『華氏911』の映画監督が、タイトルにした理由・原点のSF小説。
松岡正剛の千夜千冊
『華氏451度』レイ・ブラッドベリ(1979 ハヤカワ文庫)
//www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0110.html
・・・から、引用。
禁書・焚書の問題を、ブラッドベリが当時のアメリカに吹き荒れていたある忌まわしい現象にプロテストして書いた。
その忌まわしい現象というのはマッカーシズム、すなわち“赤狩り”である。ブラッドベリはマルキストでもそのシンパでもなかったが、社会の成り立ちとしてマッカーシズムの暴挙がとうてい許せない。誰が思想などを検閲できるのか。誰が書物を禁止できるのか。ブラッドベリはそのことをSF的ステージにのせて綴るにはどうするか、それを考えて『華氏451度』を構想していった。そのとき浮かんだのが怖るべき「書物の自然発火点」というアイディアだったのである。
物語は時の焚書官ガイ・モンターグが燃えさかる火の中で任務遂行をしている光景から始まる。
焚書官は映画『ゴーストバスターズ』さながらの大仰な消火装置を装着していて、この世界で禁止されている書物を片っ端から燃やしていく任務をおびている。任務は大胆に、無情に、次々に遂行されていった。
こうして誰もが書物を読まなくなってきた。そのかわり、その世界の“国民”たちには、耳にぴったりはめこむことのできる超小型ラジオ「海の貝」が支給され、どこへ行くときもそこから流れる情報を浴びせられていた。また、家に帰れば帰ったで、部屋の中では巨大なテレビスクリーンが装置されて、たとえ一冊の書物がなくともこれを四六時中眺めていればじゅうぶんに幸福になれるように仕組まれていた。
ところがある日、ふとしたことからモンターグは、この焚書システムの逆鱗にふれるような秘密をもってしまうことになる。焚書担当官が読書にめざめてしまったのだ。そして、ふと目にした書物の一端に「推定によると、1万1千ほどの人々が、卵を小さいほうの端で割ることに肯んぜず、あえて死をえらんだものである‥」というような一文があることを読む。
これはなんでもないことのようだが、その世界では怖ろしいことなのである。なにしろ書物から知識を得るなんてとんでもないことなのだ。しかし、モンターグはその世界に残っている最後の一冊ともいうべき『聖書』にも出会い、世の中にはものの本質というものがいくらでも詰まっていて、書物というのはその本質や核心に迫るための“気孔”のようなものだということを知る。
さらに、あることがきっかけで、「ドーヴァーの岸辺」という詩を読みあげたとき、これをかたわらで聞いていた婦人が心から泣き始めたのも見た。
かくして事態は一刻の猶予も許されないところに向かっていた。このままではモンターグ自身が燃やされる。上官はうすうすモンターグの大逆罪にもまさる所業を察知して、機械シェパードを放ってモンターグらを狩ろうとさえしはじめた。
しかし、その国でモンターグのようになりつつあったのは、モンターグだけではなかった。ここからがブラッドベリの仕掛けが生きてくる。モンターグはついにあるとき出会った一団が、そのまま書物化していることに気がついたのである。かれらは一人ずつが自ら進んで書物化した人物たちだったのだ。
「自分はプラトンの『国家篇』そのものだ」という老人の紹介によると、その一団は、後ろで微笑んでるのがジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』さんで、その横に立っているのがチャールズ・ダーウィンの『種の起源』氏だった。『マタイ伝』や『ヨハネ伝』もいるし、科学が得意な男はアインシュタイン化し、いかにも無抵抗主義者のように見える男はマハトマ・ガンジー化しているようなのだ。かれらは生死を賭けて書物になった連中なのである。いわば古代の語り部である。
こうして事態は、結局は古代の文字がなかった時代のオラル・コミュニケーション世界に回帰する。最後にこの話がどうなるかは伏せておくが、ブラッドベリは書物を殺した帝国に対して、人間の生きた記憶をもって復讐したことになる。まさにボルヘスの「記憶の人フネスの国」の再来だった。
いま、われわれは耳にウォークマンをつけ、手にモバイル・コンピュータを持ち、ポケットに携帯iモードを入れている。
あげくに時代は急激なインターネット普及と拡張によってウェブ総世界を体験しつつあるのだが、それは、ちょっと視点を変えてみると、ブラッドベリが描いた焚書帝国さながらなのである。はたして、このウェブ総世界の情報洪水を前に、いったいわれわれがどのように「書物的なるもの」を取り戻すのか、実は見えにくくなっているともいえる。

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