
現実の生活と物語の世界は、通常、関連性を帯びない。物語のように人は生きれない、生きていないということです。だからこそ、作家としての腕の見せ所、なのでしょうけれど、だが、往々にして価値概念までは現実の生活からは逃れられないので、ここに作家としての苦悩は生まれる。有り得ないことを、さも有り得たこととして書く、ことこそが作家としての領分だとしたら、やはり物を書くという行為は、なんと創意に満ちた世界だろうかとは想う。だが、言うは易し。僕も、日々、有り得ないことをさも有り得たこととして、空想しているわけですけれど、悩みは尽きませぬね。先だって、有る席で、この有り得ない物語のお話しになって、僕はかの芥川の作品を持ち出して、ああでもない、いや、こうでしょうと持論を呟いた。芥川は観念をまず拡げ、そこに微細な情景描写を配置させることで、作品自体にリアリティを持たせようと、よく努めた作家としても知られている。文章作法の妙。たとえば『羅生門』での、下人の右頬にある大きなほくろだとか、崩れかかった石畳にはカラスの糞を置いてみたり柱にはキリギリスを置いてみたり、だとか。こういった何気ない一描写が、瑞々しき一枚の風景画を見せられたがごとく読者はいざなわれて、作品、それ自体の世界に知らず知らずのうちに引き込まれる。寂しさ、わびしさをそれら描写が際立たせる。感嘆、です。やはり、芥川は、僕の中で偉業の作家、です。
感情をさもありのままに吐露、した作家としても芥川はつとめて有名、なのですけれど、果たしてその文章は芥川が本当に心情を吐露して書いたものなのか、どうか。創意と寓意に満ちていやしないだろうか?、装飾と技法の天才、芥川の作品は、いや、何度読んでもあらぬことを感じさせますね。