【 今週の巻頭言 】
Happiness. Simple as a glass of chocolate or tortuous as the heart. Bitter. Sweet. Alive.
幸福。グラス一杯のチョコレートのようにシンプルで、人の心のように複雑。苦くて、甘くて、生き生きとして。 「Chocolat ショコラ 」/ジョアン・ハリス
2007/5/6
○もう帰るところはありません(2007)/岡田すみれこ
この詩集には岡田さんが「ミッドナイトプレス」、「詩と思想」、「むさしの文学」等に発表した25篇の詩作が集成されています。
この詩集には、ひとりの女性の生が描かれています。
彼女は美しくもなく、若くもなく、豊かでもなく、娘と息子の母であり、娘の一人は幼いときからの難病を抱えていて、彼女自身も偏頭痛の持病があり、年下の恋人がいて、それを知った夫からは離婚届を渡されています。
個々の詩から窺えるそうした事々が、どこまで作者の実像に沿ったものであるかは、岡田さん自身があとがきに記しているように、これは日記でも告白でもない作品としての詩集なのだから、僕ら読者には知る由もありませんが、詩の中から立ち現れるひとりの女性は間違いなく、それぞれの詩に綴られた物語を生きているのだと感得されます。
それは作者が作品の内に生きる彼女に託した様々な想いが、詩というぎりぎりに切り詰められた言葉により、いっそう高められた純度により現されているからだと思います。
たとえば 恋人への想い
実った想いに重ねた手を添えて
ひとつになりたい気持ちを
剥き出しの心で伝え合うとき
きっとわたしたちは
固い木の手触りや
枝や葉のしなやかさや
うっとりする果実の甘さを
充分に感じているのだ
「逢引き」より
あるいは 行き着くところが見えないことへの不安
「もう帰るところはありません」
そうか コトバはワタシを棄てて
森へ彷徨い出て行ったのか
見上げると木の葉は
風と光で瞬時に表情を変える
ふいにわたしは
声さえも失われている気がして
慌てて立ち上がろうとするのに
茫然と座ったまま
それが罰なら受けるしかないのだと
夢の中だから思っている
意識は絶え間なく流れ出て行くので
わたしはいそいで
夢から醒めなければならない
「償い」より
彼女の彷徨は、自身が心から安らげる森を見い出すことができるまで続くのでしょう。
言葉の持つ強さをあらためて感じさせてくれた詩集です。
本詩集は、以下で入手可能です。
・出版社「ポエトリージャパン」のサイト
作品「償い」の全篇が掲載されています。
・吉祥寺の書店「百年 」
・三鷹の書店「フォスフォレッセンス 」
2007/4/1
最近読んだ本の備忘録(4月分第1回)。
○結婚写真(2006)/中江有里
2004年からBSの番組「週間ブックレビュー」の司会をされている中江さんは、ドラマの脚本家としてはすでに高い評価を受けていますが、この作品集が小説家としてのデビュー作となりました。この本にはタイトル作の長篇と、中篇「納豆ウドン」(中江さんが書いた最初のラジオドラマ脚本をもとにしている)の2作が収録されています。
「結婚写真」については、中江さん自身が本書のあとがきに、「家族、恋愛、女、これらの言葉の後ろに [の、かたち] とつけたものがこの作品のテーマかもしれない」と書いています。
女子中学生の満(みつる)は母、和歌子と二人で暮らしています。父と母は満がまだ幼いときに離婚し、保険の外交をして生活を支えている40歳になる母には10歳年下の恋人がいます。多感な時期にある満はというと、学校でのいじめ(シカト)に耐え、幼友達への想いと失恋、友情などを経験します。
タイトルの”結婚写真”とは、和歌子が新聞に入っていたチラシ広告「結婚写真 ― あなたもウェディングドレスの写真を撮ってみませんか?」のキャンペーンに応募して、ホテルで二人それぞれ撮った写真のことでした。
