*松山事件、再審無罪の斎藤幸夫さんが亡くなられました。
ご冥福を祈ります。
(ニュース)
斎藤幸夫さん死去=松山事件で再審無罪
宮城県松山町(現大崎市)で1955年、一家4人が殺された「松山事件」で死刑が確定し、再審で無罪となった斎藤幸夫さんが4日午前2時13分、大崎市の病院で死去した。75歳だった。
事件は55年10月に発生。松山町で農家が全焼し、焼け跡から4人が焼死体で発見された。斎藤さんは同年12月、強盗殺人容疑などで宮城県警に逮捕された。公判で一貫して無罪を主張したが、60年11月、最高裁で死刑が確定した。
第2次再審請求で仙台地裁が再審開始を決定し、同地裁は84年7月、無罪を言い渡した。その後は、清掃会社に勤めるなどしたが、最近は入退院を繰り返していたという。
(時事通信社 07月04日 19:10)
松山事件:「先日まで元気だったのに」 再審無罪の斎藤さん死去 /宮城
◇代用監獄廃止訴え
「松山事件」で強盗殺人罪などに問われ、死刑確定後に再審無罪を勝ち取った大崎市鹿島台の斎藤幸夫さん(75)が4日、多臓器不全で死去した。老人ホームに入所している母ヒデさん(99)の看病をしながら、1人暮らしをしていた斎藤さん。近くに住む男性は「お母さんの看病を一生懸命やっていた。つい先日まで元気だったのに」と声を詰まらせた。
斎藤さんは1955年10月、松山町(現大崎市)で起きた一家4人惨殺事件で逮捕された。捜査段階から無実を主張したが、1審・仙台地裁古川支部は57年10月、死刑判決を言い渡した。控訴、上告ともに退けられ60年11月、死刑が確定。ヒデさんらによる再審請求を経て84年7月、仙台地裁で無罪を言い渡され、逮捕以来29年ぶりに自由の身となった。
社会復帰後は清掃会社で働くかたわら、代用監獄の廃止運動などに尽力。さらに、「死刑」の恐怖の中で過ごした苦痛に対する補償と冤罪(えんざい)の責任を問い、国家賠償訴訟を起こし最高裁まで争ったが、訴えは認められなかった。
斎藤さんは「金の問題ではなかった。国民を2度と冤罪の犠牲にしないために、と思い闘い続けてきたのに」と理不尽な判決に怒りをあらわにしていた。
斎藤さんの再審主任弁護人を務めた青木正芳弁護士は死去の知らせを受け、「逮捕後の過酷な取り調べについて、集会で語ってもらったことがある。代用監獄の廃止を訴え続けてきたのに、その実現を見ずに亡くなってしまい大変残念です」とのコメントを出した。【青木純、山寺香】
(毎日新聞 7月5日朝刊)
松山事件で再審無罪 斎藤幸夫さん死去
宮城県松山町(現大崎市)で1955年、一家4人が殺害された「松山事件」で死刑が確定し、再審で無罪になった斎藤幸夫(さいとう・ゆきお)さんが4日午前2時15分、多臓器不全のため大崎市鹿島台の病院で死去した。75歳。大崎市(旧鹿島台町)出身。葬儀・告別式は近親者のみで執り行う予定。
関係者によると、斎藤さんは最近、体調が優れず、病院に通う以外はほとんど外出しなかったという。
斎藤さんは、事件の約1カ月半後、別の傷害容疑で逮捕され、4人殺害についても「自供」したとして、強盗殺人罪などで起訴された。公判では無罪を主張したが、60年、最高裁が一、二審の死刑判決を支持し、死刑が確定した。
斎藤さんは再審請求を起こし、83年、2度目の請求で再審開始決定が確定。84年の再審で、仙台地裁が無罪を言い渡した。85年には、母ヒデさん(99)と国家賠償請求訴訟を起こしたが、2001年に最高裁で敗訴が確定した。
無罪後は仙台市の弁護士事務所で一時期、働くなどした。その後、鹿島台町の自宅に戻り、ヒデさんと暮らしながら清掃員などとして働いた。
(河北新報 7月4日14時55分更新)

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