『新藤涼子詩集』 投稿者: 管理者 投稿日: 5月10日(月)18時07分4秒
《なるほど
あの塔の頂上からのぞかれたのなら
わたしは死んだ鍋の底の蟻だ》
三島由紀夫体験ということを新藤涼子は綴る。その様は、確かに一詩人と一小説家の交友というよりは、どこか時代の事件めいている。三島由紀夫という存在は、言うまでもなく文学史にとっての一人物というよりは、時代の事件であった。彼は、多分小説家としての最後のスターだったのかも知れない。「どこのダンスホールでも、『三島さんが来ている』と、小さな囁きが段々大きな輪になって、海賊のような扮装の少年や、少女が三島氏を取り囲んだ」「銀座の裏通りを歩いていた時のことであるが、三島氏と同じように不思議な服装をした少年たちがよりそってきて、初対面であるのに、慣れ慣れしく、何時までも離れることがなかった。あっちの角、こっちの角と、ふらりと現れる少年たちの人数が多くなるさまは、映画のスターが歩いているようであり……」と彼女は記している。三島の割腹もまた、それはスターとしての素振りではなかったか。「三島氏が文学上の出立をされた、日本浪漫派の風土の中へ、あのような形式をとって帰りつかれたのだ」というコメントは、詩人としての新藤涼子が正しくあの事件を理解できているということだ。つまり三島由紀夫とは、戦前の日本浪漫派が戦争という壁を乗り越えて戦後の時代に送り込んだひとつの事件であったのだ。
--------------------------------------------------------------------------------
長谷川櫂『俳句的生活』 投稿者: 管理者 投稿日: 4月26日(月)18時12分32秒
詩とはどんなものでも、「孤心」から生まれる。それは確かに間違いのないことではある。だが、日本の和歌や俳諧は、その「孤心」が集まって織りなすという側面も持っていた。「孤独な心とその集まり」という、考えてみれば奇妙な取り合わせが日本の古い文芸を支えてきた。そして、さらに著者は面白い指摘をしていて、近代以降、俳句は「孤心」の歌である西洋の詩歌のような「孤心」の歌になりきろうとし、したがって近代の俳句には俳諧古来のもうひとつの側面である「うたげ」的な側面から眼を背けようとし始める。勿論、それがすべてではあるまいが、指摘としてはかなりいいポイントをついているように思う。俳句が第一芸術になろうとすればするほど、そこには表現者としての「孤心」や作品としての「自立」ということが忍び込み、結果として俳句はある意味で硬直する。確かに、意識的にもしくは無意識的に、多くの人の俳句に向き合う姿勢や方法が、そのような「孤心」や「自立」に縛られているということは言えそうだ。だが、実際にやっていればわかるが、そのような「孤心」や「自立」だけでは、俳句は窒息する。それが不必要なわけではないが、俳句のもうひとつの大切な側面としてそれが「うたげ」の文芸、「座」の文芸であるという事実は、必要以上に強調してもよいかも知れない。
--------------------------------------------------------------------------------
中沢新一『緑の資本論』 投稿者: 管理者 投稿日: 4月19日(月)17時39分24秒
イスラーム。あるいは、イスラームと資本主義。冷戦時代にはあまり目立たなかったといってもよい、世界におけるもうひとつの対立軸がこのところとみに鮮明になっている。そのことを、「圧倒的な非対称」と著者は語る。その圧倒的な非対称性ゆえに、そこに「交通の風穴」をあけるためには「テロによる死の接吻ないし破壊」だけが残された手段となってしまう、というのだ。
その非対称の世界におけるキーワードは「自己増殖をおこなうもの」である。そのような「増殖のアポリア」に対して、ユダヤ教もイスラーム教もネガティブな態度をとったが、キリスト教は違った。そのことが、今のキリスト教世界における資本主義の隆盛を許した。キリスト教とイスラーム教のその違いは、単に「一神教の初期条件」の違いにあった。そして、それゆえに資本主義はすべて「貨幣のオカルト的魔術」によって犯され、結果として「資本主義は必然的にヴァーチャル化していく」。資本主義の夢とはまさに、「毎日がクリスマス」であること。一方のイスラームは、「長い歴史をかけて、人間の住む世界のすみずみにまで、一貫した原理を浸透させようとした」。そこでは資本主義社会のように、いかなる意味でも「想像界の水増し操作」が行われることはない。
そのようなことの結果として生まれた、「圧倒的な非対称」。その交通のためのテロリズム。僕自身、イスラームには詳しくない。だが、確かにあのイスラームを歩いていると、隅々までにリアルな生活原理を一貫させようとしている雰囲気がある。ヴァーチャルな資本主義からは愚鈍とも見えかねない生き方。勿論、どちらが正しいということではあるまい。だが、ヴァーチャルな資本主義がはらみはじめたいくつのも問題を見ていると、イスラームという世界はひとつの参照項としてはきわめて有効なように思える。あの日マンハッタンを襲った旅客機たちも、確かにそのことを告げるための使者としてやってきたのだ。
--------------------------------------------------------------------------------