満と和歌子の母娘は、時に反発しあいながらも互いに深いところで必要とし、支えあって生きていて、結果として第三者の介入を阻んだのは二人の同志的ともいえる絆の強さであったのかもしれません。結婚という肝心の事実抜きの”結婚写真”は、そうした同志の絆を象徴したもののようにも思えました。
二つの作品に共通して、派手な事件や突飛な展開もなく、強烈な個性を発する人物も登場せず、ごく身近にいそうな登場人物たちによる、そこそこ普通にありそうな素直なストーリーであるというところが、いかにも中江さんらしいところではないかな。
次作が小説家としての正念場でしょうけど、あせらずマイペースでゆっくりといってください。どこまでもついていきます。
(参考)
・結婚写真 (amazon.co.jp)
・中江有里オフィシャルサイト
・中江有里関連 本・DVD・CDなど
○41歳からの哲学(2004)/池田晶子
中学生、高校生を主たる対象として書かれた「14歳からの哲学」(2003)の延長線上の著作かと思いきや、そうではなくて、こちらは「週刊新潮」に2003年5月から2004年6月まで、「死に方上手」のタイトルで連載したものを集成したものです。
週刊誌というメディアを意識してでしょうが、当時の時事的な事柄(フセイン、出会い系サイト、ネット心中、オウムなど)を多く取り上げていますが、池田さんの基本的なスタンスは「14歳からの哲学」と変わりなく、つまりそれらは、死について、生について、存在の謎などの根源的なテーマについて考えるということになります。いわば、この本は「14歳からの哲学」の応用編とも言えるのではないかと思います。池田さんの"孤高の哲学者"のイメージそのものの浮世離れした日常を垣間見ることができるのも興味深いところです。
池田さんの見解の一部を挙げてみます。
(出会い系サイト)
見も知らない人と、愚にもつかない話をするよりも、得体の知れない人と、無体なセックスをするよりも、独りでいる方がいい。独りで自分と話している方が、はるかに豊かである。それを知らないのは、楽しみや喜びというのは、全部外界にあるものだ、外界から与えられるものだと、深く思い込んでいるからである。
(地上デジタル放送)
テレビには必要を感じないというより、正確にはテレビという媒体が嫌いなのである。うるさい。騒々しい。馬鹿になる。端的にそう感じる。テレビは人間を馬鹿にする。これは直感である。私は馬鹿にはなりたくない。もっと賢い人間になりたい。だから私はテレビを観ないのである。
(老い)
老いるということは、これを否定しさえしなければ、きわめて豊かな経験なのである。40を過ぎて、私はこのことを実感する。何というのか、この玄妙な味わい、人生の無意味もまた意味のうち、意味でも無意味でもない在ることそのもの、存在と時間、時間の時熟。自身の人生を歴史として味わえる成熟とは、そのまま人類の歴史を自身の人生として味わえる成熟である。この味わい、この思索が、なんともおいしいのである。飽きないのである。このまま60、70の歳を迎えるものなら、どのような思索の深みに遊べるものか、ワクワクするところがある。
池田さんは、今年の2月の死の直前まで「週刊新潮」のコラムの執筆を続けていました。最終回は、「墓碑銘」というタイトルで、池田晶子ファンのブログにその内容が紹介 されていますが、最後まで池田さんらしい生を貫いたのだと思います。
60、70歳の池田さんの思索の深みを覗かせてもらえなくなったのは残念なことだけど、池田さんの遺志を肝に銘じて、自身のテーマについて自分なりに考えないといけないな。
(参考)
・41歳からの哲学 (amazon.co.jp)
・池田晶子 出版リスト (amazon.co.jp)
