
*青年は、この書物と一夜を共にする。K『伊豆の踊り子』
使い古された言葉ですが、僕はこの小説をこよなく愛しております。10代の頃、この名品に出遭えて、まず冒頭の「道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た」なる一文で、溜息を洩らしました。いわばさらりと情景描写から入っているのですが、新感覚主義と謳われた川端の妙が、そこには見てとれる。直裁的で感情的な言葉を好んで使いたがる僕の書くものとは明らかに違う、表現技法。「追って来た」普段、なかなか語り言葉として使わない、この表現も川端ならではのさもありなん、判り易い文章表現と申せましょう。
さらりと乾いているが、その奥に流れる韻律はしっとりと濡れていて、川端の文章にはやはり、読み手を唸らせる何かが、ある。僕は未だにどこか躍起になってかの方の影に忍び入ろうとしている、ようで・・・。やはり多分、死ぬまで憧れていく、異業の作家のひとりでしょうね。川端、芥川、太宰、三島・・・僕の偏愛の文学者達は、すでにこの世のひとではないのですけれど、やはり読み継がれていく作家には、時代を越えうるだけの世界観、表現技法があるわけで、幾度と読んでも修練にはなりますよ。
「何か御不幸でもおありになったのですか」
「いいえ、今人に別れて来たんです」
私は非常に素直に言った。泣いているのを見られても平気だった。私は何も考えていなかった。ただ清々しい満足の中に静かに眠っているようだった。
僕は、小説の良し悪しとは文体にある、と想っているくちなので、まずその文体がいかようなものなのか、そこをじっと見やって判断するわけです。世の中にはあまた架空の物語はそれこそ無数に存しますが、そこに重きを置かずストーリーにあまりに偏重したかのような物語は、直ぐに厭いてしまいますし、途中で投げ出したくなってきます。
けれど言うは易し、です。自身のこの観念に挑む、ように作品、みたようなものを編んでいくのですけれど、なかなかに骨が折れると申しましょうか、上手くいきません。いつぞやか皆々様にご評価いただけるように、いまだに日々昏倒模索、日々修練の毎日、ですね。
青年は、道の途上でこの書物と一夜を共にする。『伊豆の踊り子』青春、文学青年時代の懐かしくも厳き書の一冊、です。