川村湊『戦後文学を問う』 投稿者: 管理者 投稿日: 4月15日(木)19時17分30秒
戦後文学をいくつかの視点というかテーマごとに整理してみせるのだが、その手つきがなかなか鮮やかでよかった。苛烈だった戦争の余韻、そして長く続いた政治の季節、そのあとに来る空白のように浮遊する時代。そして、当然のように文学はそれに相応した足跡を刻む。例えば、戦後文学とはある時期まで過ぎ去った「戦争」といかに対峙するかということと同義であったに違いない。そして、その帰結として天皇制との対峙ということも露出する(例えば「風流夢譚」や「セヴンティーン」あるいは逆説的な意味で「パルタイ」)。そして、そういったものと並行して「性」「車」といった風俗や「家」というテーマ群が登場してくるのだが、それらは結局のところ「アメリカ」というものの影に他ならない。「天皇」という王から「アメリカ」という王へ。その緩やかな流れが戦後文学というものの全てを規定している。そして、その分水嶺となったのは言うまでもなくベトナム戦争だろう。
それでは今はどうなのだろう。アメリカナイゼーションの果てで、例えば「性」などは現実が文学を追い越してしまったのだろう(それは宇野鴻一郎を見ればわかる。実は彼自身の位置は変わらないまま、ただ時代の流れがその位置を文学の先端から風俗小説の中へとなし崩し的に押しやってしまったのだ)。そして、個室化した車やマイホームに閉じこもる人たちは、もはやこれまでの日本的風土とは位相を異にしている。どうあがいたって、アメリカナイゼーションは日本流のやり方で深く浸透してしまっている。
著者が面白い指摘をしていて、そのようなアメリカナイゼーションに対するアンチとして「ラテン・アメリカ」(北米に対置するものとしての)的な日本文学が登場してくる。あるいは、「亡命」というテーマも。だがあるいは、もっと別な逃げ方もあるのかも知れない。例えば、笙野頼子。90年代に入って、「〈戦後文学〉という枠組みが、もはやどんな意味でも有効性を持たなくなった時代の始まり」とともに、彼女の作品もまた評価され始めたと著者は指摘する。それは確かに、「〈アイデンティティー〉と〈リアリティー〉という二つの文学用語が、文学の世界で力を持ちえなくなかった」時代の到来と一致していたのだ。
いずれにせよ、我々の目の前には確かに「アメリカ」がある。いかなる形でアメリカと対峙するか、戦後日本が長らく直面してきたこの問題に、今や全世界が直面していると言ってもよい。
--------------------------------------------------------------------------------
宗左近『夜の虹』『いつも未来である始原』 投稿者: 管理者 投稿日: 3月31日(水)17時48分14秒
這い登る蝸牛 バスが出る
跳ね橋を跳ねさせないでいて 十六夜
乗客二個 車掌一人 月零個
仏壇よ 神棚よ 宇宙虹よ おおい みな
何とも関係のない大欠伸 敗戦日
何の言い訳の黄色 死刑執行人 ライスカレ
八月 黒い日の丸を墓に挿しただけ
俳句ではない。詩でもない。著者の言葉によると、「俳句以前であって現代詩以前」の「中間」のもの、ということ。なので、俳句として見ること自体が誤りなのであるけれど、とは言いつつ俳句を見慣れた眼からすると、どうにも違和感が拭えない。俳句として出来が悪いなどという意味では勿論ない。そういうこととは関係なく、ただなんとも座り心地が悪い、というのが率直な感想だ。
この座り心地の悪さはどこから来るのだろう。まず、俳句としてはややドラマチックすぎる言葉に偏っている。「夢」とか「罪」とか「死」とか「宇宙」とか「神」とか「鏡」とか。俳句の世界でもこのような言葉を好んで使う人は確かにいる。それが悪いわけではない。だが、この手の言葉は俳句の中では相当に覚悟を決めて使うべき言葉だ。言葉自体が強い磁場を持ちすぎているから、大抵の場合一句として成立する以前にその言葉自体に押しつぶされてしまう。多分、詩だったらこのような言葉を受けとめるキャパシティがあるのだろう。だが、俳句は短いがゆえに濃厚すぎる言葉は多くの場合アンバランスをもたらす。それが座り心地の悪さの一因。
そしてもうひとつ。言葉が濃厚な割に構成が淡泊に見える。俳句の場合はもっと言葉を折り込むという作業をするものだが、ここでの言葉は全般に一層構造になっていて、俳句的な影絵がない。勿論、それは切れ字というテクニック的なこととも関連するのだろう。おそらく、この二冊の本では「や」「かな」は使われていないと思う。いや、それだけでなく切れ字的な感覚が全体に希薄だ。それが、構成が淡泊に見える理由だと思う。それと、もうひとつ季語に対する淡泊さということもあるはずだ。世界を精密に腑分けする言葉としての季語を使い慣れた俳句の眼からは、季語をあまり使わない詩の世界はどうしても淡泊にも見えてしまう。
繰り返すが、決して宗氏の作品を貶めるために言っているのではない。ただ、氏自身が「俳句以前」と呼んでいる一行詩から、逆に見えてくる俳句の固有性を考えて見たかっただけのこと。そうやって考えると、現代詩的なものは言葉の前面に立つ輪郭の濃厚なものを好むが、俳句はむしろ言葉が創り出す微細な影絵的なものを好む、ということは確かに言えそうだ。