・池田晶子さんのプロフィール (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
・「14歳からの哲学」紹介 (当ブログ)
・哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ
2007/3/25
最近読んだ本の備忘録(3月分第4回)。
○ブックカフェものがたり(2005)/矢部智子、今井京助ほか
本とコーヒーがあって、どちらも大好きな人にとっては、この上なく贅沢な時間を過ごせる場所である「ブックカフェ」に関する情報を集めた本です。
全体は3部構成となっていて、この本のメインである第1部「ブックカフェ・オーナー、かく語りき」では、東京、大阪、京都の9つのブックカフェのオーナーに取材し、店のコンセプト、開店までの経緯、苦労話や今後の展望などが載せられています。ちなみに、ここで取り上げられているのは、大阪の「ちょうちょぼっこ」、「いとへん」、京都の「ミハス・ピトゥー」、東京の「ボヘミアンズ・ギルド」(神保町)、「ふるほん結構人ミルクホール」(千駄木)、「カフェ・アパートメント」(高円寺)、「カフェ・オーディネール」(下北沢)、「文鳥舎」(三鷹)、「よるのひるね」(阿佐ヶ谷)です。
一口に”ブックカフェ”といっても、本屋の片隅にカフェがある店、棚に置いてある本を買うことはできないけど自由に読むことができる店、古本専門の店、新刊も買える店など、その形態は多種多様で、それぞれの店が独自の個性やカラーをもっています。
第2部「ブックカフェを始める、ブックカフェを続ける」では、自分で開業してみたいという人にとても参考になる、ブックカフェのオーナーによるブックカフェ開業講座と、開業後の悪戦苦闘の具体事例が掲載されています。第1部でのオーナーインタビューからも想像されますが、ブックカフェからの収入だけで何とかやっていくのは、相当の苦労が伴うようです。
第3部「ほかにもたくさんある、個性派ブックカフェ」には、見開きページに1店ずつ計8つの店が紹介されていて、僕が時々行く西荻窪の「ハートランド」(1997年開店)については、”日本で最初のブックカフェ”という呼び名が定着している店である、と紹介されていました。
(参考)
・ブックカフェものがたり (amazon.co.jp)
・「文鳥舎」紹介 (My ブログ)
・「ハートランド」紹介 (My ブログ)
○14歳からの哲学(2003)/池田晶子
著者の池田晶子さんは、2月23日に腎臓がんにより46歳の生涯を閉じられました。池田さんの著作に触れるのはこれが最初でしたが、とても感銘を受けました。遅ればせながら他の著作についてもこれから読んでいきたいと思っています。
この本には”考えるための教科書”というサブタイトルが付せられていて、ここで述べられていることの中心的な命題が、”自ら考えること”であることが明確に示されています。本書は、14歳の中学生に池田さんが語りかけるスタイルで(後半の1/3ほどは、17歳に向けて)、人として生きていくために考えておかなければならないことについて、難しい哲学用語を用いずにそのエッセンスを伝えようとしています。語られているテーマは、たとえば、”考えること”、”言葉”、”自分とは誰か”、”死をどう考えるか”、”家族”、”社会”、”理想と現実”、”友情と愛情”、”恋愛と性”、”善悪”、”人生の意味”、”存在の謎”などについてです。
以下は、第1章(考える[1])の冒頭の文章です。
君はいま中学生だ。
どうだろう、生きているということは素晴らしいと思っているだろうか。それとも、つまらないと思っているだろうか。あるいは、どちらなんだかよくわからない、なんとなく、これからどうなるのかなと思っている、多くはそんなところだろうか。
