レトリックを学術的に記述するという行為自体は、正直なところあまり面白い作業ではない。さまざまな言語的表現を詳細に分類する行為は、どちらの分類にすべきなのかという境界的な事例を必ず産み出し、そこで用語の定義を巡った難渋な議論が始まることにもなる。要は、分類のための分類という、学問という技術が持つ悪い面が場合によっては前面に出てきかねない。実際のところ、実作をする人がそのような手法に充分に意識的に作っているとも思えない。表現はあくまで結果でしかなく、技法は後からついてくるような気がする。少なくとも、実作者が「これは換喩なのか、提喩なのか」と考えながらやっているという事実はないだろう。
とは言え、そのような行為をある一定の分類学的枠組から見ることにまったく意義がないというわけでもない。事後的な分類が、実作者にとってもあらたな発見に繋がることもある。つまり、無意識的にやっていることを意識の表面に上らせることで見えてくるものもあるのだ。この本でも例えば、直喩と隠喩の対照の指摘はなかなかに面白かった。直喩は読み手に対して「新しい認識の共有化」を求めるが、隠喩は読み手に対して「あらかじめ共通化した直感」を期待する。それは確かにそのとおりで、ということはすなわち直喩の方が表現手段としては冒険しやすいということになるだろう。直喩、暗喩に限らず、比喩表現における冒険と共感のバランスはいつも難しい。それは、言語における芸術表現の根本にも関わるテーマでもある。
ところで、そもそもレトリックとは西洋が出自の概念である。しかも、一方では「説得」の技術でもあり、一方では「芸術的表現」の技術である、という不思議な混淆。その上それが日本に導入されたとき(この本にもあるようにそれは近代になってのことなのだが)、促成的に導入されて根づいたにも関わらず、その頃には本場の欧州ではレトリック排斥の風潮が起きていたのだという。排斥の理由は、近代の人は「個性的なもの、独自なもの」を重視し、また「論理主義、実証主義」的でもあるため、不要な規則や飾りとしてのレトリックは軽視したというのだ。そのような、レトリックにまつわる奇妙な混淆と受難の歴史は、なぜだか非常に興味深い。こういうものはバランスの問題で、あまり重視しすぎるのも軽視しすぎるのもよくないと思うが、それで言えば今の時代はもう少し文体表現の技術的なものに意識的になってもいいくらいのバランスかも知れない。
ちなみに、この本の中で触れられている川端康成の比喩表現についての言及はなかなか面白かった。川端の作品からは「光」「水」「におい」「幼」「小動物」「神秘」「怪奇」「抽象」に分類されるイメージ群が抽出できるというのだ。確かに、川端の小説はどの物語も綺麗な輪郭を持つ、多くの場合派手ではないがしかし極めて鮮やかな、イメージを読み手に渡してくれる。比喩表現の積み重ねは確かに、そのようなイメージの形成にも大きく寄与しているのだろう。

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