禅が持っている雰囲気というか、それは和文化に共通する雰囲気かも知れないけれども、どこか凛としてシンプルなあの気配は結構好きなのだ。そんなわけで禅の思想みたいなものにも昔から興味があるのだが、禅の思想というのはまさしく「禅問答」という言葉が揶揄的に使われることもあるように、いささか難解だ。
そのことを一概に肯定も否定もしたくはない。それには当然のようによい面も悪い面もある。難解であることは魅力でもあるし、実際に「不立文字」的なもの、つまり言葉では言い表せない精妙さもあるはずだ。だが、多くの人を相手にした説法で難解なそぶりを見せるくらいなら、「みなさんの隣人を愛しなさい」と説くキリスト教の説法のほうがよほど実効的ではないかという気もどこかでする。ともすると、高度な「悟り」を目指した禅という作法は、時としてそのような実効的な社会性を欠いてしまっている場合があるようにも思えなくもないのだ。つまり、その教えを実行することによって、本当に社会全体がよくなるのか、いささかその実効性に疑問を抱く場合もあるということ。
勿論、禅という教えは白亜の塔のごとくに浮世離れした抽象的論議を繰り返すだけというわけではない。瞑想などの実践も伴うのは勿論のこと、さらには俗世間の中に入っていく(それは「塵」や「水」や「泥」として表現されるらしい)ということも禅の精神の中にはある。だから、禅がまったく没社会的な世界というわけではない。だが、禅の精神の中にそのような没社会的な雰囲気があることは事実だろう。それが禅の魅力でもある一方、欠点にもなりかねないような気がする。
この本の作者自身も語っているのだが、禅の「弱み」として、「未来を批評的に観測してどれかを選ばなければならない場合、禅はほとんどその基準を提供してくれない」のである。ただし逆に、選んだことに対する「覚悟」は禅的に作ることができる。要は、あくまで事後的な達観に主眼を置いている宗教のようにすらも思える。それが、どうにも没社会的というか、どこか社会に対して実効性を欠いているようにも思える原因だろう。ある意味では最近流行の「スピリチュアル」もののほうが、そのような実践的選択肢の提示という意味では実効的なことを語っている。
誤解しないでほしいのだが、別に禅を貶めようという意図ではなく、ましてやこの作者を貶めようという意図はまったくない。禅的なものに大いに興味を持っているし、むしろその持っている何かが好きだからこそ、その社会的なアピール方法について何かもどかしいものを感じてしまうということが言いたいのだ。少なくとも、禅というものが現代の社会と関わるときに、どこか孤高めいた事後的な達観と難渋さに満ちた宗教として映るとしたら、それはもったいないことだ。繰り返すようだが、物事には当然のようによい面とわるい面の両方がある。禅的なものの悪い面が、奇妙な亜流を生んでその本質を著しく損ねることがないよう、もっと現代社会との接点の中でいろいろ工夫できることはあるのではないかと、一人の門外漢としては思うのである。

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