これだけ読んで、ああこれは中学生だけが語りかけの対象なのではないのだなとわかりました。僕などはまさに” 多くはそんなところ”派ですが、先に書かれていることがとても気になります。
もっとも大切なのは、なんとなく「思う」のでなく、「悩む」のでもなく、「考える」こと。「思い悩む」と「考える」ことは全く別のことで、正しく知るためには正しく考えることが必要であるということが語られています。
それでは、何について、どのように正しく考えればいいのだろう。
この世の中には、当たり前なことよりも不思議なことは存在しないんだ。君は、自分が生まれて、いろいろ思って、あれこれ生きて、そしてやがて死ぬという当たり前のことを、とんでもなく不思議なことだとは思わないか。そして、これがいったいどういうことなのか、本当のことを、知りたいとは思わないか。 (考える[3])
このようにして、生きていくことに付随する根源的なテーマについての正しい考え方が示されていくわけですが、ここで示されるのは、あくまで考え方であって、解答ではありません。もし明快な答が示されているのであれば、それは宗教書か、あるいはよくあるひとりよがりの人生論と何の違いもなくなってしまうでしょう。
ここでの池田さんの哲学的スタンスは、基本的には西欧哲学の流れに沿ったもので、とくに池田さん独自の視点から展開されたものではないと思いますが、"生きた"哲学となっているのがすごい。昔読みかじった哲学の解説書をひっぱり出したい気分にもなりました。
精神の自由を知り、生きることの謎に触れ、存在することの奇跡を味わいたい人に一読をおすすめします。
(参考)
・14歳からの哲学 (amazon.co.jp)
・池田晶子 出版リスト (amazon.co.jp)
・池田晶子さんのプロフィール (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
2007/3/18
最近読んだ本の備忘録(3月分第3回)。
○白夜行(1999)/東野圭吾
文庫本で850ページ余りの分厚いミステリー長篇。文庫の解説に作家の馳星周さんが、嫉妬に駆られながら”「白夜行」はノワールの傑作だ” と書いていますが、同感です。”ノワール”とは、犯罪者の視点に立ったものや、過激な暴力を盛り込んだリアルな作品のことで、謎解きを主とした一般ミステリーとは異にする作品の性格上、爽快な読後感というのはたぶん期待できないのを覚悟の上、できれば徹夜してでも一気に読みたい小説です。
1973年に大阪の廃墟ビルで質屋を営む男が殺された。事件は結局迷宮入りとなるが、執拗に事件を追っていた刑事は、被害者の息子・亮司と、容疑者の娘・雪穂(事件当時、二人は小学校5年生だった)の周辺に事故死や、殺人を含む幾つもの犯罪が起こるのを不審に思い始める。最初の事件を含め、二人は一連の事件に関与しているのか、しているとしたら、いったいその動機は何なのか。
小説は、事件の起きた1973年から、その後ほぼ20年に亘る亮司と雪穂の行動を、彼らの周辺に居合わせた人物の視点と証言から追っていきます。亮司と雪穂の内面を示す心理描写はありませんが、会話から二人の心の動きが窺われる箇所を抜き出してみました。
「俺の人生は、白夜の中を歩いてるようなものやからな」 (亮司 1985年)
「あたしの上には太陽なんかなかった。いつも夜。でも暗くはなかった。太陽に代わるものがあったから。太陽ほどあかるくはないけれど、あたしには十分だった」 (雪穂 1992年)
