2006/3/17

ノーモア水俣病:50年の証言(5)(6)  公害・薬害・環境・医療問題

ノーモア水俣病:50年の証言/5 胎児性世代/下 /熊本
◇働く場求め活動−−仲間を支え、支えられ
 「どうか最後まで楽しんでいって下さい」
 1978年9月22日、水俣市文化会館であった石川さゆりのコンサートは、超満員の約1200人が詰めかけ、熱気ムンムン。主催者を代表し、舞台あいさつに立った胎児性、小児性患者8人は、仕事をやり遂げた誇りと緊張感にあふれていた。
 その中の1人、加賀田清子さん(50)=水俣市月浦=は「大人として働きたい、認められたかったから」と振り返る。8人は当時20代前半。プロダクションとの打ち合わせ、ビラ配り、入場券の販売、ポスターの設置、出迎え……。「子供たち」と呼ばれていた胎児性患者が、地域に大人として認められた瞬間でもあった。
 胎児性患者の症状は千差万別で、重度で寝たきりの人もいれば、中軽度で働ける人もいる。学校を卒業後、「働きたい」と願い、実現できる人はそう多くはなかった。一般企業に就職した中には、勤務先がつぶれかけたり、リストラされた苦い経験を持つ人も。
 同市浜町の「ほっとはうす」は市内に数カ所ある胎児性患者の拠点の一つ。舞台あいさつに立った8人のうち4人を含め、胎児性・小児性患者8人が働いている。仕事は、学校に出向いて子供たちに水俣病の体験を話す出前授業▽名刺製作やポプリ作り▽喫茶コーナーの給仕▽各種イベントでの物品販売−−など。今月18日、熊本市内のある講演会場物販コーナーで「いらっしゃいませ〜」と客を呼び込む胎児性の仲間の横に、車椅子に乗った加賀田さんがいた。
 加賀田さんは、7〜8年前までは自力で歩いていた。40歳を超えたころから、足がまっすぐ伸ばせなくなるなど、同世代の仲間同様に、症状が徐々に悪化するのを感じている。長年、一緒に暮らしていた母は、04年12月「この子たちが安心して暮らせる場所を作ってほしい」と切に願いつつ、亡くなった。
   ◇  ◇
 公立初リハビリテーション専門の「市立湯之児病院」開設(1965年)時から約30年間、ケースワーカーとして胎児性患者をはじめ多くの障害者とかかわり、今もボランティアとして支える永野ユミさん(61)=同市湯出=は「私がかかわった40年を振り返っても、胎児性患者は自らの身体能力の低下と介護する親の高齢化・死亡という、最も切実な問題に直面している」と話す。
 胎児性世代と一回り違う「姉」の世代。就職したころ、永野さんは「彼らが40〜50代を迎えた時、どうやって生活しているのだろう」と思いを巡らした。その心配した現実が目の前で起きている。加賀田さんは父、姉家族と生活しているが、同じ世代の中には、親の死去で独り暮らしを余儀なくされた女性や、01年には、独り暮らしの女性が自死する不幸な出来事も起きた。
 ほっとはうすの胎児性患者たちは今、水俣病患者だけでなく、多くの障害者が地域で暮らせるような、地域福祉の拠点作りの必要性を各方面に訴えている。加賀田さんの一番の望みは、車椅子のまま湯船に入れるような入浴設備を整えることだ。更に、仲間と共に日中活動できる受け入れ態勢も整えたい。「そうなれば、施設や自宅に閉じこもりがちな友達が、町中にも気軽に出てこれるから」と言う。
 「これまでも、そしてこれからも、仲間がいてくれるから今の自分がいる。仲間に支えられていることを世の中に伝えてほしい」と加賀田さんは強調する。
 永野さんは言う。「胎児性世代の問題は常に現在進行形。振り返るような余裕はまだないんです」【水俣病問題取材班】(次回は7日掲載予定)
(毎日新聞、2006年2月28日)

ノーモア水俣病:50年の証言/6 患者互助会 /熊本
 ◇孤立患者に全国の支え−−現在の補償制度勝ち取る
 水俣病と騒げば「チッソがつぶれる」「魚が売れなくなる」。家族を奪われ、胎児性の子を抱え、自らの症状に苦しむ被害者たちに、世間の冷たい風が追い打ちをかけた。孤立した被害者は1957年8月、初の患者団体「水俣奇病罹災(りさい)者互助会」を結成した。後に「水俣病患者家庭互助会」と名を変え、それをもとに第1次訴訟を展開したメンバーが「水俣病互助会」を組織した。患者闘争の源流をなす「互助会」は、今でも真の救済を求め活動を続けている。
 「当時は汚染された魚を食べるから悪いと、普通に生活していただけなのにそう言われることもありました」。元水俣病互助会長の上村好男さん(72)=水俣市=は振り返る。被害者は“チッソ城下町”の中で虐げられ続けた。
 互助会は、魚が売れなくなったためチッソに漁業補償を求める漁協とともに、患者補償要求に動いたが、困窮と偏見は深まるばかり。59年の暮れ、行政の仲介もあり、泣く泣く補償でなく「見舞金」としてわずかばかりの金を受け取った。しかも、「将来、水俣病の原因が工場の排水と決まっても新たな補償要求は一切しない」という理不尽な契約だった。
 見舞金契約から10年近く被害者は沈黙を余儀なくされたが、68年の公害認定で補償問題が再燃。しかし、旧厚生省は補償問題処理を国に一任するよう求め、互助会は一任派と訴訟派に分裂した。
 「見舞金契約もそうだが、(96年の)政治決着、そして今も。行政とチッソは手を組んで押さえ込もうとする。一度も被害者側に立ったことはない」。訴訟の道を選び現在、水俣病互助会長を務める諌山茂さん(75)は語気を強める。
 それでも、現在の補償制度を勝ち取れたのは「全国からの支援者と司法」のおかげ。諌山さんは胎児性患者の娘を持つ。「認定を受ければ『金を持ってるだろう』といやがらせを受け、裁判の時にはチッソの切り崩しで地域や親族からもやめるよう圧力を受けた。病院で娘のカルテが無くなったこともあった」
 人間不信に陥る中、市民会議や告発する会の支援を受けた。東京から来た女性の支援者は娘の食事を手伝ってくれた。「こぼれた飯粒を自分の口に運ぶ姿に『世の中捨てたものではないな』と感謝した」。弁護士も親身に取り組んでくれた。「関西訴訟もそうだが、結局、国を動かすのは司法の力だ」と実感している。「水俣病の被害を語り継ぐ一方で、多くの人が支えた患者闘争の姿を整理して受け継ぐことが大変重要。現代でもだれがいつ被害者になるか分からない。そんな時、素人はどうしたらいいか分からず迷う」と訴える。
 互助会は現在、関西訴訟で確定した行政責任を踏まえた認定制度の見直しや被害実態把握などを国、県に要求している。事務局の伊東紀美代さんは「本当に国が最初からやるべきことをやっていれば今、認定申請者が何千人も出てくることはありえない。被害者がいまだに水俣病に後ろめたさを感じている状況を変えたい」と話す。それでなければ「本当のもやい直しは実現しない」。行政や偏見とも戦ってきた互助会はなおその役割を担い続けている。【水俣病問題取材班】(次回は14日掲載予定)
(毎日新聞、2006年3月7日)
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