自分の実家に、一冊の本がある。
1984年アサヒグラフ9月5日号、夏の甲子園特集だ。
当時の自分は少年時代。
自分が買った記憶はないから、家族の誰かが買ってきたものだ。
しかし当時住んでいた茨城県の高校が甲子園で初めて優勝しちゃったもんだから、そのアサヒグラフをまるで自分のもののように枕もとに置いて、何度も何度も愛読していた。
優勝したのは取手二高。しかしなぜか表紙は決勝戦の敗者PL学園のエース桑田真澄だったので、当時「なんで取手二高の選手じゃないんだよー」と不満に思っていたのをいまでも思い出す。
でも、同時にそれだけ桑田が凄い選手であることは、その時すでに認識していた。それだからこそ、その時の取手二高の優勝がどれだけ偉大なことであったかもよくわかっていた。
最強の敵からの勝利。
のちに同じ木内監督で常総学院が優勝して再び茨城県に優勝旗をもたらしても、そんなにうれしくなかった。スター選手のいない全員野球の取手二高、女子高あがりで全校生徒数で女子の方が圧倒的に多かった茨城の小さな高校があの王者PLに勝ったことが、少年であった自分にとっての誇りだったのだ。
たしか準々決勝か準決勝あたりもだいぶ苦戦していたし、遊撃手でキャプテンの吉田(のちに近鉄に入団)の本盗成功なんてのもあったっけ。とにかく下馬評を覆しての決勝戦進出だったし、PLを倒しての優勝は本当にまさかの出来事で、ものすごくうれしかった。
あれから24年。
今年、桑田と清原の「KK」が同じ年にプロ野球を引退した。
少年時代はバリバリの巨人ファンだった自分は、あのドラフト会議の時は唖然としたものだ。さすがに清原がかわいそうだったし、桑田は早稲田に行くと公言していたから「裏で何かあったのでは?」と自分でさえ勘繰ったものだ。
高校時代は無敵のピッチャーだった桑田、でも1年目でプロ初登板した桑田は本当に「きゅうりに爪楊枝をさしたような」ひょろひょろの体に見えた。まだプロの身体になっていなかったのだ。
記憶ではその初登板は打たれている。でも一緒にTV中継をみていた当時同居していたおじさんが、桑田がマウンドを降りた後に「まあ打たれはしたが、あのカーブはものになるな」と言ったのをはっきりと覚えている。
そのカーブは、晩年大リーグの地元アナウンサーに「レインボーボール」と形容され、メジャーの強打者達を戸惑わせた。
清原和博。3年の夏の「甲子園は、清原のためにあるのか!」の名フレーズは、自分にとってリアルタイムでは記憶がない。高校時代の清原に関する思い出は、あの阿波の怪童水野率いる当時最強だった池田を滅多打ちにしたこと、あとはなぜかマウンドに上がって投げていて「へー、清原投げるんだ」って思ったこと。対戦相手は広島商だったか東海大山形だったか、とにかくPLにむちゃくちゃな点数を取られていて、PLの中村監督は余裕のなかで清原を登板させたのだろうが、自分は当時相手のチームを不憫に思ったものだ。
そして2年時の取手二高との戦い。本当に怖い打者だった。
清原プロ2年目の秋、愛憎入り混じる巨人との日本シリーズで突然泣き出した時、巨人ファンだった自分もまた複雑な思いをしたものだ。
あのドラフト、さぞ悔しかっただろう。その恨みを晴らす瞬間。大好きだった巨人、自分を裏切った巨人を倒す瞬間。その気持ちが、本当によく伝わってきた。
清原が西武から巨人に移籍するとき、東尾がその時の日本シリーズを引き合いに出して「あのシリーズでのあいつの涙がすべてだ。巨人に行くキヨを止めることはできない」と言っていたのも懐かしい思い出だ。
巨人では不遇な面が多かったが、自分自身は清原は巨人生え抜きの選手と思ってみていたし、応援していた。職業選択の自由が奪われるドラフトだったからこそ、巨人に入ることができなかったのだから。
清原が巨人に入るときに「ゆくゆくはうちの監督だね」なんて言っていたナベツネが、数年後に清原が怪我したことで「優勝への不安材料がひとつ消えたよ」などと口走っていた。
最低なオーナーのチーム。自分の巨人熱は急速に冷めていった。
清原は「史上まれに見る才能を最後まで活かしきれなかった選手」と言われた。特に落合はそういう評価をしている。「肉体改造」は一時的に清原の力を引き出し復活させたが、効果的と思われたその特殊なトレーニングにより両足の故障という大きな代償を払うことになった。
一方の桑田は150km投げられる力を隠していた。長くプロ生活を続けるためだ。しかしその力を解禁しようとしていた矢先に、あの右ひじの怪我。全盛期に入ったちょうどその時だった。
二人とも故障に泣かされた。清原は2000本安打は達成したが三冠のひとつも取れず、桑田は目標としていた200勝も、メジャーリーグでの1勝も叶わなかった。
しかし、二人は40歳を超えるまでプロの世界で戦ったのだ。
本当に偉大な選手達だった。
実は今年は、あの84年の甲子園で戦った取手二高のエース石田文樹ががんで急逝した年でもある。
少年時代、甲子園大会を見て熱く燃えた夏。
24年の時を経て、その長い歴史が今終わる。