ノーモア水俣病:50年の証言/34 水銀分析 /熊本
◇「精力的に国際貢献」−−「赤木法」確立、元国水研の赤木さん
1978年10月、水俣病に関する総合的医学研究を目的に、水俣市の湯の児海岸を見下ろす高台に国立水俣病研究センター(国水研)が完成した。環境庁(当時)の施設で臨床部、基礎研究部、総務課の2部1課。96年には多くの未認定患者が政治決着を受け入れたのを機に環境と人の健康にかかわる情報を世界に発信しようと、国際・総合研究部を新設して「国立水俣病総合研究センター」に衣替えした。現在は、水銀関係の研究はもとより、患者のリハビリや海外の環境汚染研究者たちを受け入れる施設として利用されている。
赤木洋勝さん(64)=同市袋=は設立から3年足らずの81年、「水銀で汚染された水俣湾の全体像が知りたい」と、国水研に着任した。鹿児島県枕崎市出身。岐阜薬科大学大学院修了後、厚生省(当時)の国立公衆衛生院を振り出しに、衛生化学分野で水銀汚染のメカニズムの研究に携わっていた。カナダ国立科学研究所の客員研究員時代には、水銀に汚染されたオタワ川プロジェクトに従事し、水銀のメチル化と生物濃縮機構の解明を研究した経験もあった。
着任時の研究者はわずか5〜6人、体内に取り込まれる金属の影響などを研究していた。研究の根本となる水銀分析は「公定法」と呼ばれる手間と時間がかかるやり方で、赤木さんは「もっと簡便で時間が短縮でき、正確な値となるやり方はないか」と分析法の開発に打ち込んだ。メチル水銀の抽出溶液を変えるなど試行錯誤を繰り返し90年、従来より簡便で精度が高く、少量の試料でも測定可能な「赤木法」「赤木方式」と呼ばれる分析法を確立した。
自動水銀測定装置も考案、実用化させた。「金魚用ポンプを転用したり、大学院時代に実験で使った基礎的な材料を試してみたり、過去の経験と身の回りのものを応用して考えついた」と振り返る。
世界で水銀分析法は数十種類あり、代表的なものは赤木法含め10近い。環境省は赤木法を採用した。専門家の間でも「ほかの分析法が一定の試料しか使えないのに対し、赤木法は人体、動物、水質、土壌、底質など幅広い試料に対応できる」と評価されている。
90年に赤木法が発表された後、国水研には国内外から問い合わせが相次いだ。金採掘に伴う水銀汚染国の研究者たちが、何人も赤木さんの元を訪れ教えを請うた。赤木さんは04年3月、国水研を退官したが、よりよい技術を開発しようと同年6月、自宅近くに私設の研究所「国際水銀ラボ」を開設。国水研と共同で、海外の研究者を受け入れたり、自らもブラジルなど世界中を訪れ、精力的に水銀分析技術を伝えている。
今月、赤木さんと共にカザフスタンで技術指導する国水研の松山明人・疫学研究部リスク評価室室長(45)は「発想が豊かで、研究者の鏡と言える方。精力的な研究に頭が下がる」と話す。
水俣の研究も20数年が経過した。「分析法は進化していくもの。全試料に対応できるまで進化させたい」と意欲が尽きない。赤木さんはこうも言う。「日本という国も、研究者も、水銀の研究成果を伝え、世界に貢献しなければいけない。それが教訓だ」。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2007年3月6日
ノーモア水俣病:50年の証言/35 相思社 /熊本
◇敵だった行政と連携−−住み良い町目指し活動30年
財団法人水俣病センター相思社は「水俣病運動のよりどころを作ろう」と全国から寄付金約3300万円が集まり、74年4月7日に誕生した。
「互いに思い合う」という意味を込めた。キノコ工場で患者との共同作業▽患者らが栽培する低農薬甘夏などの販売▽はり・きゅう・マッサージ治療▽水俣病と有機農業を学ぶ「生活学校」の開設▽水俣病関連資料の収集−−など訴訟や運動をあらゆる面から支えた。チッソや行政と「闘う」場所だった。ところが、89年の甘夏事件を機に方向性が変わっていく。
現在の常務理事で相思社職員、遠藤邦夫さん(57)は87年10月、神奈川から相思社の生活学校にやって来た。89年に相思社職員になった直後、甘夏事件が発覚。責任を取り川本輝夫(故人)理事長をはじめ、多くのベテラン職員が去った。設立以来最大の危機を迎え、「就職して大船に乗った気持ちだったのに、その船は泥船だった」と、ショックを受けた。
相思社は規模を縮小し、水俣病を伝える活動を中心に再出発することになった。その核が前年の88年に完成した歴史考証館。水俣病の教訓を伝えつつ、収入も得たいと福岡や東京など各地で考証館の移動展を開いた。そのころ、熊本県など行政が地域再生を目指して「環境創造水俣推進事業」に乗り出し、相思社に「ユージン・スミスの写真展を一緒にやらないか」と連携を求めてきた。
相手はかつて敵対した行政。「変節するのか」「ひよるのか」という非難も想定しつつ、遠藤さんたちは全国の維持会員に意見を問うた。すると意外にも「行政だから組まない、という理由はおかしい」と肯定する声がほとんど。それを境に行政との連携が始まり、現在までに数多くの企画を打ち出した。さらに、遠藤さんの考え方を劇的に変えたのは、環境創造水俣推進事業に関連して水俣のこれからを考える私的懇談会「水俣研究会」での出合いだった。
県や市の行政マン、地元商店主、青年会議所会員らが約1年間、月1回以上、意見を言い合った。ルールは「意見が違っても席を立つな。相手の声に耳を傾けろ」。学生運動の名残から、自分の主張が届かない時には席を立つのが「普通」だと思っていた遠藤さんには新鮮だった。「それまでは町の人たちを『チッソの肩ばかり持って、患者を差別して、まともじゃない』と思っていた。でも、じっくり話してみると、町の人もいろいろ考えていて、互いに互いを知る機会が無かっただけと、初めて気付いた」と苦笑する。
◇ ◇
相思社の考証館入場者は年間約3000人。年間約70団体が、水俣病を学ぶ町案内を求めて訪れる。患者関連では生活相談、新保健手帳の手続き代行など、何でもこなす「駆け込み寺」のような存在だ。「患者が安心して暮らせる町は、だれもが住み良い町。それを目指すのは設立趣旨にかなう」と遠藤さん。
市を挙げて反対運動が高まっている産廃最終処分場建設問題への積極アプローチには、そんな願いも込められている。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2007年3月20日

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