
私の『綾』サイトと相互LINKさせていただいている、ライ・べヴェル氏のサイトへと赴く。氏とは、私の中也に関する思索的な記事にコメントを寄せていただいて以来の仲ではあるが、僭越ながら、改めてそのご本等を拝見させていただいたりしていると、中也に対する真摯な姿勢が、努めて深く感じられて、ひとり感に堪えぬ。
*RKBTV・NEWS/ライ・ベヴェル氏に関する報
幼い頃に、中也の詩文を見初めて以来、早30年、いまや時代を超え、そうして海を越え、多くの人々に読まれているのかと想うと万感の想い、ひとしおである。私も私なりにそんな癒され続けてきた中也へのほんの少しばかりのご恩返しとして、拙作連載中(『爛熟』)のある一章で、主人公の詩人が若かりし頃、恋人に対して好きな詩人の詩を呟く場面を設け、そこに中也を登場させようと想っておりますけれど・・・、中也は没して69年、いまだに世の人々を魅了し続けており、その世界はまだまだ奥深く瑞々しきこと、このうえない。いいものは時空を超える。中也もまた、そんな想いの只中のひとりでしたね。
*旧サイト投稿記事拠り
中也はいまだに僕に呟いてきます。「雲の間に月はいて それな汽笛を耳にすると 悄然として身をすくめ 月はその時空にいた それから何年経ったことか 汽笛の湯気を茫然と 眼で追いかなしくなっていた あの頃の俺はいまいづこ ・・・頑是ない歌より」 あれは、そう確か僕が中学生の頃、十代の頃でした。学校の図書館の四隅の本棚にその本はひっそりと、さも僕が手にし易いように置かれていましたっけ。
中原中也「在りし日の歌」。この詩人にはじめて接した時の感動は未だに僕の記憶から消えていません。ああ、なんと悲しい歌が綴ってあるのだろう、なのに何故、これ程までに優しい心根で読み進んでゆけるのだろうか? それ以来、この詩人の著作、様々な作家の描く中也の実像が知りたくてたくさんの書物をひもといてきたつもりです。そこから推察されうる彼本来の性質はその悲しく優しい詩とはあきらかに違ってかなり猛々しいですよね。あの中也の肖像からはとても及びもしない荒々しい性格。そこからつむぎだされた読む人の心根を優しく愛撫するかのような詩の羅列。 僕なりのこれはまったく僕なりの私感なのですが、中也はかなりの孤高の人だったと想うのです。なかなかその詩境が他に理解されず絶えず苦悩していた、酒を飲み管を巻き暴言をわめきちらす中也の姿はつとに有名ですけれど、そして人としてはかなりの嫌われ者だったという気もします。ただそんな荒くれ者がえてして人間の本質をえぐることに長けていたりするものでけっして他者からむげに排除されうる存在ではないはず。そんな性質の多くの者達が世間の片隅に追いやられてゆく中で中也には、けれど詩があった、つまりそれはひいては詩の世界に逃げることができた、あるいは耽溺できる世界があったとも言えましょう。「ホラホラ、これが僕の骨だ、生きていた時の苦悩にみちた あのけがらわしい肉を破って、しらじらと雨に洗われ、ヌックと出た、骨の尖。・・・骨より」 中也はいま草葉の陰でどんな管を巻いているのでしょうか?おお〜い、中也!いい酒を持ってきたぞ、一緒に飲もうや!