意に触れ、気付き、出会う人々との旅。許される限り楽しみ、心のままにもう少し歩いてみよう.....
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