『LOFT』
女性やラブストーリーは描けないとも言われていた黒沢清監督が、ついに本格的に挑んだ女性映画であり、ラブストーリーであると言える。
もっとも女性は描けないと言われていても、独特の「不思議ちゃん」系のキャラクターは描いてこなかったわけではない。たとえば『ドレミファ娘の血は騒ぐ』の洞口依子や、『勝手にしやがれ!!黄金計画』の藤谷美紀など・・。しかし、それはラブストーリーとしてはあまりにも童話のような世界で、きわめて映画的快楽に満ち満ちてはいるのだけれども、本格的なラブストーリーとは言えなかったように思う。
『LOFT』はやっぱり、黒沢清の、黒沢清による、黒沢清にしか撮れない、全身黒沢清的な、童話のような荒唐無稽なホラー映画なのだけれども・・しかし、ついにはここではある種の等身大的な女性の姿が立ち現れ、そしてぞっとするような、まるで溝口の映画のような激しいラブシーンまであるのだ・・。
思えば、『ドレミファ娘の血は騒ぐ』が衝撃的だったのは・・ゴダール的だったということももちろんあるのかもしれないけれども、同時にまるでジャン・ルノワールの映画のような、ただただ映画的快楽に踊っているかのような瞬間があったからだったのではないかと思う。
若いシネフィルの映画作家はしばしばもしかしたらブレッソンのような映画ならば今でも撮れるかもしれないと勘違いして映画を撮りはじめるのだけど(もちろん実際にはブレッソンのようには撮れるわけがないのであるが)、ジャン・ルノワールのような映画は今ではもう撮れないものなのだと思っていて、その思いは、たとえばフランスのヌーヴェルヴァーグの映画や、黒沢清も所属していた立教大学パロディアス・ユニティの映画に対する共感(シネフィルだからこそ、かつてのようには映画は撮れないという地点から出発しようとしている)に昇華するのであり、そこからスタートしようとしたりするわけだけれども・・しかし、黒沢清の映画はやはりそのような意識から出発していたのかもしれないのにもかかわらず、しかし『ドレミファ娘の血は騒ぐ』で草っぱらに風が吹いたりするとジャン・ルノワールを思い起こしたりさせられたわけで、まるで生まれ立ての赤ん坊のように初々しい映画的快楽がなぜか、溢れてきて、だからこそこの監督は天才なのだと言うしかなかったわけだけれども・・。
そして、この『LOFT』は、最初は中谷美紀の後ろ姿ばかりがやたらと出てきて、ふーん、黒沢清だから女性を撮るといってもやっぱり正面からは撮れないんだなあ、ラブストーリーといってもミイラを媒介にしたという変な形でしかやっぱりやれないんだなあなどと思って見ていて、だけどゴダール的なカットつなぎと言うべきなのか、あまりに大胆なカットつなぎを今回の作品は試みていて、たとえばソクーロフの『ファザ−、サン』を思わせるような男女の窓越しのやり取りのつなぎにぞくぞくしながら見ていくと・・あろうことか、そうした黒沢清映画の枠組み(黒沢清映画には窓と枠はあるけど「枠組み」なんかはないのだと反論されるかもしれないけれども)をこえるかのようなラブシーンまでが用意されていて・・それも、風が吹くさまに、やはりジャン・ルノワール的なものを感じてしまい、今時、こういうものを撮ってしまえるこの監督は凄いと思っていると、ジャン・ルノワール的と思えた瞬間が溝口健二的に変質していくかのような感覚さえも醸し出されて来るようで・・つまり、まるでジャン・ルノワールと溝口健二がミイラとなって手を握りあい、その死んでいるはずのミイラがヒッチコックのように目を開いて立ち上がって来るかのような・・戦慄のシーンが出現したりして・・。
たぶん黒沢監督もここに来るまで長かったんだと思う。本当に長かったんですね・・。でも、まだこの先、長く続くんですよね・・。アカルイミライが。(この作品はアカルイミイラだけど・・。)恐るべし!
絶対に成熟しない!ということは、むしろ、生まれ立ての赤ん坊のように、凄くなっているということなのかもしれない・・。

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