五七五というのは、考えれば考えるほど興味深い問題であるし、確かに多くの人がこの定型ということに思考を巡らせてきた。果たして、それが五と七であるということに必然性があるのかないのか、そしてそれは日本人の固有性とどこか繋がっているのか。
五と七は、そうでなければならない必然性があるし、それは日本人の固有性(おそらくは呪術的なもの)と繋がっている−−そう考えたい、もしくはそう考えるほうが「神話」として魅力的ではある、というのはわかる。だが、冷静に考えれば五と七など、それは単になる偶然の上の産物でしかなかったのかも知れないし、そしてさらには決して日本人の何か霊的なもしくは生理的な部分に根ざすもの、ということでもないのかも知れない。
いずれにせよ、短詩型に手を染めた者であれば、少なからず興味を抱くであろう、五と七をめぐる上記のような問題に、著者は取り組んでいる。それは勿論、そもそも日本人にとってどのように「詩」が発生したのか、という問題とも密接だ。だが、著者は「神話」的なものには惑わされることなく、冷静に五と七の問題について考察をしていく。それが「神話」であるかどうかはともかく、確かに五と七の問題は日本人にとっての「詩」を考えるときには避けて通ることはできないことではあるだろう。
ところでこの本には、そのような「起源」についての考察ばかりでなく、現代の俳句についての考察もあって、これが非常に興味深かった。「詩」や「文学」や「映画」ほど、「俳句」というジャンルはそれが「滅びた」もしくは「滅びる」と言われることの少ない存在である。だが、勿論「俳句」にもそのような「滅びる」という現象がありうるという当然のことを著者は指摘する。だが、滅びるとはどういうことなのか。それは、後世の人間がその時代の「俳句」について誰も言及しなくなるとするなら、それは実は既に「滅びている」ということになる。あるいは、後世の人々がそれを「俳句」という名称でなく、他の名称で言い表そうとするなら、それも実は「俳句」が「滅びている」という言い方もできる。どちらもつまり、今現在の我々は「俳句」が「滅びた」などと些かも思っていないにも関わらず、後世からの評価によってそれは「滅びている」ということになる。実際、そのような視点から「狂歌」も「俳諧」もあるいは「雑俳」も滅びていったとも言える。
そしてそのような視点から、著者は今現在「俳句」は滅びているのかどうか、という非常に興味深い視点から、現代の俳句を考察する。さらに、著者はこんなことも言うのだ。近代の「俳句」とは他文芸との対比から成立しているものであり、つまり「近代が発見した俳句とは、『俳句とは何かを尋ねる』論理と実践の行為である」なのだ、と。確かに、俳句はいつも他の文芸もしくは表現行為からの距離を測ることによってのみかろうじて存在しつづけているようなところがある。俳句を創るということ自体が、潜在的に俳句という形式自体について考察をしているようなところがある。にも関わらず、実はそのようなことをあまり実作者が意識しなくなってから、既に数十年の時が経っているような気もする。自身の形式に対する自問自答を忘れた俳句。あるいは、実はそれが著者が言うように既に俳句は滅びているということの証拠なのかも知れない。そのことの真偽はともかくとしても、俳句は確かに自らに対する自問自答を唯一の存立基盤としてきた。その自問自答を忘れ、その存在を「第二芸術論」に打ち勝った日本の伝統芸能であると安閑と捉えているとするなら、確かにそこにこそ俳句の滅亡があるのかも知れない。