(毎日新聞連載より)
ノーモア水俣病:50年の証言/23 新潟水俣病 /熊本
◇認定申請、今なお−−医師、実態解明続け支援
水俣の悲劇が繰り返された新潟水俣病は65年に公式確認された。被害者支援団体「民主団体水俣病対策会議」議長を務めた木戸病院名誉院長、斉藤恒(ひさし)さん(75)=新潟市=は今も被害者の診察にあたりながら、出生前後にメチル水銀汚染を受けた被害者調査を続けている。
「新潟では水俣の経験を踏まえ、研究者が当初から広範囲に毛髪水銀などの調査を実施しており追跡調査は可能だった。しかし、実際にはやっていなかった」。02年に水銀研究で知られる米国のマイヤーズ教授が新潟を訪問した際、斉藤さんらは進言を受けて調査チームを結成。65年前後の毛髪水銀値調査で高濃度だった母親を対象に子供の症状などをアンケート方式で聞き40人から回答を得た。
それによると、成人で中毒症状が出るとされる50ppm以上の母親から生まれた子供13人のうち水銀中毒は疑いも含め5人だった。一方、10〜24ppmも9人中3人で、濃度が低くなるからといって、水銀中毒の割合が低くなるわけではないことが分かった。現在、斉藤さんのチームは46人まで調査を実施しているが傾向は変わらない。その結果は水俣市で開かれた国際フォーラムでも発表された。
妊婦については米国環境保護局(EPA)が10〜20ppmを危険ラインとし、安全度を考えその10分の1(1〜2ppm)以下なら胎児に影響が出ないとしている。これに対し、斉藤さんは「忍耐力がないといったメンタル面での異常や、最近になって疲れやすくなったと訴える人も多い」と胎児性の未解明部分の多さを指摘し、「まだ調査が必要で、その結果は国際的にも関心が持たれるだろう」と話す。
◇ ◇
熊本より比較的、被害調査が進んでいる新潟だが、それでも認定患者は690人でうち胎児性はたった1人だ。これまで認定申請を棄却された人は延べ1315人。やはり認定基準が高いハードルとなっている。一昨年に国が敗訴した水俣病関西訴訟最高裁判決後、斉藤さんは診察に訪れる被害者に認定申請を勧めている。新潟県によると、同判決後の申請者は14人だ。
「水俣病できちんとした救済制度を確立しない以上、公害は繰り返される。薬害エイズ、アスベストの問題がそうだ。行政は被害が出てしまってから、慌ててその場限りの対策をとっている」。斉藤さんらの被害者救済運動は水俣と違い、当初から原因企業の昭和電工でなく国や県を相手に補償交渉してきた。それは、斉藤さんに「新潟で二度までも水俣病が出たことから、私たちは『公害をなくす』ことを目標にした。それには行政を変えなければいけなかった」との思いがあったからだった。被害実態の解明、被害者救済支援……。斉藤さんの苦闘はまだ終わらない。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2006年10月3日
ノーモア水俣病:50年の証言/24 忘れられた決議 /熊本
◇関西訴訟判決生かせ−−議員は救済法の立法を
いまだに水俣病被害者の全面救済の道筋が見えず、国の後ろ向きな姿勢が続く中、旧社会党書記長も務めた馬場昇・元衆院議員(80)は「今でも、あの決議は生きているはずだ」と憤りを隠さない。
「あの決議」とは、78年に衆院公害対策環境保全特別委員会が決議した「水俣病問題総合調査に関する件」のことだ。
73年に患者が1次訴訟で勝訴し、続く補償協定の成立後に、認定申請者が急増。審査が滞り、76年には長期未処分者が認定不作為の違法確認訴訟を起こし勝訴した。認定業務促進が緊急課題となり、県だけでなく国に審査会を設置することや、認定が増え賠償がかさむチッソを支援するための県債発行が検討された。
混乱の中で馬場さんは「原爆被爆者には救済制度がある。水俣病もそれに匹敵する法律を作るべきだ」と、抜本的な救済制度を考えていた。衆院法制局にも相談したが「被害実態が分かっていないので難しい」と言われた。ならば、と78年に「水俣病問題総合調査法案」を提案。不知火海の水銀汚染の実態をつかむための住民への医学的、社会的な被害調査を国、県、市町村が一体となって実施する内容だった。
与党・自民党は特別委で同法案より後に提案した国の審査会設置のための臨時措置法を先行審議するよう主張。そこで条件として「総合調査のための行政、立法措置の検討が必要」とする委員会決議を求め、実現した。