雪穂にとっての太陽に代わるものとは、おそらくは亮司のことだったのでしょう。幼くして人の世の闇を知り、以来ずっとお互いの存在だけを生きていく支えとして薄明の中を歩き続けた二人でしたが、亮司の抜群の頭脳と、雪穂の類まれな美貌・知性とをもってすれば、犯罪を重ねない生き方だって選ぶこともできただろうに、とつい思ってしまう僕は、やはりノワール向きではないのだろう。小説中に70年代から90年代にかけての世情がトピック的に挿入されていて、そういえばあんなこと(ジャイアンツのセリーグ9連覇とか)、こんなこと(インベーダーゲームとか)もあったのだと懐かしく思い出されました。
昨年、山田孝之と綾瀬はるかの共演でTVドラマ化されたDVDをレンタル店で見かけたので、最終回だけ観ようかなと思っています。
(参考)
・白夜行 (amazon.co.jp)
・東野圭吾 出版リスト (amazon.co.jp)
・TVドラマ「白夜行」DVD (amazon.co.jp)
○渋谷(2006)/藤原新也
写真家としての藤原新也さんの著作ではなんといっても「インド放浪」(1972)に強烈なインパクトを受けました。インパクトを受けたのは僕だけでなく、「インド放浪」を契機として、インドを、アジアを旅した若者たちが当時たくさんいたはずだ。藤原さんがアジア放浪により獲得した対象の内側に深く迫る視点が、その後の「東京漂流」(1983)や「乳の海」(1986)やこの作品などを生む源となっているのではないかと思います。
渋谷は、坂に囲まれ谷となったすり鉢状の街、1日に50万人以上の人波がハチ公の鎮座する駅前のスクランブル交差点を渡る街。
真空の中で、人々の身につけていた仮面は溶け、本能のアウラが立ち上り、人いきれによってできたハイな気流が人々の頭上を浮遊している。イルミネーションの光を受けて光る人々の白い歯。道の真ん中に立ち、何かを物色している若者の黒こげの胸に光るプラチナ色のネックレス。ファストフード店のガラスごしに見えるOLの太もも。クスリを売るためにたむろしているイラン人。相変わらず街を練り歩いているガングロ。まるで宴会のように地べたに車座になっているヤンキー。いつもひょうきんな格好で通りに立ち、少女たちの話し相手になっているヘンなオヤジ。あたかも憧れの街に来たかのように目を輝かせながら歩いている地方からやってきた制服少女の一群。
「渋谷」は、藤原さんが出会った二人の少女と一人の元少女の記録です。センター街で母親といさかい起こした少女ユリカを目撃し、彼女の後を追い、彼女の職場であるファッションマッサージのある雑居ビルの階段を上り客として会い、また、メール交換で知った元コギャルでエンコー少女だった25歳のサヤカからは、坂道の途中にあるレストランで話を聞きます。
ユリカもサヤカも、そしてもう一人の少女エミも、思春期になってからそれまでは絆の深かった母親との関係が歪んでしまっています。彼女らは母親の期待を裏切らないように生きてきた自分に気づき、母親の愛を疑い、逃れようと反発しあがき、生じてしまった歪を回復するのではなく、自分を壊してしまうことで、そこから逃れる道を辿(たど)ったのではないか思われます。一見、うまくいっているような母と娘の間にも、実は表面には現れない様々な葛藤があるのかもしれないな。
本の中間部に、渋谷を撮った10葉ほどの写真が挿入されています。いずれも青紫色のモノトーンの色調となっているのが印象的ですが、これはコギャルから足を洗った今も、目の前の世界から色がほとんど感じられないと語ったサヤカの視覚からヒントを得たとのことです。
(参考)
・渋谷 (amazon.co.jp)
・藤原新也 出版リスト (amazon.co.jp)
・藤原新也さんのHP
○囲碁の人って どんなヒト?(2005)/内藤由起子
囲碁名人戦観戦記者で囲碁ライターの内藤さんが書いたプロ囲碁界のあれこれ。囲碁は、僕が最近一番凝っているものだけど、興味のない人にはちっとも面白くないと思うので中身には触れません。
先月、憧れの梅沢由香里さんが初タイトル(女流棋聖位)を獲りました。由香里さん、おめでとう!
