現実に終わりがないのと同様に、地上の政治にも終わりはない。果てがある領域などというものはこの地上において一つたりとも存在しない。もしそんなものが存在するのならば、それは出来事の一つを細切りにして「はい、これでおしまい」としているだけなのだ。出来事が分解されて一つから二つへと分かたれる場合にのみ「果てがある」とされるのだ。しかしこれ以上言うに及ばないのかもしれないが、世界がただの一つでしかありえないように、出来事も一つでしかありえない。分解された事実の片一方とは幻想に過ぎないものであり、それは尤も言ってしまえば、我々の妄想の産物に過ぎないのだ。したがって、死は現実の終わりなどではなく、現実を断片的に構成するための、一つのものを二つにするためのただの方便に過ぎないものだということになるだろう。死は単位としての数を複数とするための断片化を推進するための、「終わり」という名をしたカッティングなのである。死は現実をカットするためのものなのであり、それ以外に死には何ら意味などない。もし我々に来世というものが存在するのであるなら、世界とははじめから単一的なものとして把握されるのみで
しかないのだから、死や制度的倫理的賞罰のしての死刑を怖れる必要性などというのはない。だが来世がないのであるなら、我々は死を恐れるものとして扱ってもよい。私の言い分はこうなる。来世を信じている人間はあらゆる意味での死を怖れる必然性などないのであり、それは世界がどこまでも一つのものとしてあるのだと信じてもよい。
共同体の中にしか正義も悪も存在しない。共同体の外側の世界には正義も悪もない。もし人間が世界にひとりとしていないのであるなら、正義も悪もないに等しいとなるだろう。だから人間がつくる共同体の中にしか正義も悪も存在しえないのである。
この生はただ一度でしかないにもかかわらず、それがどうして(終わりになるまでの間は)持続的に維持されているのかということに、大きな問題があるのだと思うのです。というのも、ある生における出来事と出来事とを繋ぎ合わせて私や私たちの生というのは構築されているのですが、それがどうして(出来事の前後を通してみても)持続しているかのように維持されているのかということが、私にはよく分からないのです。