
*青年は、この書物と一夜を共にする。J『初恋』
ふと、明治の代の歌人全集を紐解いていたところ、この方の名が眼に留まった。尾崎翠、明治の代から昭和にかけて生きたひとで、私は学生時分、このひとの『初恋』を読み、さやかな感銘を受けた記憶が、ある。
作家特有の、全身の総毛が粟立つ、かのような眠る暇もほっと息つく時間もない、かのような流行作家的時代を経たひとではなかったらしいけれど、昭和の末期、従って私の学生時分には、ちょっとしたこの方のプームみたようなことが起こって、あちらこちらの文芸誌等で、よく特集記事を眼にした。文体的にはひじょうに読みやすい、けれどしっかりと言葉が租借されたかのような文章を編んだ作家、だったなという印象もある。今回、彼女の愛すべき小品、短編のたぐいを、ほんのすこしばかり手繰ってみたところ、その面白さ、イメージの想起しやすい文章に、改めて感慨を得た、次第。彼女は晩年、彼女の名声が一気に高まったのちも、あらゆる面会、取材のたぐいを固辞、世に出てくることを必要に拒み続け、やがてひっそりと死去した、という。何が彼女をそこまでの想いに至らしめたのか?、そこに想いを凝らすことも、また文学のひとつのひそやかな研究思案と申せましょう。
青年は、この書物と一夜を共にする。明治の代に想いを巡らす。自身の歩んだ、ずっと彼方にはまだまだ私の知らぬ世界が、幾十、在るのでしょうね。