《菜の花の色は私にも見えた。車の明かりが流れ過ぎるたびに、
菜の花の色は浮かび出て消えた。》
文庫の解説に、「川端にとって死者がかえって生きかえり、生けるものがそのまま死者にさも似たものと見えるような、生と死との倒錯が、その作品の上にしばしばあらわれるようになったのも、戦後のことといえようか」とある。確かに、戦後の川端の作品にはそのような現世とも冥界ともつかない奇妙な感触が顕著に漂っている。
勿論、戦前の川端の作品にも幻想的な作品はあった。だがそれは、あくまで現世と切り放された幻想というか、少なくとも現世とは違うものとして幻想はあった。だが、戦後の作品は不思議なことに現世を書きながら、まるでそれが冥界のようというか、何か冥界的なものにどっぷりと浸された現世の世界が延々と続く。そこでは既に現世と冥界の区別もなく、奇妙に現世と冥界が表裏一体となった世界が展開されるのだ。
それにしても、一体何がそのような感覚を抱かせるのか。実際に、副次的な登場人物として死者が登場する小説もある。あるいは幽霊めいたものが登場する小説もある。だが、川端の小説が冥界めいているのはそのせいではない。
例えば、登場人物のふとした行動が、まるで冥界との扉であるかのように思わせるときがある。眠ること。何かを焼くこと。花を見ること。穴から覗くこと。そのような登場人物の何気ない行為が不意に冥界の来迎を告げるのだ。勿論、そのような感覚を抱かせる小道具もある。例えば、写真や鏡。とは言え、鏡や写真が冥界に通じるというのであれば、それは結構平凡な見立てに属するだろう。だが例えば、短編「水月」に出てくる、二階に寝ている夫に「二つの鏡」を通して地上の菜園の様子を見せる妻の行為、これはなんとも精妙な、まるで世界の微かな揺れをも見逃すまいとする行為のように見える。あるいは「名月」の中の、車のヘッドライトによって萩の花を主人公に見せようとする姪の行為、それもどこかとてつもなく現実的で同時にどこか果てしなく夢幻の世界のことのように思える。このような行為全体を通じて、現世の背後にぼうとした冥界が立ち上がる。そのような行為を通じて、登場人物たちは現世の中に揺らめく不思議な色や艶やかさを発見する。地上の菜園に比べると二枚の鏡を通した菜園は「鏡のなかの木々は実際よりもしたたるようで、ゆりの花の白は実際よりも鮮やかだった」となり、夜に咲く萩の花の色も主人公には一生忘れられないものとなる。世界がみずみずしく、艶やかになる瞬間、世界はまるでその秘密を開示するかのように、ぼうとした冥界を見せようとする。
そう、川端にとって冥界とは暗く鬱陶しいものでは決してないのだ。なまめかしく、艶やかな存在としての冥界。だから、それはいつも生きている人たちの背後にある。それは決して明るいというわけではないが、不思議な光に満ちている。あるいは色に満ちている。柔らかく解け合って滲んでいるような、それでいて不思議に冴えて生き生きとした色。そして、そのようなときに植物たちが不思議な役割を果たしていることも忘れてはなるまい。川端の作品に描かれた植物たちの姿は、どきりとするほどいつも美しい。

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