《だが諸君、このようにはかなげな見世物小屋が
またとあろうか。》
川端康成の初期の作品ということになるのだろうが、この「浅草紅団」とはなんと鮮やかな小説なのだろう。昭和初期のモダニズム都市・浅草。浅草という街に見せられた川端が、うずうずとするような土地の雰囲気を文字どおり抉り出して見せる。とりとめのない物語という印象もあるが、しかし、それこそがまたこのモダニズム都市浅草の性質に合っているという気もする。そして、そのモダニズム都市はあの震災の上に復興した街でもある。その街に不思議な活気と同時にニヒリズムを合わせ持ったような人間たちが集まってくる。特にラストシーンの印象は鮮やかだ。「いよいよ私だってことがわからないでしょう」という弓子の一言で終わるこの小説は、とにかくあちらこちらに延びていったまま還ってこない物語という印象を受ける。どこか、少年向けの探偵小説風の雰囲気も漂い、とにかく小気味よく、テンポよく、物語は勝手放題に延びていく。それは、読者である「諸君」と、それに浅草を紹介する作家の「私」と、そして対象である「浅草」と、というこの三つの位置関係も効果的に作用しているに違いない。この構造自体が、話者の気持ちの高ぶりを伝えるということを本質的に含んでいる。
そして、「浅草紅団」の印象に比べると、「浅草祭」はどうものろのろした印象が否めない。川端自身は、「浅草紅団」の方を失敗作であるかのようにコメントしているが、物語としての完成度はともかく、全体が持つこの瑞々しさはどうにも捨てがたい。この作品には、浅草の持つ生の肉体のようなものが、確かに現れている。

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