神とはわれわれの生の源泉を司るものである。もしそうではないのならば神は宗教上の意義を持ちえないし、また科学的世界観にも属さない。神とは無限のエネルギーのようなものであり、われわれはそれに触発されて生をおくることが可能となる。だがしかし、神にもできないことがもちろんというかある。それは、われわれの中の任意の客体に自我を与えられはしないということである。自我を司るのは神ではなく私である。したがって、神はわれわれの生を司り生を奪い去ることができたとしても、自我だけは奪い去ることができない(これを端的に言えば、神は「私」を死なせることができないとなる)。なぜなら私であることを可能とするものがすなわち自我なのであるからだ。この、私=自我、ということが最も重要なことであり、私を置き去りにした生は可能だとしても(非人格的生は可能でも)、生を置き去りにした私は可能ではないというところに、哲学的生(生の哲学)の主張が無制限に響きうることがようやく開かれているのだとしえるのである。
……私の言っていることがおわかりになったでしょうか? 簡潔に言うとこうなります。神は生をいくら司ることができたとしても、自我を司ることはおろか、その領分にて仕事を与えられはしないということが、同時に神の限界なのだということになるのです。あらゆる意味での倫理学とは、倫理を神の仕事に組み入れないところから開始されています。したがって、倫理は私の専権事項なのですから、悩むことになるのです。もし神の倫理なるものが存在するのであるなら、われわれはこんなにも悩むことなどなかったでしょう。倫理は神に属しません。倫理は私に属します。そしてそれだからこそ、倫理に明確な定義や答えは必要ないのです。