当時、総合調査が実現していれば、差別などをおそれて名乗り出られなかった被害者が、今になって大量に認定申請する現在の問題は、最小限に抑えられたはずだ。
「しかし、政府は決議を無視し続け、忘れられてしまった」
04年10月の水俣病関西訴訟最高裁判決後、県は対策として不知火海や沿岸の健康・環境調査を国に呼びかけたが、環境省はいまだに難色を示している。
馬場さんは水俣病発生地域の芦北町出身。中学、高校教諭時代から教職員組合活動を通じて水俣病患者を支援してきた。「親せきにも患者がいた。被害者は『水俣病と認められ、救済されたい』と願っている。その心を知った上で救済策を考えないと解決しない」と今も強い口調で語る。
水俣病国賠訴訟に対する裁判所の和解勧告が相次ぎ、解決ムードが高まった91年には「水俣病発生地域の住民の健康管理等に関する法律案」も作った。国、県、チッソで500億円の基金をつくり救済にあてる構想だったが「和解のさまたげになる」と党内からの異論もあり、国会提出はかなわなかった。
「国会議員は法律を作るのが仕事。今なら最高裁判決の内容をそのまま生かし恒久救済する法律を出したらいい。しかし、もう水俣病に詳しい議員はいないからね」。人間機関車の異名をとった熱血漢は、寂しそうにつぶやいた。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2006年10月17日
ノーモア水俣病:50年の証言/25 第3水俣病 /熊本
◇「シロ判定」のツケ今も−−停滞した水銀汚染究明
新潟での水銀被害が確認され、ようやく68年に政府が水俣病を公害認定した5年後。日本中を「水銀パニック」が襲った。きっかけは熊本大学医学部の第2次水俣病研究班が73年3月にまとめた報告書「10年後の水俣病に関する疫学的、臨床医学的ならびに病理学的研究」だった。
研究班は水俣や御所浦の住民の健康障害を改めて比較分析するため、非汚染地区として有明町の住民を検診した。ところが、疑いを含め10人が「水俣病」と診断されたのだ。「これは新潟に次いで『第3の水俣病』ということになり、その意義は重大。汚染源の調査研究が必要だろう」。報告書はそう総括したが、問題は有明町だけにとどまらなかった。
宇土市や福岡県大牟田市、山口県新南陽市(現・周南市)でも医師から水俣病類似患者の報告が続いた。チッソと同様に周辺で水銀を使ってアセトアルデヒドを生産している企業が汚染源と疑われ、あわてた旧通産省が調査。8工場で計352トンの水銀が回収されず、たれ流されていたことが分かった。「第4水俣病の恐れも」。水銀汚染を巡る報道も過熱。魚を食べることへの不安が広がり、東京・武道館では水産物販売団体が問題企業の操業停止を求める大集会も開かれた。最終的には旧環境庁の水銀汚染調査検討委員会が74年9月までに、有明町の10人を「水俣病の疑いはない」とシロ判定し、事態は終息した。
しかし、第2次研究班で班長を務めた熊本大名誉教授の武内忠男さん(91)は今でもこの時の判定に納得していない。
「シロ判定が下された検討委員会は結論ありきだった。最初から結論の文書は作られていましたよ。最後は委員長がそれを読み上げたんです」
シロ判定とともに未回収水銀による汚染の究明はうやむやにされた。「今も水俣病への関心はある。しかし、あの一件以来『研究をやってもたたかれるだけ』という気になりましてね。日本は本当は水銀汚染研究で世界をリードしなければいけないのに、ほかの学者もやらなくなった」。医学界にも大きな禍根を残した。
研究班の報告書が公表された直後、社会党(当時)の調査団として現地を回った元衆院議員の馬場昇さん(80)も「当時、有明町で話を聞いた女性は『足がしびれてどうにもならん』と嘆いていた。明らかな水俣病だった」と振り返る。「今も世界の各地で水俣病が続いている。結局、第3水俣病をうやむやにした結果、第4、第5の水俣病が起こってしまったということなんです」と当時の政府の責任の重大さを指摘する。
「ただ、行政、政府は第3水俣病を抑え込んだことで自信を持った。だから、いまだに認定申請者の急増に対し“第2の政治決着”といって抑え込もうとしている」と馬場さんは語る。第3水俣病事件で検討委と経済優先の行政を打ち崩せなかったツケが、今日の水俣病問題の混乱となってのしかかっている。【水俣病問題取材班】
毎日新聞 2006年10月31日

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