前衛仏教という不思議なタイトルに惹かれて読んでみたが、なかなか面白かった。言っていることは至極まっとうで、形骸化あるいは商売化した現代の仏教に著者は批判を浴びせる。勿論、現在におけるすべての仏教がそうだということではないだろうが、そういう面が多かれ少なかれあるということも否定できない事実かも知れない。
確かに寺とは、今ではまるで葬式や法要のためだけにあるかのような施設となっている。しかし、本当はもちろんそんなことだけの施設のはずがない。霊的施設であると同時に、文化施設であり、真理探究施設であり、芸術施設であり、つまりは現世と形而上的なものを繋ぐチャネルとして存在するのが寺であるはずなのだ。本来であれば、霊的なものは芸術に繋がり、文化に繋がり、そして真理に繋がっていく。
であるのだがしかし著者の指摘するように、現在の寺という施設の多くはそのようなチャネルを開くはずの方法が単なる儀式として形骸化しているようにも思える。著者がこんなことをコメントしている。「伝統的な修行形態」は、「行者の霊性開発の上で最も効果的な方法」を長い時間の実証を経て方法化した「貴重な精神遺産」なのだが、それが「固定」化され、「形」だけを維持しようとすると途端に「効力が落ちて」しまう、と(著者は、禅寺の厳しい修行も「まったく役に立たない」と断言する)。決して形式化すること自体が悪なのではないと思う。形式化することによってひとつの洗練に繋がる場合もあるからだ。だが、形式化したものが、人から人へ、もしくは世代から世代へと受け継がれていくうちに、確かに「効力が落ちる」ことは事実としてある。とすればそれはやはり、洗練された「形式化」と言うよりは、単なる「形骸化」と呼んだほうがよいだろう。そしてそれは別に仏教だけでなく、さまざまなジャンルに見られることではある。だが、そのような「貴重な精神遺産」を多く抱えるはずの仏教だからこそ、少なくともその「形骸化」の危険性に十分に意識的であってほしいと思うのだ。そうでないと、折角の遺産が本当にもったいないことになる。
勿論、僕自身は仏教に明るいわけでもないし、修行を積んでいるわけでもなく、そもそも仏教について何かを語るのすらおこがましい立場ではある。しかし、確かに世の中には著者が批判するような豪華な自家用車を乗り回す僧侶はいるし、寺という施設が開かれた心の拠り処というよりは閉鎖的な儀式と権威(さらにはそれを利用した金儲け)のための空間になっている例を耳にすることもある。
そんな中で、現在において宗教的なものを真摯に求めようとするなら、新興宗教的なもの、さらには宗教以外の何かにそれを求めるのがあるいは正しいことなのかも知れない。著者も、「伝統を従順に踏襲するのではなく」、「出家在家の区別なく」「自分の物語を生ききること」が実は仏教的なことである、とする。ともあれ、僕自身、仏教的なものは好きだし、ある意味で単純なる「仏教ファン」の一人として、仏教がその「貴重な精神遺産」たる長所を十分に発揮してほしいと願う。

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