カロリング家系図
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カール大帝は、フランク族の伝統にしたがって、3人の子を後継の共同統治者に任命したが、そのうち2人はカールの死に先だって死亡してしまった。そのため、813年、ただ1人のこった息子ルートヴィヒ(ルイ、アクィテーヌ王)を次の皇帝に任命し、翌814年に死去した。フランク王国を単独相続したルートヴィヒ1世(ルイ1世、敬虔帝(王))は、長男ロタールにバイエルンをまかせ、次男ピピンにアクィテーヌの王位を譲った。ただ、イタリアは、ルートヴィヒ1世の甥でカール大帝の孫ベルンハルトが王を継いでいた。
帝位を継いだルートヴィヒ1世は、直ちに未婚の姉妹を修道院に送り、カール大帝の顧問で大帝の従兄弟にあたるアーダルハルトとヴァラの兄弟を剃髪しノワルムーティエ(フランス西部、ロワール川の河口の島)とコルビーの修道院に幽閉した。ルートヴィヒ1世の顧問となったのが、セプティマニア辺境伯ベルナト(カール大帝の従兄弟で伝説的英雄聖ギョームの息)とランス大司教となった農奴出身のエボーであった。
ルートヴィヒ1世は、信仰心がきわめて厚く敬虔帝(敬虔王)と呼ばれたが、優柔不断な性格だったといわれ、カール大帝は庶民感覚を忘れなかった人で、多くの歌物語を蒐集して記録させたが、キリスト教的ではないとして焼却してしまっている。
敬虔帝は、817年には帝国計画令を発布した。アーヘンの王宮の一部が崩壊し破損したことを、死の訪れをあらわす神の意志と判断したためであった。帝国計画令では、帝国の領土をフランク族の伝統にしたがって3人の子供に分け与えることとし、長男ロタールにはイタリアを含む王国本土を、次男ピピンにはアクィテーヌを、三男の若ルートヴィヒにはバイエルンの統治を委ねることとして、長男ロタール1世を共同皇帝(結局、父敬虔帝はその後23年間も長生きするのだが)とし、下の2人を副帝として皇帝の統制に従うことを定めた。フランク王国の慣習である分割相続の慣習と帝国の統一の保持の両方を実現しようという妥協的な計画であった。
ところが、イタリア王ベルンハルトが従兄弟のロタール1世の下の置かれたことから、反乱をおこすと敬虔帝によって退位させられ、818年ロタール1世がイタリア王(ランゴバルト王)の地位を手に入れた。その後、ロタールは単独の帝位を狙って、幾度か父敬虔帝に反乱を起こすことになる。
ところで、敬虔帝は、バイエルンの有力貴族であるシャッセンガウの伯ヴェルフ(後の神聖ローマ帝国の有力諸侯となるヴェルフ家)の娘ユーディトを2番目の妻とした。823年ユーディトとの間に末子カールが誕生すると、ヴェルフ家は3人の兄と同様カールにも領土を要求した。カールを偏愛する敬虔帝もこれに応え、829年カールにアレマニア、アルザス、ブルグントなど広大な領域を与えることを決めた。
カロリング帝国
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http://en.wikipedia.org/wiki/File:Carolingian_Empire_map_1895.jpg

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