このブログに何かを書く気力を私はいまのところ失っているので、しばらくの間、ここに記事は更新しません。書く気力が出てきたら更新します。それがいつになるのかは、分かりませんが……。
別のところで、ここに書いていることとは大差ない内容の文章を書いておりますで、僕の書くものを読みたいという奇特な人が、もしいらっしゃるのならば、以下を覗いてください。
背面世界論者
http://diary13.cgiboy.com/0/arayashiki/
以下余談(くだらないおしゃべり、蛇足)。
標(知る辺)は、(一つの)道が完成されたならば、必然的になくなります。道そのものが標になるからです。指針がなくなれば(指針が完成されてしまえば)同時に書く理由もなくなります。私は「標(へ)の道」という道をこさえようとして、今まで書いてきました。しかし私はこれまでこうしてここに書いてきた記事の中で、何一つとして満足したものはなく、そしてどこかに到達したという感触すらもありません。
書くとはどうしても自己肯定的なものであり、また同時に自己否定的なものでもあります。書くとはこの矛盾と絶えず対峙するということになるのです。あるものの完成が、同時にあるものの終わりと同じであるように、です(祭りと同じです)。あることをするのは、あることを無くす作業でもあるのです。
どこまでもあるものを残しておきたいがためにあることをするという活動について、根本的に私は認めていません。なぜならそれは檻の中に小鳥を入れて飼うようなことだからです。自由な精神を育む余地は、そこには微塵もありません。
自由な精神が、自由という概念に拘束されるようなことはありません。それはつまり、修行完成者が他人に修行を施すことがないように。
道とはどこかへ到達するための標(知る辺)です。到達するどこかとは、未だ誰も足を踏み入れていない(認証されていない、そして固有名を与えられていない)どこかのことです。そこへ辿り着くためには、精神的な自由、越境的な精神の自由が確保されていなければなりません。
道は(精神の跳躍のための)踏み台です。そのための道です。決して「型」や「流儀」ではありません(信仰でもありません)。道は、凡百なありふれたものに触れ易くすること、要するにそれはものごとにおける必然的なものを肯定するということです。
その後に、私は私の一個の運命を見ることになるのでしょう。