(参考)
・囲碁の人って どんなヒト? (amazon.co.jp)
・梅沢由香里さんのブログ
2007/3/10
最近読んだ本を備忘録的にブログに記しておくことにしました(3月分第2回)。
○蹴りたい背中(2003)/綿矢りさ
さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。
第2作目のこの作品でりささんは史上最年少(19歳)で芥川賞を受賞したわけだけど、この冒頭の文章を考えつくのに1年近くかかったそうだ。冒頭に限らず、推敲を重ねた文章の完成度は高く、潔(いさぎよ)く胸の底に落ちて留まる。
私が孤独にプリントを千切っているのは実験室での生物の授業中のことだ。高校に入学して2ヶ月が経ち、いまだにどこのグループにも属していない余り者は、私とにな川のふたりだけだった。
私は、余り者も嫌だけど、グループはもっと嫌だ。できた瞬間から繕わなければいけない、不毛なものだから。
私が蹴りたい背中は、ファッションモデル、オリちゃんの熱狂的ファン(おたく)のにな川の背中だった。
この、もの哀しく丸まった、無防備な背中を蹴りたい。痛がるにな川を見たい。いきなり咲いたまっさらな欲望は、閃光のようで、一瞬目が眩んだ。
(参考)
・蹴りたい背中(amazon.co.jp)
・綿矢りさ 出版リスト(amazon.co.jp)
○インストール(2001)/綿矢りさ
りささんが高校在学中の17歳の時に発表した処女作で、史上最年少での文藝賞受賞作品です。
自称変わり者の高校3年生、朝子は受験戦争から自ら脱落し学校へ行かなくなった。発作的に猛然とマンションの自分の部屋の掃除を始め、すべての家具や物をゴミ捨て場に運び、地べたに寝転び朝子は物思う。まるで女子高生版漱石のよう。
まだお酒も飲めない車も乗れない、ついでにセックスも体験していない処女の17歳の心に巣食う、この何者にもなれないという枯れた悟りは何だというのだろう。歌手になりたい訳じゃない作家になりたい訳じゃない、でも中学生の頃には確実に両手に握り締めることができていた私のあらゆる可能性の芽が、気づいたらごぞっと減っていて、このまま小さくまとまった人生を送るのかもしれないと思うとどうにも苦しい。
朝子のパソコンを拾った小学生の男の子から、一緒に組んで仕事をしないかと持ちかけられ、アダルトサイトのチャットでHな会話をするバイトを始めた。
文章の力は「蹴りたい背中」ほどではないにしても非凡です。
調子の悪いパソコンはインストールし直せば、あるいはリセットすれば、うまく再立ち上げできるかもしれないけど、人間はそううまくいかないだろうな。いやインストール次第(生きがいとか)では案外うまくいったりするのかも。
映画化もされているので、今度レンタルしてみようか、やっぱりよしておこうか。
(参考)
・インストール(amazon.co.jp)
・映画「インストール」公式サイト
○ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法(2001)/福田和也
先月紹介した「福田和也の文章教室」では、読ませる文章を書くには、まず読む力をつけることが前提だということで、著名作家の文章を例に読み方を学んだはずだけど、いまいち即効性に欠けるということで、福田さんの指南本をもう1冊読んでみました。
2000年に発刊した福田さんの著作が12冊だったというからすごい。大学で教え、週に3日は友人と飲み、睡眠はきちんと1日8時間とり、なおかつあまたの原稿を書きながら、1日平均3冊あまりの本を読むなんて、まさに超人的な技というほかはありません。
この本の第T部「どう読むか」と第U部「どう書くか」のポイントをピックアップしてみました。
第T部 どう読むか
・より効率的に読む方法:本を読む目的をはっきりさせる。役に立つ本を選ぶ。自分にとって信用できる評者を見つける。立ち読みによって「あたり」をつける。ページを折る。手書きで抜書きをする。
・テレビに情報価値はなく、時間の無駄。テレビで暇をつぶしているには、人生はあまりに短い。
第U部 どう書くか
・情報を集め、整理し、表現する
・文章上達の「近道」とは
必要なのは技術より認識;
@書く文章についての認識:自分が上手い、あるいは好きだと思う文章の構造を認識するためにコピーし、分析する
A自分が、何を書くということの認識:目的を十分に見定める。
・書いているものが行き詰った時にどうするか:散歩で発想など
・「スランプ」の管理の仕方:フォームを崩さない(執筆の時間帯の設定、机周りの整え方、あるいは本をどういうふうに読んでいくか。そうした自分なりのやり方を、しっかり確立しておく。一応机に座っていること)など
やはり文章上達にはそれなりの努力が必要なようで、一朝一夕にはうまくならないのだということがよ〜くわかりました。
(参考)
・ひと月百冊読み、三百枚書く私の方法(amazon.co.jp)
・福田和也 出版リスト(amazon.co.jp)
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