これはSF青春ものであるらしい。たとえば、小津の映画を見ていて、「もしかしたらこれはSFなんじゃないか・・」という妄想にかられることがあるけれども、そのように「もしかしたら・・SFなのかもしれない」といった「たとえ」として言っているのではなく、この『憐-Ren-』という映画は500年後の未来から来たという少女が主人公のストーリーのものであり、だから間違いなくSFものであるようなのだ。だがしかし、この映画では500年後の未来がCGを用いて描かれたりはしないし、500年後の未来から来たという少女が主人公であるということは、当の少女の口から台詞として語られているだけであり、だから実際のところは本当に少女が500年後の未来から来たのかどうかは分からない。もしかしたら少女がそう思い込んでいるだけであるのかもしれない。そうだとすると、実はSFものではないのかもしれないし、小津の映画を見ていてふと「もしかしたらこれは・・」と思うのと同じように、SFものではないものをSFものであるかのように見えているだけなのかもしれない。
でも、小津の映画では登場人物が500年後の未来から来ましたと語るシーンなんてないではないか。たしかにリュウチシュウがハウスのシチューでも作りながらとつとつと自分が500年後の未来から来たと語るシーンが小津の映画にありでもすれば、観客はこれは小津のSFものか!と信じるかもしれないが(そして、ハウスから深読みして小津と大林宣彦との関連性を語る者だって出てくるかもしれないが)、そんなシーンが小津の映画にあるなんて聞いたことはない。だから、『憐』のようにヒロインが私は500年後の未来から来たのと必死で周囲の人間に台詞で説明する(相手役の単純そうなーこう書くと悪口みたいだけど、逆に一途で純なやつとも思えるー少年以外はなかなか容易に少女の言葉を信じてくれないのだけど)ような映画と、小津の映画とを同一視するべきではないと言われるかもしれない。
それはその通りなのだけど、でも『憐』と小津の映画とをつい比較したくなってしまうのは、実は単にSFみたいだ・・という連想からだけではなくて、画面のつくりにおいて、複数の人物が同一方向を見ながら話をするといった点に『憐』という映画が小津の映画を想起させるところがあるからであって、これは偶然ではなく、『憐』の堀監督が小津の映画を意識してつくっているのに違いないのではあるのだけど。
しかし、画面の構図においては小津を連想させるものであったとしても、『憐』は現代の高校生を描いた作品であるから、自転車で2人の人物が並んで走るとか、集団で高校生たちがバスケットボールをするとか、夜の海辺で高校生たちが焚火をするといった、まあ、小津にはあまりなかったアイテムも出てくるわけだけれども(ちなみにこの夜の海辺の焚火のシーンは小津よりもむしろ森崎東の『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』を想起するところなのかもしれないのだけれども)、でも小津の映画のように大人たちがバーで並んで飲んで話をするのではなくて、高校生たちが半円形に円陣を組んでバスケットボールをしながら話すのであったとしても、これがある種の「ごくごく日常的な情景」として描かれている点では(とにかく『憐』という映画の登場人物のひとりが言うには、この高校生たちはバスケットボールしかしていない・・というぐらい、バスケットボールばかりをしているらしいのだが)たぶん通じるスピリットを持つものであるように思えるのだ。
そして、SFものなのに、現代の高校生のごくごく日常的な情景が描かれるばかりなんておかしいじゃないか・・と思われるかもしれないが、これは実はストーリーとしても整合性がとれているのである。なぜなら、これは500年後の未来(そこでは少女は荒んだ人生をおくっていたらしい)から来た少女が、現代の高校生の同級生たちのごくごく平穏な日常に接して、日常の幸せというものを知っていく・・という話なのであるから、ごくごく日常的な情景をきちんと描写することはむしろ、当然なのだ。(原作は読んでいないが、おそらくこの日常の再発見という視点を丹念に描いたことによって、単に眉村卓とか筒井康隆とかの二番煎じではないものを表現していたからこそ小説として世に出たのだろう。)だから、このストーリーに、小津の映画をイメージさせる丹念な日常描写を盛り込むことはストーリーやテーマと合致するものであると言えるし、決して小津の映画からかけ離れたSFもののストーリーの作品に、監督が小津の映画が好きな人だったから小津を模倣した画面の作り方を無理にしたというわけではないのであり、その意味でストーリーやテーマと表現手法、画面づくりが合致した作品になっていると思えるのである。
だが、それにしても、なんでバスケットボールなのか? バスケットが今の高校生の間で流行っているから? よく知らないがそうかもしれない。画になるから? それもあるだろう。あるいはなぜも何も、原作にバスケットボールとあるから映画のつくりてがその設定をそのまま忠実になぞっただけなのかもしれないが、結局、「みんなと一緒の幸せ」のイメージとしてはまさにバスケットボールしか、今の高校生にはないのかもしれない・・。たとえば今の高校生のアイテムとしては携帯電話とか、あるいはみんなと共通の話題としてはテレビとかインターネットとかがあるのかもしれないが、基本的に携帯電話とかはひとりでするものであり(まあ、通話の相手はいるけれども、だとしても2人の間でするものであり)、みんなで一緒に・・と言うとバスケットとかスポーツになるわけである。だから、『憐』に出てくる高校生たちはバスケットばかりをしているのかもしれない。
もうひとつ、小津の映画のような家族の団らんは実は今の高校生たちにはないのかもしれない。たとえばこの映画で少年は冷蔵庫から出した食品を電子レンジで勝手にチンしてひとりで食べるのである。これが現代的な食事風景なのだ。それに対し、ヒロインのほうの家庭は対照的にまだ古風な家の食卓の団らんが描かれているようなのだけど・・実はこうした食卓の風景こそが「SF」なのである・・。

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