詩人(歌人・俳人含む)と評論家というのは一見遠そうでいてかなり資質的に近いものであることは言うまでもない。言葉自体の質感のようなものに敏感な人たちであるから、当然その視点から言葉を腑分けしていく。その腑分けが結果として評論になるわけで、だからその手際のよさは評論だけやっている評論家よりも面白い場合も多い。
面白いコメントがいくつかあった。
その一。短歌より俳句のほうが「モダンな感覚を盛り込み」やすい――これはどうだろう、歴史を遡れば確かにそのような気もするが、今現在という地層だけ見れば短歌のモダンな感覚もかなり羨ましくも思えたりする部分もある。短いからモダンな感覚を盛り込みやすいというのは一面真理だが、現代の時代において現代的な感覚を盛り込むのは長いほうがいいという部分もある。
その二。一部の現代詩人の詩は、「メロディーを持ちたくてしょうがないように読める」。それは日本語にはもともとアクセントの強弱があまりないから、言葉の表現が極まってくると必然的にそうなるのではないか、と言うのだ。なるほど、これはどこか真理を突いている。メロディーを持ちたいというか、メロディーを持てない言葉という束縛、そしてそこから来るメロディー的なものに対する嫉妬は、確かに現在の詩歌を考える上で大切な視点のように思う。
その三。戦後派の詩・短歌・俳句は「主観性を中心にした作品」が多かったが、これはそれを取り巻く社会環境などか変わった今ではかえって「単調」なものに見えてしまう。これは、実作者に対する警鐘として聞いたほうがいいかも知れない、的確な指摘だろう。作品の中で「自分」を出そうとして苦心した作品、要するに「オレの作品」を作ろうと思って苦心した作というのは、確かにその出来た時には力があって見栄えもするのだが、後日そのような「オレの作品」を並べるとどうにもどれも同じものに見えてしまうという陥穽が待っている。
「絵画にとっての色の重ね方は、詩にとっての暗喩の重ね方になる」。これは単純な詩的だが、面白い指摘だ。考えれば考えるほど、ここからさまざまな発見が広がっていきそうな気がする。

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