世の中にはいろいろなホームページやブログなどがあるが、墓のレポをブログにしているモノ好きもココにいる?
PCの画面にお墓が
どーんと出て不気味だ・・・
との声も聞かれようが、心配はご無用。ワシがチキンと供養をしてきている。
では、久留里は「真勝寺」のお墓レポをはじめよう。
まずは久留里藩最後の藩主「黒田 直養(くろだ なおたか)」のお墓である。
慶応4年(1868年)2月、第15代将軍・徳川慶喜が上野寛永寺に謹慎したとき、榊原政敬と共にその警護を務めた。閏4月には新政府に恭順した。
明治2年(1869年)6月、版籍奉還により久留里藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免職となる。
明治10年(1877年)6月2日に隠居し、家督を養子の和志に譲る。明治11年(1878年)6月10日に別家を立てた。
晩年は久留里で余生を送り、大正8年(1919年)11月29日に死去。享年71
(以上は『ウィキペディア(Wikipedia)』の
コピペ)
手軽にレポ、いっちょあがり〜
さて次は「杉木良太郎」のお墓である。
杉木良太郎が父良蔵により手打ちとなったのは、先のウィキペディアの解説の冒頭部分、慶応4年の4月(旧暦)のことである。
幕末の久留里藩は、佐幕か恭順かで藩の方針がなかなか決定しなかった。そうした折、官軍・幕軍の双方が久留里藩に詰寄り佐幕か恭順かを迫った。
諸国の情勢を視察してきた藩の家老は、王政復古は時の流れであると黒田を説き、藩は恭順を決定し官軍に無血開城をおこなった。
血気盛んな久留里藩の武士である杉木良太郎は、官軍の兵士から”腰抜け”と罵られたことに腹を立て、兵士との決闘を申し入れた。
騒ぎは次第に大きくなり、良蔵は必死に引き止めたが良太郎はこれを聞かず、黒田藩を守るため止むを得なく譲らぬ良太郎の首を太刀で斬りつけたのである。
これにより久留里藩は逆賊の汚名を着せられることなく、町民も兵乱を免れた。
黒田直養は杉本良蔵の忠烈を賞し良太郎の忠義心を憐れんで、良太郎を真勝寺に葬った。
(房総の秘められた話、奇々怪々な話より)
墓石には
慶應四戊辰年
勇猛院〇頁覚良悟信士(〇頁は頸か?)
閏四月十日
とある。