
*青年は、この書物と一夜を共にする。N『ニーチェ著作集』
ひとは、自身を正当化する為に思索するのだ・・・とは或る有識者の言葉、です。諧謔性を感じるこの言葉の裏には、思索せぬ者にはついぞ自身を知る手がかり、みたいなものは得られないだろうというパラドックスを含んでいます。一部の人々にとっては、なんら効力を発揮し得ない言葉、なのでしょうけれど、僕にはこう、いった言葉は尊い、と想わずにはをれません。己を知る。多分、生きているということは、引いてはそのこと自体に大いに関わってこようことだろうから。また、今日も思索の只中へ。いざ、往く。
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「脚下を掘れ そこに泉が湧く」
哲学という名の思索の森も、分け入って見ると、随分奥が、深いです。
実存哲学の先駆者で、キリスト教的・民主主義的倫理観を弱者の奴隷道徳と見做し、強者の君主道徳を説いて、その具現者を「超人」とする思想を発表。この異能なるドイツの哲学者の言葉が、我が家には長く飾られていて、僕はたまに、その言葉を見上げたり、そらんじたりしてきました。
それは僕が小学校6年時、卒業アルバムと共に渡された色紙に記されていたもの。当時はあまり深く感じ入ることはなかったけれど、その後、少しづつ大人になるにつれ、僕なりにこの言葉の意味を解するようになってきました。
何か事があって、判断に迷った時は、この言葉を思い出し、一番、その判断で自分が納得できる、もしくは譲歩できる選択を、しよう。
そんな意味合いで僕は、タイトルに掲げた言葉を従えています。
今、僕の生活には欠かせないPCが置かれている部屋で、見上げれば額縁に飾られた、この言葉があります。
価値観は、ひとそれぞれ。想うとおりに生きられれば、それはそれで満足だろうけれど、僕みたいな阿呆は、恒にどこか迷っている。感覚や感性で日常の様々をバッタバッタと切って切りまくっているかのように、見える(らしい)僕でも、実は恒に、このこころ、迷っている。
ふと、見上げればニーチェ。思索の森のお話しを、今日はこれからゆっくりと読みふけるために、僕は本棚のガラス戸を、さらりと開けるのでした。